tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

「元気を出す方法」と「元気になる方法」は同じ?違う?

今週のお題「元気を出す方法」

「勇気を出す」とは言うが「勇気になる」とは言わない。

「健康になる」とは言うが「健康を出す」とは言わない。

 

今まで疑問に感じずにいたけれど、「元気を出す」って何だろう。「元気になる」とは意味が違うのだろうか。「出す」と「なる」の違いだけのようでもあるが、「元気を出す」と「元気になる」で、「元気」の意味が少し違うように思う。

 

この違いがわからなければ、「元気を出す方法」と「元気になる方法」とを区別できず、「元気を出す方法」の記事は書けない気がした。

元気とは?

そもそも「元気」とは何だろう?

「元気」は体の中に有るものだろうか。無ければ「出す」ことは不可能だろう。それとも「元気」は体の中に無いものだろうか。これから「なる」ものなら、現時点では持っていないはずだ。

 

そんなことを考えながら「元気」の意味を調べた。

goo辞書

1. 心身の活動の源となる力。2. 体の調子がよく、健康であること。また、そのさま。3. 天地の間にあって、万物生成の根本となる精気。

大まかに言うなら、元気には「(気)力」、「好調(状態)」、「精気」の3つがあるようだ。「元気を出す」は「力を出す」、「元気になる」は「好調になる」、「元気をもらう」は「精気をもらう」、そんなイメージだろうか。

 

「元気を出す」とは

元気を「出す」と言うからには、本来、体の中に備わっている物とのイメージになる。上手下手や強弱はあろうけれど、自分の中に存在していて、それを上手くコントロールして増幅や強大化させて、外に出す力という感じ。

 

だからまず、その体の中に、どんなに弱々しくても、元気は確かにあるととらえることが必要だと思う。その点で「命」に近い意味にも思える。つまり「元気を出せ」と言われて「元気(命)が無い」はと答えるのは「元気」の意味が噛み合っていないと思われる。正しくは何らかの原因で「元気が出せない」だけであって、その原因を取り除いたり、別の動機をもったり、その気になったりすれば、元気を出すスタート地点に立つことができるのだと信じよう。いや、信じる信じないに関係なく、条件が揃えば人間は元気を出せるものなのだ。

 

つまり、「元気を出す方法」とは、「元気を出せる条件を揃える」と同意ではないかと仮定する。

 

元気を出せる条件を揃える

そう考えると、ずいぶん具体的に考えられそうだ。

「美味しいものを食べる」、「十分な睡眠をとる」、「栄養を摂る」、「好きな人に会う」、「笑う」、「買い物をする」、「嫌な人に会わない」、「嫌なことはひとまず忘れる」、「良いことだけを考える」、「旅行に出かける」、「好きな仕事をする」、「生きがいを見つける」、「給料を上げる」、「社会保障を充実させる」、「弱者の意見も尊重される」、「政治を変える」…

 

後半、自分一人だけではできない事も書いたが、元気の出る社会になれば、個人もさらに元気を出せるという思いが私にはある。

 

1人で何百、何千万、さらに億という単位の裏金問題で注目される議員のほとんどがお咎めなしでいて、コンビニおにぎり一個や、コーヒーのサイズのごまかしで庶民が起訴されたり職を失ったりする。この不公平感をなくすだけでも、社会も人もどれだけ元気になれるだろうか。不正をはね付け、真っ当に生きようとする人が元気でいられる社会は、どれだけ多くの人を元気にするだろう。物価高に負けない賃上げ、個人の生活が尊重維持される労働条件、それらがあれば、苦も無く元気を出せる人は多いはずだ。

 

「ゆっくり寝たい」を許さぬ労働条件。「美味しいものを腹いっぱい食べたい」を躊躇させる賃金。「小さい子どもも一緒に旅行をしたい」思いを後ろ向きにさせる社会の不寛容。今の社会は、我々の元気を出す方法を阻む物が多過ぎないか?私たちの元気を奪う力が強すぎないか?そして、そこから目を背ける世に流されていないか?

 

元気を出す方法を奪われることはそのままに、別の元気を出す方法を懸命に探すことで、果たして本当に元気を出せるのかとの疑問は膨らむばかりだ。

 

「元気なる方法」

「元気を出す方法」を「元気を出せる条件を揃える」として考えてきた。それは「元気の素は誰もが持っていて、それを増幅、強大化させることで、元気が出る」という前提であった。

 

この考えに倣えば、自身の好調を維持する意味で「元気になる方法」も見えてくる気がする。「元気になる」ということは「何かが変わる」ことを内包していると思う。つまり、その時点の自分が元気になれずにいるのは、何かが無かった、或いは足りなかったということではないだろうか。ならば、その何かを得られれば、何かが変わり、結果、元気になるということだと考える。

 

「元気になれない」時、上述の意味に従い「好調でない」時に不足しているものと考えれば何が挙げられるだろう?

「睡眠」、「栄養」、「健康」、「元気を維持する薬、道具」「精神的余裕」、「経済的余裕」、「希望」、「明るい展望」…等と考えていくと「元気を出せる条件」と重なるものも多いが、そうでないものも見えてくる気がする。

 

また、好調を阻害する要因もありそうだ。「人間関係のストレス」、「プレッシャー」、「ハラスメント」、「いじめ」…そうしたものが無くなるなら、元気になれる人も多いと思う。否、無くならないまでも、軽減するだけで違ってくる気もする。さらに、軽減できなくても、新たな視点を得るだけで変わることもありそうだ。例えば「人間関係のストレス」と感じていたものが、その人を理解する、その人に理解されることで、ストレスが減り、元気になることはあり得る。

 

やや、強引だとも思うが、新たな「知識」、「理解」、「視点」等を得ることも元気になる方法だと思う。このブログでも幾度か記事にした「わかる楽しさ、できる喜び、役立てる有用感」も元気になることと大きく関わる。

「わからないから元気(やる気)になれない」ことは珍しくない。何かに気づけるかどうかが左右する場合も多い。学習はその連続だ。家庭教師をしていて、子どもが毛嫌いしていた計算が、何かの拍子で理解できたとたん、一転、元気になり、意欲満々で解き始めたなんてこともある。

 

①(  )÷3=2 ②(  )÷4=3 ③(  )÷6=8 …

等の問題で、(  )にいろんな数字を入れて答えを探している内は、③なんてやる気も起きない。でも、割る数×答えで(  )の数が出せると分かると、途端に元気になって、あっという間に終わらせてしまう。

 

知らない、気づかないことで、元気を無くしていることは存外多い。

もちろん、それで全て解決することばかりではない。しかし、知るだけで、気づくだけで、元気になる場合は確かにある。

 

政治に無関心な人が多いという。国政選挙でも、投票率が5割を切る地域もあるほどだ。それは政治を変えて元気になる方法に気づかず、別の元気になる方法を懸命に探し続ける人が多いという証にも思える。

 

まとめ

元気と政治の関係に考えが至ったので、その流れで記事をまとめたいと思う。

 

元気とは本来、一個人の中に備わったものだと書いた。「命」に近いとも。それは人権に近いとも思える。「元気を出す」とは、個人として幸福を追求する権利を発現させることではないだろうか。疲れたから寝る。お腹が空いたから美味しいものを食べる。気分転換に散歩する。それらと同じように、生活が苦しいから政治を変える。そのために選挙に行き、期待の出来る人や政党に投票するという選択肢はもっと身近になっていいはずだ。

 

ところが、投票しても政治は変わらないと思わされてしまうと、投票が元気を出す行為とは感じられなくなってしまう。

 

裏金問題で政治不信が広がっているとされるが、その話をいくら聞いても元気は出ない気もする。しかし、裏金に頼る政治は認めない、裏金を許さない政治に転換するために投票すればいいと理解できれば、投票する人は増えるだろうし、それで庶民の生活を下支えする政治に変えらるとなれば、多くの人の元気も出ると思う。

 

少なくとも、常に投票率が80%を超えるようであれば、裏金に頼る議員は慌てるだろう。政治のミスで投票先が変わるとなれば、即刻政権が持たなくなると自覚せざるを得ない。そうなれば、議員の意識も変わると思うのだ。しかし、政治不信や政治への無関心が広がるなら、裏金に頼る議員は何の問題も感じなさそうだ。

投票に行く選択肢

即効果があるとは言えないまでも、中長期的に元気を出す方法として、また新たな視点に立って元気になる方法として、「美味しい食事をするくらいの感覚で投票に行く」選択肢もありだと思う。