tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業10.てんで話にならないテストの点数

この時期、中学・高校では、期末テストの答案も返り、悲喜こもごもの結果を飲み込み消化して、夏休みの計画を練っている頃でしょうか。

 

高校時代の定期テストには、赤点(不合格点)がありました。確か40点未満だったと思います。赤点になると、補習と再テストがあったはずです。その再テストでも駄目だったら、再々テストがあったのかな?その辺、ちょっと記憶が曖昧。

 

私も何度か赤点になったことがあります。私「も」としましたが、高校3年間で赤点をとったことのある人と一度もない人とではどちらが多いのでしょうね。やはり一度もない人が多かったのかも。私もそんなにたくさん赤点をとったわけではないと思うのですが、この辺の記憶は定かではありません。それよりも、赤点にならないための対策の方が記憶に残っています。

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(一)

一つは、「テスト答案の点数を隠さない」でした。点数が高かろう(滅多にないです)と低かろう(よくありました)と公開してました。テストの点数部分を折り返して見えないようにする人は多かった気がしますが、それはしないでおこうと決めたのです。点数を公開したら赤点にならない訳ではないのですが、必要以上に赤点を恥ずかしいと思わないでいようという気持ちはありました。答案を直すときも、隠しているとなんだか悪いことをしているみたいに思えてきそうで、ただでさえ落ち込みそうな点数なのに、さらに沈んだ気分で直すのも辛い気がしたのです。赤点を必要以上に恐がるのはやめよう、自分の成績を冷静に判断しよう、そんな感じでした。

 

クラスメイトからも、点数を聞かれたり、それで責められたり、ということもなかったように思います。あったとしても「よかったな」「残念だったな」といった一言感想くらいでした。

 

むしろ、点数を隠さないことに突っ込みを入れてきたのは一部の先生でした。回数こそ少なかったですが「恥ずかしくないのか」、「そんなもん、見せるな」、「話にならない点数」等の言葉は、薄いガラス製の10代少年の心には、結構深く刺さっています。でも「これが自分の実力なので」「隠しても点数は変わらないので」と受け流していました。

 

後になって考えてみれば、先生の突っ込みは、私の点数を責めるというより、先生からしても見たくない点数だったのでしょう。見方を変えれば、生徒のテストの点数は、先生の教え方の点数でもあります。低い点数は見たくないのも当然かも。もしかすると、クラスメイトにからかわれるという心配があったかも知れません。

 

点数の公開で、赤点が減ったかどうかは微妙ですが、どうしたって、ダメなときはダメと開きなおり、落ち込むより前を向くという気持ちに繋げるには役立った気がします。点数を隠そうとすると、それにも神経を使ってしまい、再起へのモチベーションも下がってしまうのではないかと思います。

 (え? それで再起できたかどうか?それも微妙かも・・・)

 

(二)

赤点を回避するもう一つの方法は、「できる限り回答する」です。これは生物の先生の言葉から学んだ気がします。「わからなくても答えることが大事なときもある」(「授業1.無機物と有機物」参照)を活かしたという感じ。

 

中でも、試験最中に赤点を覚悟した英語のテストで、赤点回避に残り時間いっぱいをつぎ込んだことが記憶に残っています。配点の多そうな英文和訳の問題でした。意味の不明な単語がたくさん過ぎて、どうしたって点がとれそうにありません。その時点での予想点は、35点あるかないか。

 

苦肉の策として、不明な英単語はそのまま使って和訳?しました。また、推測した単語は推測理由もテスト答案の裏に書きました。そして、最後には、「赤点にならないために書きました。少しでも点数になれば嬉しいです。ふざけて書いたわけではありません。よろしくお願いします。」といった感じの文章も書き加えました。

 

結果…。赤点回避に成功です。記憶では42点。「赤点にはなってないから」と一言付け加えて、テストを返してくれました。英文和訳の回答に期待以上の点数(確か5点だったはず)を加えてもらえたのです。それがなければ赤点でした。

どちらかというとテストの出来具合については、友人にもあまり話さない私でしたが、この時ばかりは、一部英単語をそのまま書いたことを、恐らく赤点になることとセットにして話していたので、そのことを知っていた友人から、ちょっとした歓声がありました。

回答に努力が見えたから点をくれたこと、次はこうはいかないこと、などの話もあった気がしますが、その辺りはよく覚えていません。

 

本来なら、点で話にならないが、努力を見てもらえた結果の点数でした。 

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この経験は大学時代にも、思わぬ形で活かされることになりました。ある講義に欠かさず出席していたものの、内容があまり理解できていないままテストを受けることになりました。ノート持込みが可能のテストだったので、単位はもらえると思いましたが、まだ十分には学習できていないと判断し、「この講義の内容がとても重要なことだとはわかりましたが、まだ理解不足だと痛感しているので、可能なら来期にもう一度受け直したいです。その際はよろしくお願いします。」という旨だけ書いて、早々に一番乗りでテスト会場を出たのです。

 

後日、教官に呼び出されました。てっきり叱られると覚悟したのですが、「わざわざ同じ講義を2度も受ける必要はない。君の時間が無駄になる。その時間に別の講義を受けた方がいい」「思いは買う」「課題を出すからレポートを作ってきなさい」等々の話でした。それでも、「納得のいく評価を受けたいので、もう一度講義を受けたいです。」と話すと、「納得いく評価になるかどうかは君のレポート次第だ」と言われ、課題を渡されました。テスト以上に時間のかかるレポートとなりましたが、それなりに学習できた手応えもあり、納得のいく評価を得ることができました。

 

似た経験は、他にも幾つかあります。懲りないのか、味を占めたのかは、わかりませんが、「わからなくても答えることが大事なときもある」は納得です。ただ、どう答えるといいか、やってみないとわからないというリスクはあります。上手くいったことは書きましたが、うまくいかなかったこともあります。それでも、経験上、いい方向に進むことが多いように思います。

 

一言でまとめるとこんな感じでしょうか。 

正解かどうかに関わらず、正直な思いを伝えることで、事態が好転することはある。(※ ただし、悪化する覚悟は必要。)

砂浜は堤防より下にあるのに、水平線が目の高さに見える不思議。

今週のお題「海」。高校時代の「海」となると、真っ先に出てくるのはK海水浴場。何度かは自転車でも行きましたが、人生でも有数の不思議?な経験をしました。もっとも、他の人からすれば、当たり前のことかもしれませんが。

 

5歳くらいまで住んだアパートからK海水浴場までの距離をPCで調べてみると2km弱でした。歩いていったことも何度かあります。1人で出歩くことが珍しくなかった幼稚園の頃でしたが、さすがに1人で行ったわけではないはず。でも、記憶の中では1人ですし、道順も覚えています。大き目の通りに出てからは、ほぼまっすぐ道なりに進み、途中の曲がり角の一つさえ間違わなければ海に着くのです。誰もいない砂浜を、堤防から見下ろしていた記憶。いえ、正確にはまっすぐ先にある水平線を不思議な気持ちで見ていた記憶。でも、まだ、何がどう不思議なのかはわかっていませんでした。家族で何度か泳ぎに行ったこともありましたが、それ時のことよりも、海が不思議に見えた記憶が印象に残っています。

 

隣の町に引っ越して、小中学校を過ごす間に、車でK海水浴場まで連れて行ってもらったこともあります。中学時代、サッカー部に入っていたので、自転車(そのときの自転車は黒いママチャリ)で練習試合に出かけた帰り、K海水浴場に寄って、砂浜で遊び?練習?体力づくり?をしたことがありました。練習後に、懐かしい海を見ながら、やはり、不思議な感じがしました。その頃には、「地球は丸い」ということも知っていたので、水平線が緩やかな曲線を描くことは頭ではわかっていました。遠くの大きな船が水平線の向こう側に見える現象も納得済み。でも水平線に不思議さを感じるのは、単に水平線を見るのに慣れていないからだろうと思っていました。

 

高校生になって、登下校でお気に入りの緑の自転車を乗るようになってから、帰りの寄り道にずいぶん遠回りをすることもありました。そんなある日、一人気まぐれに、K海水浴場のいつもの堤防へ海を見に行ったとき、その不思議さがようやく理解できたのです。その瞬間、全身総毛立ちました。

 

砂浜は今立っている堤防より下にあるのに、水平線が目の高さにある不思議ーー。

これが、高校時代に感じた海の謎です。

Nスカイラインを走ったときよりも、映画『U・ボート』を観たよりも後の、高校3年生の時でした。秋口頃だったでしょうか。友人がK海水浴場の砂浜で走り込みをしていたことを知る少し前だったはず。その後、友人を応援するためについていったこともあります。応援といっても、様子を見るだけなのですが、その時も水平線の高さの不思議さは感じていました。

 

 

その後、水平線が目の前の高さにある不思議さはずっと頭に残り続けました。大学時代、友人の車でドライブに山へ行った折、その不思議さにさらに驚かされます。山の展望台から見えた海の水平線。それは、遠くにある山の頂上より高い位置に緩やかな曲線を描いていて、やはり目の前の高さにありました。

 

このときも全身総毛立ちになりました。高校時代に感じた海の謎は、更なる謎となって蘇ったのです。一緒に行った友人にそのことを聞いたら、「地球は丸いから当たり前。」とそっけない返事。それでも目の高さに見えるのは変ではないかと食い下がったら、「目の錯覚。」と軽くあしらわれました。まともに取り扱ってくれないのです。

 

でも、どうしても私には目の錯覚とは思えません。とはいえ、普段の生活の中では、それを忘れてしまい、海を見ては思い出すという繰り返しでした。そして、いつからだったか、水平線を見るときには、腕を身体に対して垂直にして、人差し指を立てて、目の高さと、指先と、水平線が重なるようにして観るようになりました。それほど頻繁に海に行くわけでもありませんが、自分の中では「水平線は目の前の高さになる」のは経験上、ほぼ間違いないことになっていました。 

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確信を持ったのは、山の峠を越えて通勤するようになった頃です。途中の見晴らしの良い場所から、海の水平線が見えるのです。毎日というほどではありませんが、何度も車を降りて確かめました。大学時代に山の頂上より高い位置に水平線が見えたときと同じ。見下ろす山の稜線より上に水平線。そしてその水平線に合うように指先を当てると、いつだって、腕はほぼ身体に垂直です。

 

 確信してからは、何故、そう見えるのか?うまく説明がつきそうな理由を考えました。インターネットはまだ言葉も知らなかった時代。数回は図書館にも行きましたが、そもそも、何の本を見たらよいのかもよくわからず、見つけることはできませんでした。

 

砂浜近くの堤防からでも、山の展望台からも、目の前の高さになる理由。大学時代に軽くあしらわれたように「地球が丸いから」というのは大いに関係していると思います。でも、その理由だけでは、納得がいきません。問題になるのは、地球が丸いのと、水平線が目の高さに来ることとの関係性です。

 

さすがに宇宙船から地球を見下ろした写真では、水平線というより、地球の輪郭が目の高さにはなり得ないことはわかります。では、どのくらいの高さになるとそう見えるのか?飛行機に乗ったときに気をつけてみてみましたが、そこでも遠くの水平線は目の高さにあるような気がします。でも、飛行機が水平な状態なのかどうかで変わってくるのも事実。水平線が見やすいのは旋回するときだったと思いますが、飛行機がどう傾いているのかまったく想像がつかないのです。

 

 あれこれ考えているうちに、一つ気がつきました。水平線は確かに目で見えるものではあるが、海に線があるわけではないということです。仮に海に線が引かれていたとしたら、その線が見えた位置からさらに高い場所から見たとき、線の向こう側も見えてくるはず。それは、つまり、砂浜に寝そべって見えるときの水平線と座ったときに見える水平線、立ったときに見える水平線。さらには、ヘリコプターでもっと100mあがったとしたら、そのとき見える水平線は、より遠くの海ということーー。

 

図に描いて考えました。そのときの図がこんな感じ。f:id:tn198403s:20190713173124p:plain

(1)ビルの上から見る (2)タワーの上 (3)山の上

そうすると、水平線に見える場所は、1~3と上に行くほどより遠くを見ることになります。つまり、実質、水平線は、見る人の視線と、地球の円周との接線ということです。地球の半径は6,371km。仮に高さ10kmの山に登って水平線を見たとしても、地球の半径からすると1/637の高さでしかありません。視野としての角度として換算したとき(自分で正確な換算ができないので、推測なのですが・・・)、一般の人間の感覚で果たして区別がつけられるのかーー?

 

ということで、5歳の頃に感じた不思議を、高校3年のときに謎と意識し、自分なりの納得いく答えにたどり着くまでに25年程かかったかかった計算です。しかも、視野の角度としての換算は放棄しているので、実際には人間の感覚で違いがすぐわかるものかも知れません。

 

でもね、いいんです。まだ、2km程の高さの山しか上ったことはありませんが、それでも地球がどれだけ大きいのか、人間がどれだけ小さいのかが少しわかった気がしましたから。そして、この説明を考えついた後、フェリーで海原に出てほぼ360度が水平線となったときに、「地球が丸い」というのが、本当に地球は球体なんだなあと感じたのも大きな収穫。なんか、ちっちゃい埃が、地球にへばりついてるように思えました。

 

え?「人間は考える葦」であって、埃ではない?

ま、あれこれ考えたから、埃に思えたのですけどね。

遊び10.壁にドン!ぶつかったら、心折らずに道折れて。(ドンオレ迷路)

高校時代に作った「猪突猛進迷路」を改称して「ドンオレ迷路」としました。タイトル通り、壁にドン!とぶつかってから道をオレる迷路です。高校時代に作った現物は紛失しているので、久しぶりに作ってみました。

 

まずは、例題。

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 SからGまで進んでください。(Sからの出口は2ヶ所あります)

基本ルールは一つ。

「壁にぶつかるまでは直進。ぶつかったら道を折れます。」

 

<解説> 下図の赤の矢印のように壁にぶつかった後で折れて進みます。青の矢印のように壁にぶつかっていないのに折れるのはNG。カーブになっているところは、壁のカーブに沿って曲がるのはOKですが、やはり壁のないところで折れてはいけません。

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この迷路は「くるりん迷路」と同じで行き止まりがなく、同じところをぐるぐる回ることになるのでご注意を。

 

<例題の答え>

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どうでしたか?では、ルールがわかったところで本題です。

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SからGまで進んでください。

今回はルールが2つ。

1.「壁にぶつかったら道を折れてゴールまで進んでください。」

2.「すぐにゴールできなくても心を折らず、また挑戦してください。やり直しは何度でもOKですから。」

  

ちなみに「くるりん迷路」はこんな迷路でした。こちらはカーブに沿ってのみ曲がれる迷路。

高校時代に作ったいろいろな迷路の中でも、「くるりん迷路」と「ドンオレ迷路(旧名:猪突猛進迷路)」は、格別の思い入れがあります。もともとのアイデアは、何かの本で見かけたのですが、紹介されていた問題には行き止まりがありました。そこで行き止まりのない作品に仕上げられないかとあれこれ考えたのでした。

 

また、見た目にもこだわりがありました。くるりん迷路の外枠の4隅をカーブにしたり、ドンオレ迷路を陸上のトラック風にしてみたり。高校時代にはパソコンなんて言葉すらもこの世にはなく(当時の呼び名は「マイコン」、詳細は「遊び4.コンピューター」)、必然、紙と鉛筆、コンパス等を使って手描きです。方眼用紙を使うと描く分には楽になるのですが、完成した作品に方眼が残るのがどうにも気に入らず、真っ白な紙に自分で方眼を描き、不要な線を消しゴムで消しながら作っていきました。でも、5mm程の方眼でしたから、細かい部分をうまく消すのがなかなかに大変。描き直しも多いため、消しゴムの角はすぐ真っ黒になり、カッターで角を作り直しながら使ってましたね。

 

前回のくるりん迷路と違って、今回は作ってるうちに、当時のハマリ具合をリアルに思い出しました。迷路作りをしたことがある人にはわかると思うのですが、迷路は解いて(挑戦して)もらうために作ります。しかし、解いて(挑戦して)もらうためには、興味を持ってもらうことが必要です。そのためには・・・して、また、そのために・・・と、工夫に工夫を重ねていく感じです。

 

例えば、問題の難易度。難しいのが良いとも、易しいのが良いとも言えません。誰が言ったか、「登山家なら高い山ほど登りたくなるものだが、経験のない者が高すぎる山を見ると挑戦することもなく、あきらめる。」といったところでしょうか。

 

例えば、ヒント。難易度と同じであからさまなヒントは、解き手の意欲を失わせてしまうようです。不適切なヒントは、場合によっては嫌味と受け取られることになってしまいます。一番理想的なヒントは、問題の中で解き手と作り手が会話ができるようなものを仕組むことだと思います。解こうとして試行錯誤している内、あることに気づけば正解を見つけやすくなるという感じ。でも、なかなかそういうのは難しいです。

 

他にも、作品の見た目の良さやタイトル、キャッチコピー、ルールのわかりやすさ等々、工夫のしどころはいっぱい。でも、工夫をいくらしても、空振りというのもよくある話。その辺、ブログを見てもらうのと似ているかも知れません。

 

ただ、作り手自身が楽しんで作ることは大事なところ。駄作でも、誰にも見向きもされなくても、自身が楽しめている内は作り続けられます。逆に、自身が楽しめていないのに、とにかくやらなくてはという思いから作ったものは、続けるほどに嫌気が差してきます。そして、苦労の割に報われることが少ない気がします。

 

前回、くるりん迷路は、迷路の存在を紹介するのがメインだったので、手を抜いてた部分がありました。今回のドンオレ迷路は少しでも楽しんでもらえたらと思って作っている内に、すっかり、はまっててしまいました。自画自賛するのもどうかと思いつつ、高校時代の作品より良い作品にできた気はしますが、どうでしょうね。

 

高校時代は、どちらかと言えば、くるりん迷路の方にはまっていただけに、ちょっと意外な気でした。やはり作る際に自分で楽しめたかどうかの差でしょうかね。機会あれば、また楽しんで作ってみたいと思います。

 

※ ドンオレ迷路の答えはこちら

授業9.省エネルックには覚悟が必要だった

今は、「クールビズ」がじわりと普及している感じですが、高校時代には政府主導で「省エネルック」なる取り組みがありました。環境対策で冷房を抑えるための涼しい服を広めたい等、二つの取り組みには、根本のコンセプトに大きな差は無かったように思います。しかし、「省エネルック」は大平総理大臣自ら、半袖スーツや半袖開襟のワイシャツを着込んでアピールしたにも関わらず、全然定着しませんでした。

 

省エネルックの中でも代表的な半袖スーツは、基本的に日本よりも暑い東南アジアの服装からデザインされたらしいです。当時は、まだアメリカやヨーロッパに追いつき追い越せを目標にしていた日本ですから、東南アジアのファッションはかなり受け入れづらかったのかも知れません。あるスーツメーカーの話では、「(省エネスーツは)5着しか売れなかった」そうです。日本全国で5着ではないでしょうが、お世辞にも人気があったとは言えず、街で見かけることもまずありませんでした。

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同時期、「省エネ」も多少は話題に上っていました。ガソリンスタンドの土日休業等もこの頃ではなかったでしょうか。また、冷房は28℃、暖房は18℃を目安にしようという話もあったと思います。ニュースで聞いて、家のクーラーを28℃設定していたこともありますが、結構暑かったです。もっとも、当時は学校にクーラーなんてなかったですから、一番暑い時間帯でも28℃設定とは無縁。それでも、ニュースやお試しの経験から、省エネルックと省エネを併用して、涼やかに夏をやり抜くには、それなりの覚悟がいるだろうなとは思いました。

 

そんな感じで、省エネルックも、省エネも、あまり身近な話ではなかったです。

 

ところが。かなりの覚悟をした人がいました。

社会科(恐らく、政治・経済)の先生が、省エネルック姿でやってきたのです。ただし、驚いたのは、省エネルック以上に、先生の顔がやたら赤くなっていたように思えたこと。普段なら、あまり感情を表に出さない先生という印象なのですが、その時は省エネルックだったにもかかわらず、熱かったです。

 

「君たちも省エネルックという名前くらいは、聞いたことはあるだろう。」「社会科の教員として、省エネルックを見せようと思ったのだ。」「省エネルックが社会に定着するかどうかはわからないが、どちらにせよ、省エネルックはこういう物だったということを憶えていてくれたら本望だ。」「恥ずかしくないわけではないが、手に入れた以上、着ない方がもっと恥ずかしい。」「時代の先端を行くのには、それなりの覚悟も必要なのだ。」等々。

 

すみません、先生の話の半分以上は、私の創作かも知れません。とにかく、いつになく先生が雄弁だったのは記憶に残っています。そして、私ほどファッションに疎い者はそういないという自負があるにもかかわらず、「省エネルックは変。」との印象が強烈に残ったのです。

 

強いて例えるなら、初めてジャングルを探検する学者?開拓者の雰囲気は多少あるものの、何もかもが初めてだらけで、ウキウキとオドオドが絶妙に配分されたファッション…。そんな感じ。これからジャングルを探検しようというのに、中途半端な暑さ対策と、頼り無さ気な身体防御が同居してるとも言えそうです。その姿は、時代の先を指し示そうとする教師たるべく志と、できるなら恥はかきたくないという一市民としての保身が混ざってるのようにも感じました。

 

でもね。その姿は、その先生の一番印象に残っている姿でもあります。一生懸命、言い訳しようとしてはいるものの、また恥ずかしがっていそうではあるものの、根っこの部分で間違った授業はしていないという思いは感じられたのです。残念ながら、この先生については、他のことでの記憶はあまりないのですが、強く印象に残る授業?をしてくれたことには敬意を表したいです。

 

この先、巷にどれだけカッコイイ「クールビズ」が定着しようとも、雰囲気や流れに乗ってそれを受け入れる人よりは、とても定着しそうになかった省エネルックを、覚悟して身にまとった先生の方がずっと恰好良いと、私は思っています。

 

音楽8.『主人公』(さだまさし)は何度も立ち上がる

今週のお題「わたしの好きな歌」。お題をもらって一番に思いついたのは、THE BLUE HEARTS の歌ですが、ここは高校時代blogです。高校時代に好きだった歌『悪女』は「音楽3.帰り道の『悪女』(中島みゆき)と月」に書いたので、今回は『主人公』(さだまさし)で。

 

これもNHK-FMで録音して聞いた歌。確か日曜の喫茶店という番組で、さだまさしの特集が組まれていました。そこで『主人公』を初めてじっくりと聞き、録音もしました。歌のラストのストレートなメッセージ性も心に響くのですが、歌の導入がまた良いのです。

 

『主人公』

歌:さだまさし 作詞:さだまさし 作曲:さだまさし

『時には 思い出行きの 旅行案内書(ガイドブック)にまかせ
「あの頃」という名の 駅でおりて「昔通り」を歩く ・・・』

 

高校時代に知った歌です。それなのに大学時代の思い出から始まる歌詞に懐かしさを感じる不思議。それは「思い出行きの 旅行案内書」や「「あの頃」という名の 駅でおりて「昔通り」を歩く」という魔法がかかっていたからでしょう。まだ18年に満たない少年の人生に大学は無くても、思い当たる「思い出」も「あの頃」も「昔(歩いた)通り」もありましたから。

 

(一)

よく思い出していたのは小学校5年(1975年4月)の初日のことです。その年に転任してきた担任の先生が、学級でのあいさつで語ったのは「主人公は君達だ。」でした。さだまさしの『主人公』は1978年発表のアルバムに初収録されていましたから、担任の先生の話の方が先です。

 

当時はまだ珍しかった、グループに課題を与えて調べさせ、授業で発表させる形式でした。日本の四大工業地帯の学習のとき、私たちのグループの担当は京浜工業地帯。他の工業地帯との違いで、印刷の工場が何故多いのかが分からず、先生に質問に行くと「君達が主人公なんだから、自分でまず調べてみなさい」と資料になる本など幾つか渡してくれるだけ。それを全部読むわけにもいかず、グループで分担して、目次や索引を手掛かりに探したように思います。しかし、学校の時間では足らず、放課後、グループ内の誰かの家に集まって調べたこともありました。

 

調べたことの発表の際は、導入されたばかりのOHP(オーバーヘッドプロジェクタ)を使うことに。OHPはかなりのきつい光源を使っているので、機械の冷却のため熱風が送風口から出るし、シートを置く画面からは光源の熱が伝わるしで、画面を観ながら説明をしていると汗だくになりました。また、ビニル製?のシートに普通の油性マジックで書いたグループがあって、きれいに消すことができずにシート不足という不測の事態に陥り、画用紙の枠にサランラップを貼って代用したこともありました。

 

あら?話がずれました。

ともかく「主人公」なんだから、手伝ってもらうことはあるにせよ、できる限り自分の力でやっていくということらしかったです。しかし、始めのうちは良かったのですが、グループも段々と悪慣れしていき手抜きをするメンバーも出てきます。他のグループも似た状況。手を抜いて適当にやるくらいならまだしも、集まっても遊ぶ、サボって集まらないなどの状況に、怒り心頭の人もいました。その不満や怒りを先生に訴えると、「そんなことで弱音を吐いてどうする」「困難があって乗り越えるのが主人公」「何の問題も起きない物語なんてない」「先生から話をする前に、自分できることをやってみなさい」といった対応なのです。

 

授業を学級会の時間に変えて、グループで話し合ったこともありました。時には、喧嘩を始める子や、泣きだす子もいました。泣くのも、サボったことをきつく責められてだったり、正論をわかってもらえず悔しくて泣いたり。私も泣いた一人です。そうこうする内に、「勉強がわからないのに、グループの勉強がどんどん進んでいくのが嫌」「なんか邪魔者にされてる気になる」などの話も出てきました。もう、どう話を進めたらいいかわからなくなりましたが、助けて欲しくて先生を見ると、にやにやと笑っている感じで余裕たっぷりという表情だったのを憶えています。きっとこういう展開になるのも予想していたのだと思います。

 

結局、話し合いがどう決着ついたのかは憶えていません。その後もグループ活動は続いたように思います。サボる人がいなくなったわけでも、喧嘩が無くなったわけでもなかったと思います。ただ、それまでやたらと対抗意識が強かったまじめな子とそうでない子との間に、柔らかいものができた感じで、ギスギス尖っていた教室の空気は、少し緩んだように思います。

 

さだまさしの『主人公』の歌詞には、

『あなたの眩しい笑顔と 友達の笑い声に
抱かれて私はいつでも 必ずきらめいていた』

とありますが、「主人公」になることを託された小5時代を、高校時代に思い出しても笑顔にあふれ「必ずきらめく」程のものには思えずにいました。

 

(二)

高校時代、『主人公』は『悪女』と同じく、一人で自転車を進めるときに歌う定番。

『時を遡る切符があれば 欲しくなる時がある
あそこの別れ道で選びなおせるならって』

大好きな歌でしたが、ここの歌詞には、抵抗がありました。しかし、歌詞には、それを嫌う人がいることも歌いこんでいます。でも「選びなおしたい」人もいるというのは納得済みの話でしたが、そう思う人の真意は私にはよくわからないです。

 

現状に満足してないから?他に幸せになれそうに思う道があるから?仮にそうだとして、別の別れ道を選んでいたら、本当に満足の行く幸せがあるのだろうか?今よりも酷い状況になっている可能性もあると思います。否、そもそも、満足の行く幸せをつかむことが幸せなのかという疑問もあります。幸せを手に入れて、次に目指す幸せが無いことが幸せなのか、幸せを手に入れても、まだ欲しい幸せがあることが幸せなのかーー。

  

高校時代に思い悩んだことへの疑問はそのままですが、さだまさしの別の歌に「幸せの形くらい、私にきめさせて」という歌詞もあり、そういうものかもと思っていました。

 

(三)

振り返れば、大学時代は『主人公』(さだまさし)の歌をそのまま再現したような時期となりました。もちろん、小5の時のような、喧嘩もあったし、誰かを悲しませたり、傷つけたりもありました。さらには、学問上での考え方の違いも、恋愛上の対立もありました。でもそれ以上に皆、笑顔でいたことが多かった印象があります。何人かについては、歌詞にある『そういえば あなたの服の 模様さえ覚えてる』のもその通りです。

 

大学時代は先述の歌詞 『あなたの眩しい笑顔と 友達の笑い声に 抱かれて私はいつでも 必ずきらめいていた』ように思います。

 

それは恐らく、高校時代から、この歌を何度も聞き、口ずさんでいたからのように思えてなりません。演習の際の議論で、どうしても相手と意見が合わなかったとき等に(私は私の人生を生きる、私の人生の中では私が主人公なのだから)と何度思ったやら。時には熱くなってそれを相手に話したことがあるかも知れないです。

 

大学を卒業後してもう30年。日帰りが厳しい距離でありながら、毎年のように再会する友人もいます。時に人生の節目に立ち会ったり、励ましてもらったりすることもあります。私の生き方を呆れられたこともありますが、それもひっくるめて受け入れてもらえている感があります。

 

(四)

『主人公』の最後の歌詞は

『時折思い出の中で あなたは支えてください
私の人生の中では 私が主人公だと 』

 です。

そんなわけで、 私にとって、この歌詞にある「あなた」は、実在の人物です。

くじけそうになる度、今まで、何度支えられ、立ち上がれたことやら。

そんなこんなで、なんとか私の人生もここまで辿りついています。

決して真っすぐではなく、紆余曲折があり、時にひっくり返ったり、くねくねと曲がった主人公ですけれどね。

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え?私にとっての「あなた」は誰かって?

もちろん、その人の名は、さだまさし