tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn28.8月6日のこと、平和と沈黙(前編)知るということ

本当は8月6日に仕上げたかった記事ですが、書き進める内に内容が多岐にわたってしまい、とても長くなってきたので前編・後編に分けることにしました。

 

 

知るということ

8月6日は何の日?

8月6日は「ハンサムの日」らしいです。2008年公開の映画『ハンサム★スーツ』の宣伝をかねて制定したそうです。映画公開終了後も、時折ネットなどで「ハンサムの日」が話題にされているのを見かけます。でも、8月6日を何だか軽く扱っているように思えて、素直に受け入れられない気持ちがあります。

 

「ラッスンゴレライ」で一気に人気を集めた8.6秒バズーカは、コンビ名の8と6がネットで憶測を呼び、話題になり、人気を失速させたとの話も聞きます。実際のところ、噂がどこまで本当だったのかは知りません。でも、コンビ名と8月6日を無理矢理こじつけて話題にしたように思えて、それをそっくり受け入れられない思いがあります。

 

初めての広島

8月6日は私にとって、広島原爆の日、「広島原爆忌・広島平和記念日」です。

高校2年になる春、友人と二人で訪れました。

広島城お好み焼等も気になっていましたが、それは封印して、広島の目的地を原爆ドーム広島平和記念資料館に絞りました。

中学の修学旅行で長崎原爆資料館に訪れていましたし、漫画『はだしのゲン』(中沢啓治)も読んでいましたし、授業やテレビその他で、原爆についての知識はそこそこあるつもりでいたのですが、一つ一つの資料や展示物に息をのみました。一緒に行った友人はカメラを持参でしたが、思うところがあったらしく撮影をやめました。私も観光気分の方が強かったことに気づいて反省し、友人に何も言えなかったように憶えています。 

f:id:tn198403s:20200812164816p:plain

原爆慰霊碑から原爆ドームを覗き見る

私と戦争

何がきっかけだったか、戦争に興味を持った私は、小5の頃には戦艦や空母、戦闘機名や軍人の階級等も憶えていました。どこでどんな作戦や戦闘が繰り広げられたかや、元軍人の戦記物なども好んで読みました。図工の授業で戦艦を描いたこともあれば、お楽しみ会で戦記物の紙芝居を作ったりもしました。

戦争映画なら反戦的、好戦的にこだわらず観ていましたし、アニメ『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』にものめり込んだタイプです。

 

U・ボート』もそんな中で観た作品です。

 

この記事の中で

戦記物に「戦争はカッコイイものなのか?」という問いかけを見かけた時、内心で「戦争はカッコイイとは思わないけど、強いのはカッコイイ。」と答えていたのも憶えています。

と書いていますが、そんな感じの少年でした。

 

広島と核兵器

そんな経緯もあったからでしょうか、振り返ってみれば、原爆ドーム広島平和記念資料館は、平和を考える大きな分岐点になっている気がします。映画やアニメ、戦記物では知り得なかった原爆被害を目の当たりにして、戦争の観方が変わったのだと思います。

 

アメリカとソ連の東西冷戦が加速して核兵器開発競争をしていた頃でした。(1984年には世界中の核兵器保有数は6万超、2020年1月では13,400)世界中で増え続ける核兵器に警鐘が鳴らされ、核兵器廃絶の声も高まってきていたように思います。いつ起こるかも知れない核戦争に不安を持つようになりました。

 

平和と沈黙

大学で原爆パネル展を準備するときだったか、広島出身の後輩から「白黒の原爆の映像を見るのは恐いから嫌だ」と聞かされ驚いたことがあります。広島、長崎の人は、誰もが原爆に対しての怒りや憤りを強く持っていて、その惨劇を広く世に伝えたいと願っているという思い込みが、私にあったことに気づきます。

 

去年、広島の病院を舞台にした漫画『看護助手のナナちゃん』(ビッグコミックス連載)にも似たエピソードがありました。

 

戦争や核兵器は無くした方が良いに決まっている、だからみんなで反対の声を上げなければならない--。

一片の疑いもなくそう思い込み、平和賛美を強要するのは危険だと思います。それは、戦争賛美を強要したあの時代と同じ気がするのです。平和は押し付けるものではなく、納得の上に成り立ってこそ、真価を発揮するのだと思うのです。だからこそ、難しく、だからこそ、大切な取り組みだと思います。

 

被爆者に偏見のまなざしを送る人がいる中で、被爆した事実を隠し、二度と見たくない惨劇を夏が来る度に映像として見せられる時代が平和と言って良いのか疑問があります。

かつて東日本大震災原発事故が起きたときに、事故のあった場所から人や物の移動を拒否する言動はあちこちでありました。現在、コロナ禍にあって、同じ町に住む人がPCR検査で陽性の人が出たとなれば、大騒ぎになり、その人の情報を晒して誹謗中傷が始まる。県外ナンバーの車を見かけると車に傷をつけたりあおり運転を仕掛けたりする。そんなことがニュースになる日本です。

 

沈黙するしかない人を追い込み非難するのが平和的だとはとても思えません。沈黙している人が平和を乱しているのではなく、沈黙させてしまう世が平和でない証だと思います。

確かに戦時中に比べれば今の世は平和なのでしょうが、沈黙せざるをえない人がいる横で平和でよかったと喜ぶのもどこか違う気がします。もちろん、沈黙を破らないと平和にならないというのではありません。もう話さなくても大丈夫だと安堵することも平和な形だと思います。

 

そう考えて行くと、沈黙を破って自らの被爆経験を語る人は、そうした苦悩を乗り越えてのことでしょう。本当に頭が下がる思いです。

 

何度目かの広島で

その後も幾度か広島を訪れたことがあります。1995年(50周年)には、8月6日に行われる世界大会にも参加しました。

 

1981年から始まったダイ・インがこの年もありました。これは、自由参加らしく、するしないは本人任せだったように思いますが、もちろん参加しました。公園の端っこで、トイレ近くの石畳だった気がします。8時15分の合図とともに地面に伏せました。

地面は思いの外冷たかったような。人は結構多く思い思いの方向に伏せていたような。

身体を動かすわけにはいかないので、視界に入る範囲をちらりと見た限りの話です。

 

フィールドワークがあって、案内してくれる人について歩きました。うだるような暑さで、ぼうっとなってしまい、どこをどう歩いたか、どんな話だったかあまり憶えていないです。小高い丘?から港を見下ろしたような、大きな倉庫のような建物を見て回ったような。汗かきなので、タオルで拭いても汗がおさまらず、服はもちろん、もらった資料まで濡らしてしまったことは憶えています。

大変だった思いはありますが、原爆を落とされたあの日、逃げ惑う人々の大変さとは比べ物にもならなかったはず。そんなことを考えていました。

 

平和公園の木陰で語り部さんの話も聞いたと思います。でも、詳しい内容は憶えていません。現実だったのか、夢だったのか、別の機会に聞いたことか、テレビで観た記憶なのかもあいまいです。情けない話です。

 

自分も何かしなくてはと思って50周年の節目の8月6日に広島で平和行動に参加したはずなのに、自己満足だけで終わった気もします。

 

沈黙する意味、沈黙を破る意味

平和な時代と言われる今でも、何も知らずに、或いは知っているつもりで沈黙している者が圧倒的多数を占めていると思います。多分、まだ私もその一人。知ったつもりになっていても、資料館で現実の一端を知って息をのみ、フィールドワークに参加しても記憶に残せず、語り部さんの話を聞いたことすら曖昧な私です。

 

一方で、人生で拭うことができない原爆被害に遭ってなお、沈黙を選ぶしかなかった被爆者もいます。忘れたくても忘れられない。わかって欲しいと思いつつもわかってもらえそうにない。そんな苦悩が75年も続いている人もいると思います。

 

沈黙するという行為は同じに見えるかも知れませんが、その動機は真逆です。沈黙するしかない少数にとって、何も知らずに沈黙している圧倒的多数は、脅威なのではないでしょうか。原発事故、コロナ等で、偏見や差別のニュースを知れば、尚更、沈黙を続けなくてはいけないと感じるのではないでしょうか。

 

沈黙を破るのは、誰かを責めるためでなく、誰もと繋がるためであって欲しいと思います。願うべきは、圧倒的多数を占める知らずにいる人が、知ることによって沈黙を破り、沈黙しなくても安心できる世にしていくことだと思います。

 

未だ、知らないことが多く無力な私が言うのもおこがましいですが、もっと知らなくては、そして人と繋がるために沈黙を破らねばと思うのです。

  

 

 次回へ続く

  

-----------------------------------------

<余談1 他にもある8月6日は何の日?>

 8月6日は、広島原爆の日、ハンサムの日、以外にもあります。

 

World Wide Webの日
1991年のこの日、計算機科学者ティム・バーナーズ=リーが、自身が開発したWorld Wide Web(WWW)に関する情報をインターネット上に公開し、世界初のWebサイトhttp://info.cern.chを開設した。

 

雨水の日
東京都墨田区が1995年に制定。

墨田区では、区役所・両国国技館江戸東京博物館等区内の公共施設で雨水を有効利用している。1994(平成6)年のこの日、墨田区で市民主体による世界初の雨水利用国際会議が開かれたことに因み、翌年の雨水フェアでこの日を「雨水の日」とすることを宣言した。

 

太陽熱発電の日
1981年のこの日、香川県三豊郡仁尾町電源開発・仁尾太陽熱試験発電所で世界初の太陽熱発電が行われた。

しかし、この場所は日照量が少なく、最大出力が2000kWと、実用になる程度の大規模な発電ができなかったため、この発電所での実験は1985年に中止された。

 

ハムの日
「ハ(8)ム(6)」の語呂合せ。

 8月6日 今日は何の日〜毎日が記念日〜 より

 

<余談2.ダイ・イン>

広島の最初のダイ・インを企画した人の話。最初のダイ・インは、1981年。

ダイ・インて何?という人にも読んで欲しいです。

私のダイ・インもここと繋がっていると思うと、少しは思いを受け継いでいたのかもと、嬉しくなりました。

また、立場は違っても、それを超えて繋がり、広がる話に、胸を打たれました。

 

音楽19.謎に満ちた魅力『チャコの海岸物語』(サザンオールスターズ)

チャコの海岸物語』はリリース日が 1982年1月21日と冬ですが、舞台は夏の湘南ですから、夏歌だと思います。実は、なかなか好きになれなかったと言うより、しばらくの間嫌いになれず気になり続けたという感じの歌でした。

印象的な出だしと軽さ

イントロがカモメ?ウミネコ?の声と波の音から始まり、演奏が入って最初の歌詞

「抱きしめたい~」と一声を放った後、

(この歌は)「海岸で若い二人が恋をする物語」だと言うのです。

そして「目を閉じて胸を開いて ハダカで踊るジルバ」と刺激的な言葉が続きます。

 

この展開の早さにまず驚きました。「抱きしめたい」と自覚すると、さっそく恋を宣言し、もうハダカで踊っているのです。その反面、「心から好きだよチャコ 抱きしめたい」と伝えても、つれない対応をされて終わります。

何と軽い恋でしょうか。

 

斬新なイントロで強烈なインパクトを与え、茅ヶ崎のシンボル、エボシ岩を歌詞に加えるなど描写も良いのに、この軽さ。どうとらえたらいいかよくわかりませんでしたが、謎に満ちた魅力のある歌でした。

f:id:tn198403s:20200809234413p:plain

エボシ岩

3つの恋の物語

さらに驚いたのが二人の恋の物語が三つもあることです。

「心から好きだよ チャコ抱きしめたい」

「心から好きだよ ミーコ抱きしめたい」

「心から好きだよ ピーナッツ抱きしめたい」

次々にナンパしている姿が、この歌を素直に好きになれなかった原因かも知れません。

 

また、この歌は、ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』を連想させました。というより、『チャコの海岸物語』が『渚のシンドバッド』を真似た気がして抵抗を感じたのかも知れません。サザンにはデビュー曲『勝手にシンドバッド』の時からどこかふざけてる感をもっていましたから。

 

1982年の紅白歌合戦

この歌でサザンオールスターズはその年の紅白歌合戦に出場します。まだまだ厳格な雰囲気で、歌手の意向より局側の運営が重視されていた頃ですが、そこで、大胆なパフォーマンスを披露しました。私も観ていました。

顔におしろいを塗り、白袴。サザンの直前に白組で歌った三波春夫の真似をしながら登場します。歌の途中で「ありがとうございます」や「神様です」などの台詞を放ち、

「いけしゃあしゃあとNHKに出させていただいております。とにかく、受信料は払いましょう!裏番組はビデオで観ましょう!」(wikipedia チャコの海岸物語 より)

などの発言もありました。

 

これに「ふざけ過ぎ」と感じた人は私を含めてかなり多くいたようで、

「桑田のパフォーマンスは視聴者から大バッシングを受け、NHKに詫び状を書かされる事態となった。桑田は「詫び状なんか書くくらいなら二度と出ない!」という趣旨の発言もしている」(同)

とのこと。でも、翌年の紅白にもちゃっかり出場していました。

振り返ってみれば、紅白歌合戦に歌手の意向を反映させた革命と言えるかも知れません。

 

これ以外でも、サザンは度々「ふざけ過ぎ」と批判されることがありました。しかし、その後の対応?逃げ方?等が「まあ、サザンだからな。」や「さすが、サザンだな。」等と、不服があっても受け入れたり、逆に感心したりで、「国民的バンド」であり続けていることは認めざるを得ません。

 

また、真似をされた三波春夫は後年、

「(紅白の)得点集計コーナーで三波と桑田が並んだ際に客席から大爆笑が起こった事と、「(共演した際の印象として)彼の笑顔には真摯な緊張があったような……」「(前日に桑田の殺陣の動きが気になりアドバイスした際の印象として)素直にうなずく表情がとてもかわいい人でした」と桑田の印象と人柄を語り、「(デビューから数えて)20年の歳月は、人間の心を知る見事な歌手を育てました」「更なる精進と活躍を祈ります」と称賛している」

とのコメントを出しています。結局のところ、騒動のあった後の対応の上手さ以上に、桑田佳祐の人柄が、素直な真摯さを基盤にしていて、そこに稀有な才能とセンスが重なっていたということなのでしょう。

 

サザンオールスターズを受け入れる

大学に入学すると、周囲の友人はサザンの歌をよく歌っていました。仲間内でバンドをやっている人もいて、楽譜や歌詞カードを目にする機会が増えました。自然、サザンの歌詞も目にします。

知らない歌もたくさんありましたが、友人がギターで歌ってくれることもありました。ドライブに出かける時のカーステレオでも定番でよく流れました。

 

じっくり歌詞をみる内、やはりエロやジョークになってる歌詞も多いのですが、ふざけているというイメージは消えました。逆に、いかにエロやジョークを巧みに使って思いを伝えるかがサザンらしさになっている感じです。

 

そう考えると『チャコの海岸物語』も大いなるチャレンジの歌だったと思えてきます。好きになれないと思っていた歌は、むしろ、嫌いになれず気になり続ける魅力があったからで、いざその魅力に気づいたら、好きな歌になっていたという感じです。面倒な言い回しになっていますが、そんな経緯です。

 

チャコ、ミーコ、ピーナッツのこと

歌に出てくる3人については、ずっと後になって、チャコが、『ルイジアナ・ママ』の歌手で後に音楽プロデューサーになった飯田久彦さんであること、ミーコは『ヴァケイション』、『私のベイビー(「ビー・マイ・ベイビー」)』、『人形の家』等が記憶にある弘田三枝子さん、ピーナッツは、双子の女性歌手(デュオ)のザ・ピーナッツからきているのだと知りました。

そして、根底にはそうした人への敬意のある歌だと思うようになりました。

 

今回下調べをして気づいたのですが、この3組(4人)は1962年(昭和37年)、第13回NHK紅白歌合戦で顔を合わせています。しかもチャコとミーコは対戦相手。私が生まれる前の話です。

 

後にプロデューサーになったチャコはピンクレディーを発掘した第一人者。

となると、『勝手にシンドバッド』も『チャコの海岸物語』も『渚のシンドバッド』を茶化すというよりオマージュだったのでしょう。

 

また、ミーコこと弘田三枝子が 2020年7月21日に亡くなっていた(享年73歳)ことも下調べで知りました。時代は移り変わっていくのですね。この場を借りてお悔やみ申し上げます。

  

現在から38年前の『チャコの海岸物語』と当時の38年前

振り返れば、今からもう38年も前の歌です。

当時16歳だった私の38年前となると、1944年の戦時中です。高校生の私に、軍歌や戦後復興の歌があまりピンとこなかったのと同じで(幾らかの興味はありましたが)、今の高校生に『チャコの海岸物語』や私の高校時代の歌の話をしても通じない部分があっても無理からぬこと。

 

一方で、38年前に流行した歌が、軍歌であったか『チャコの海岸物語』であったかの違いを羨ましくも思います。戦時中となれば「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、7歳にもなれば男女の別を明確にして、交際することはおろか、隣の席に座ることもはばかられた時代です。一方現在の38年前であれば、男女が一緒にハダカでジルバを踊る時代です。この差を時代の違いというのは簡単ですが、一言では説明できない違いがあると思います。

 

「昔は良かった」なんてノスタルジックな話ではありません。どんなに遡っても軍歌が流行していた時代に辿りつけない程に、平和な時代が続いてほしいと思うばかりです。

 

 

今週のお題「夏うた」

「暑中お見まい申し上げます」迷路

スタートからゴールまでたどってください。

黒の線が壁です。壁の無い色の変わり目は通ることができます。 

f:id:tn198403s:20200801235826j:plain

色つきバージョン

ただ、色の境の壁がわかりにくいので、白黒バージョンも用意しました。

f:id:tn198403s:20200802100008p:plain

白黒バージョン

元の画像が縮小表示されるようで、見づらいかと思いますが、

是非チャレンジしてみてください。

答えはこちら

 

長かった梅雨も明けて、いよいよ夏到来!と謳歌したいところですが、

コロナは収まりを見せず、まだまだ我慢の季節が続いています。

 

暑い中でもマスク着用が求められ、熱中症の危険も高まっています。

いつにもまして水分補給、室温管理、換気など、くれぐれもお気を付け下さい。

 

---------------------------------------

<余談 迷路のデザインについて>

 

お気づきの方もいるかと思います。

昨日、今週のお題「お気に入りのTシャツ」に投稿した記事

の中の大きなクジラTシャツのイラストがこれでした。

f:id:tn198403s:20200801011844p:plain

ペーストプリントされたクジラTシャツ

実は、約30年前のTシャツのデザインを参考にして迷路を2009年に作成、当時の暑中見舞いはがきに使っていました。

昨日のイラストはこの迷路を加工して使っていたのでした。

 

今週のお題「お気に入りのTシャツ」

ワンポイントロゴだけの白Tシャツと大きなクジラ

白のTシャツが当たり前だった

高校時代のTシャツは、白のTシャツしか憶えていません。胸にメーカーのロゴを小さく刺繍したワンポイント。アディダスadidas)、アシックス(ASICS)、プーマ(puma)ナイキ(NIKE)等だったかな。刺繍の色は黒、赤、紺だったでしょうか。緑や黄色もあったかも。

f:id:tn198403s:20200731223403p:plain

ワンポイントのロゴがあるだけの白Tシャツ

 

adidas の赤い刺繍があったのは憶えています。変な話で、赤のワンポイントというだけなのにお気に入りでした。靴下も白でワンポイントまで等の校則もあったと思います。その影響か、とにかく派手なものはダメいう意識ができてしまい、選ぶ服は白ばかり。そんな感じだったので、Tシャツのワンポイントの色まで気になっていたでしょう。

赤のワンポイントというだけで、一番映えて見える気がしてました。

 

白いTシャツの呪縛が解ける

白いTシャツの呪縛は、大学に入ってもしばらく続きます。友人から地味すぎだと指摘されることもありましたが、それが自分らしいスタイルだと開き直ってました。ところが、下宿で一人暮らしをしていると、洗濯など小まめにやるはずがありません。始めの内は週に二度三度とやっていた洗濯もいつの間にか週一回になり、さらに一度着たシャツもハンガーにかけてあれば、まだ着れるシャツに見えてきて、二度着も抵抗を感じなくなっていきました。

そんな暮らしをしていると、洗濯を長くし忘れたままの服も出てくるわけです。自分とは縁がないと思っていた四畳半漫画『男おいどん』の世界に近づいていきました。下着にキノコが生えることは無かったですが、洗い忘れた服が溜まっていくだらしなさは味わうことになりました。

そして、白い服は黄ばみが目立つことを知ります。洗い忘れた物は仕方ないとしても、洗ってるつもりのシャツも黄ばんでくるのです。もっとも汗で濡れても、とりあえず部屋干しで乾かし、後で一週間分をまとめて洗濯なんてことをやってるのですから無理はありません。

 

そんな訳もあって色物、柄物のTシャツを使うようになっていきました。それも、夏は普段着として、冬は下着として使える綿100%物が中心。当時の大学では、イベントがあるとその資金集めも兼ねて、Tシャツ販売をすることがありました。決して安くはなかったですが、イベント応援のために購入することも多かったです。それも、色物柄物への抵抗感を下げてくれたと思います。

 

自分好みのデザインで選んだTシャツ

そんな中、デザインが気に入って選んだのが、大きなクジラのTシャツです。もう30年近くも前の話ですが、記憶に残っています。

f:id:tn198403s:20200801011844p:plain

ペーストプリントされたクジラTシャツ

シャツの地は白でしたが、ぺっとりとしたペーストプリントは、見た目てかてかしてる感じもあって面白そうに思いました。その中で気に入ったデザインがクジラ。記憶をもとに再現してみましたが、どこまでそれらしくなったは不明。

 

ただ困ったこともありました。まるでペンキを大量に塗りつけて描いたようなTシャツでしたから重いのです。さらに、プリント部分の通気性は0(ゼロ)で、保水性も悪く、汗かきな私にはつらい面もありました。

 

最近のTシャツ選び

とは言え、ワンポイントロゴだけの白Tシャツオンリーだった私からすると大変革。一つ呪縛から抜け出せた感もあって、Tシャツを買うのが楽しみになりました。

今は生地の色もさまざまです。ただ、何度か洗濯で色移りの失敗をしたこともあり、あまり濃い色は避ける傾向にはなっています。

大抵、夏になると新しいTシャツを買うのですが、外出自粛が続く毎日にあって、今年はまだ買っていません。この夏、Tシャツ自粛にはしたくないなぁとは思うのですけれど。

 

  

今週のお題「お気に入りのTシャツ」

授業17.たまたまの「十六夜日記」と「蜻蛉日記」の話だけれど

高3の時のクラス担任は古文の先生でした。

 

 

古文の授業のこと

正直、古文は英語の次に苦手で、学習にもかなり苦労していました。でも、苦手でも嫌いでは無いと思うようになったきっかけがあります。授業中、「古文の中には、どんな日記がありますか?」といった質問でした。

 

確か、授業自体が早く終って、終了の合図を待つ隙間時間。席の順に答えを聞いていたように思います。

私は一巡目に(多分)「十六夜(いざよい)日記」と答えました。程なくクラスでは知っているのが出尽くしたようで次々に「知りません」「わかりません」の返事が続きます。

そして、二順目が来たとき(多分)「蜻蛉(かげろう)日記」と答えました。

その時「よく知っているわね。読み方も。」との言葉をもらいました。

 

ただ、それだけのことです。

日記の名前も読みも、たまたま知っていただけに過ぎません。

 

十六夜(いざよい)

十六夜は月の名前に興味があり、何かの本で読み方を知りました。詳しくはまた別の機会に書こうと思いますが、月の名と暦は突っ込みどころが満載です。今もって、何を満月というのか、月齢の数え方など、私にとってあいまいなことが多いです。

f:id:tn198403s:20200729010709j:plain

十六夜のイメージ

unicさんによる写真ACからの写真

 

蜻蛉(かげろう)

蜻蛉の読み方も昆虫の本の端っこにあった話だったように思います。普通はトンボと読むが、例外があり、その一つが「蜻蛉日記」だとのこと。昔はトンボとカゲロウがきちんと区別されていなかったとかなんとか。

f:id:tn198403s:20200729005451j:plain

カゲロウのシルエット

tomotomo3858さんによる写真ACからの写真

 

古文への興味

実は「十六夜日記」も「蜻蛉日記」も、今も中身は知らないままです。

でも、先生からの褒め言葉が余程嬉しかったのでしょう、授業でその名を答えたことはずっと憶えています。そして、古文から逃げ腰だった私に少しやる気と興味を与えてくれました。成績が急に上がったわけではないです。思わぬ場面で古文が出てきたときに見なかったことにしていたのが、とりあえず見るようになりました。その程度。

 

百人一首

それまでゲームのカードでしかなかった百人一首かるたを引っ張り出し、あれやこれや勝手な解釈で遊んだのも、この頃からだったように思います。でも、本来の解釈とは違うので、それが良かったのか悪かったのか。落語好きだったことも影響しています。

古文を使ってみた

徒然なるままに日ぐらしすずりにむかいて・・・

徒然草

ここのブログ名「tn198403s 高校時代blog」は、

 turedure narumamani 198403月に sotugyou した私の高校時代を綴るblog の略称です。

もっとも、「徒然なるままに」は、他にも見かける文言なので、このブログ特有という訳でもありません。

 

自作の短編小説の中で、古い神社から現れた守り神に「いとおかし」とか「そんなことありおりはべりいまそがり」とか喋らせてました。

 

また、古文調の短編小説を書こうとして断念したり。

「今は昔、おとこありけり。そのおとこもすなる日記といふものを、おんなもしてみんとて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、いとおかし。」

そんな感じでした。古典の勉強にもなると考えて始めたものの、志村けんの「あーみーまー」状態になりそうでやめました。

 

それだけの話

それで、何がどうなったという訳ではありません。普段の生活で古文に接する機会もほとんどありません。でも、古典の学習に関してこうした記憶があり、時に見る古文の史料を目で追おうとする自分が少し気に入っています。

ただ、それだけの話です。

けれど、大事な記憶でもあるのです。