訳の違いについて
「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち馬鹿が出てくる。」
ドイツの詩人、シラー(ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー)の言葉です。今回の下調べで、本名と一般的な訳を初めて知りました。
高校時代、「馬鹿が出てくる」ではなく、「愚かになる」と記憶していたので、この記事では、長年慣れ親しんだ「愚かになる」の訳を軸にします。ドイツの詩人シラーの言葉としか知らず、原文にも触れたこともないので、解釈が大きくずれている可能性はあります。その点、ご容赦下さい。
高校時代の捉え方
初めて知った時、「人間は集団になると愚かになってしまう」と、単純に捉えていました。イナゴの大群(蝗害)と同じで、分別が無くなり、無我夢中になって集団の流れに従ってしまう生き物だと。
でも、昔の記事、tn10.「人間は考える葦である」(パスカル)を考える と同様、
後になって考え直すようになりました。
この言葉の真意
「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち愚かになる。」について。結論から言うと、この言葉の真意は何か、確信は持てていません。まるで論理パズルのような仕掛けになっていると思ったからです。
まず、言葉を前半と後半、二つに分けて考えてみます。
「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが」
前半部分、「ありげ」が曲者です。普通に解釈すれば、「ありそうだが」という意味になり、決して「分別がある」とは言っていません。むしろ、初めから「分別など無い」という意味で使っているように思われます。
「集団をなせば、たちまち愚かになる」
後半部分、「集団をなせば」と「愚かになる」が曲者です。捉え方が多様で、どれが正しい解釈なのかつかめないままです。悩んでいる例を挙げます。
1.集団をなさなければ、愚かにならない
2.集団をなさなければ、利口である
3.集団をなせば、(誰もが)愚かになってしまう。
4.集団をなせば、(一人ひとりは利口なのに)愚かな行動に出てしまう。
今回、これに、「集団をなせばたちまち馬鹿が出てくる」の訳を加味するとさらに複雑になると思いました。
5.集団をなして、馬鹿な人間が出てきた結果、
→5a.馬鹿な人間に誘導(支配)されてしまう。
→5b.馬鹿な人間を排除する。
どちらもいい感じがしない解釈です。
後半と前半を入れ替える
この言葉の巧妙さは、後半部分の解釈が、前半部分に跳ね返る点です。
わかりやすいように、前半と後半を入れ替えてみます。
「人間は、集団をなせばたちまち愚かになるのに、一人ひとりを見ると利口で分別ありげだ。」
すると「分別ありげ」の部分が実は「分別など無い」と思えてきます。つまり、
「人間は、集団をなせばたちまち愚かになるのだから、一人ひとりも利口ではないし、分別もない。」
という解釈も成り立ちそうです。
真意の仮解釈
上では「真意は何か、確信は持てていません。」と書きましたが、ひとまず、シラーの言葉の真意を「集団をなしても愚かにならない(馬鹿が出てこない)ようになるまでは、一人ひとりが利口になったとは言えない」と意味だろうと考えていました。これは仮の解釈です。ここから、更に考えてみました。
幾つもの解釈例
ネットで見る限り、「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち馬鹿が出てくる。」についての解釈は様々のようです。以下、見受けられたものを列挙します。
肯定的に見る人
・実際その通りだと思う。集団になると、ついてこれない者が出てくるものだ。
・集団になりたがる者が愚か(馬鹿)という意味であり、人間には個人主義が合っているということ。
・一人ひとりなら、利口なふりができてしまう。しかし、集団になると愚かさ(馬鹿)が露見する。
否定的に見る人
・この言葉を真に受ける者が馬鹿という意味。
・利口そうに見えても、いつ馬鹿になるかわからない。
・人間が利口でいられるはずがないという見事な説明。
いろいろな捉え方がありますが、自身が愚か(馬鹿)の側だと考えるのか、そうでない側かで、また意味合いが代わって来そうです。
愚か(馬鹿)とは何か?
「集団をなしても愚かにならない(馬鹿が出てこない)ようになるまでは、一人ひとりが利口になったとは言えない」を仮解釈とした一番の理由は、シラーが、何を愚か(馬鹿)としているのかが判然としないからです。
これまで「愚かになる」の訳しか知らなかったので、集団全体が愚かになる意味だと受け取っていました。でも、「馬鹿が出てくる」となると、集団の中で馬鹿な者、または馬鹿なグループが出てくる意味にも、集団が持つ馬鹿な体質の意味にも取れそうです。
ここでいう愚か(馬鹿)とは何を意味しているのでしょう。思いついた候補をあげてみます。(※すべて、私の考えによる候補です)
- 集団のルールからはみ出してしまうこと
- 集団のやり方に反抗すること
- 集団のどんなルールに従い、支配されること
- 真実より多数の意見、力のある者の考えを信じてしまうこと
- 集団を変質させること、乗っ取ること
- 権力や地位にしがみ付くこと
- 集団に合わない者を集団から排除すること
- 社会正義より、自分の損得に走ること
いろんな考えが巻き起こってキリがありませんが、視点を2つに絞るとわかりやすい気がします。つまり、
- 集団の指導者(支配者)としての愚か(馬鹿)
- 集団の構成員(被支配者)としての愚か(馬鹿)
です。シラーの言う、愚かになる(馬鹿が出てくる)とは、指導者(支配者)のことでしょうか、構成員(被支配者)のことでしょうか。ただ、この考えを進めると、愚かな指導者を出してしまう集団も、愚かな構成員を出してしまう集団も、結局、愚かであることに変わらないという答えに行きつきそうです。
シラーの生涯
今回、考えるヒントとして、初めてシラーの生涯を知りました。それをまとめてみました。( 参照:フリードリヒ・フォン・シラー - Wikipedia )
1759年にドイツで生まれたシラーは、幼少より頭が良かったものの、強制的に軍人養成学校に入学させられます。法律を専攻し、心理学の例として学んだシェイクスピアやゲーテなどの作品に触発され、自身も執筆活動を始めます。
1781年、シラーは処女作『群盗』を匿名にて発表。この作品は疾風怒濤時代の理想に燃える青年としてのシラーの、自由への願望と正義心の現れたもので、若者に熱烈な支持を得ます。しかし、一方で、領地外に出ること禁止された上、医学書以外の著作活動を一切禁じられ、半ば幽閉のような生活を強いられます。
その後、亡命。困窮生活を送ることになりました。シラーの戯曲に感動した生涯の親友となるケルナーからのファンレターを頼って、二人は出会います。ケルナーと周囲の人はシラーの生活を全面的に支援し、それに感激して「歓喜の歌」(のちにベートーベン交響曲「第九」の歌詞になる)を作るのです。
1790年にシャルロッテと結婚。その後、歴史学、カント哲学を研究しながら著作を発表。1792年にはフランス革命名誉市民に選ばれています。処女作『群盗』がもたらした「反抗」の精神を高く評価されたそうです。1794年にはゲーテとも親交を深め、独自の文学様式を確立、シラーの才能はさらに開花し、数多の作品を世に送り出しています。
1799年11月、長女カロリーネが、1804年には次女エミーリエが誕生。その間にも、ジャンヌ・ダルクを題材にした『オルレアンの乙女』、スイス独立運動を題材にした『ヴィルヘルム・テル』等次々に発表しています。
1805年5月9日、ヴァイマルの自宅にて急性肺炎により永眠。
論理パズル的解釈
シラーの生涯を少し知っただけで、「人間は一人ひとりを見ると…」の言葉が、「人間は愚か(馬鹿)である」という単純な意味には思えません。彼は、集団に従わされた身でありつつ、集団を鼓舞した指導者でもあると思えるからです。
また、シラーは困窮生活の経験もあり、歴史を深く学んでいることもあり、人間が一人で生きていけないこと、集団の中でしか生きられないこと、そして集団が愚かな行動に出てしまう(馬鹿が出てくる)こと等をよく知っているはずです。人間は利口と愚か(馬鹿)の両面があり、その両面を作品に映し出してきたはずです。(彼の作品にきちんと振れたことは無いですけど、多分。)
まるで、矛盾を含んだ論理パズルのようです。
結局、今回、こう考えることにしました。
「人間は一人ひとりを見ると利口で分別ありげだが、集団をなせばたちまち馬鹿が出てくる。」とは、人間への期待と警告である。
仮解釈では前半と後半を入れ替えて、「集団をなしても愚かにならない(馬鹿が出てこない)ようになるまで、一人ひとりが利口になったとは言えない」としましたが、それを元に戻し、逆説的に考えてみました。
「人間は一人ひとりを見れば利口で分別がありそうだから、集団になってもたちまち馬鹿が出てこないようにできるはずだ(気をつけろ)。」
もっとも、現代社会においても、これは難問中の難問であるようです。
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