tn198403s 高校時代blog

主に、私の高校時代(1981.04入学~1984.03卒業)を綴るブログです。

遊び6.正四面体の立体迷路

先日、帰省した折に、少し倉庫の整理をしていたら、高校時代のグッズをいくつか発見。以前にくるりん迷路の記事を書きましたが、高校時代には、他にもいろんな迷路を作っていました。今回紹介するのは、正四面体の立体迷路です。 

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SからスタートしてGまで進みます。スタートのSからは三方向の道があります。そのどれを選ぶと良いでしょう?

 

 と言っても、この写真じゃ、迷路の辿り様がないですから、展開図を紹介します。

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 薄いグレーの線が、正三角形の周囲です。プリントアウトして切り抜き、グレーの線で折れば、正四面体になるはず。実際の立体では、折り目の続きが見えないので、回転させて辿ってみないと行き止まりかどうかが分かりません。また、この迷路では、堂々巡りになる仕掛けもあるので、何気なく進んでいると、Sに戻ってしまうこともあります。

 

 ちなみに、一カ所だけ緑の三角形があるのは、私のロゴが入っていた部分。これが上にくるように置くと、そこをつまんでひっくり返えば、SとGが目に入るようにしていたのです。

 

実はこの立体迷路、授業中に机に出したままになってたことがあります。そして、机の間を通っていた先生に見つかってしまい、手に取られてしまいました。せっかく作ったのに没収されてしまうかと思ったのですが、「こんなのよく作ったな。」とか「ちゃんと勉強もしろよ。」みたいなことを言われた後に返してくれました。何の授業だったか、誰先生だったかは覚えてないのですが、その寛大さのおかげで、無事、手元に残っている次第です。

 

なお、ここで紹介した展開図は、正三角形の一辺が10cmになっています。高校時代に作ったものは、一辺が6cmでした。約35年ぶりに復活の立体迷路、お時間があれば、是非、チャレンジしてみてください。

 

と言っても、先の展開図だけでは、どの道がどの道に続くのかわかりづらいですから、それがわかるよう、補助線をつけた展開図も用意しました。 

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 どうでしょうか?スマホでは少し見づらいかも知れませんが、左右のA~Fはそれぞれに対応していてつながっているので移動可能です。実際の立体迷路のように、くるくる回しながら道を辿る楽しさは味わえませんが、少しは暇つぶしになるかと思います。

折り鶴

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高校時代、クラスメイトが入院したことがありました。それでお見舞いに千羽鶴を持って行きたいという呼びかけがあり、私を含め皆が快諾して折り鶴を折ったように記憶しています。

 

確かなるべく早く作りたいとのことだったので、5枚程を重ねて、一度に折り目をつけ、途中までを手早く折れる方法で折っていました。ズレがあまり出なくするコツをつかめば、たくさん作るには意外と便利。(※ 詳しいコツはこのページの下の方に紹介)

  

でも、その折り方を知った人から「心がこもってない。」と言われてしまいました。一つ一つ丁寧に折って欲しいという気持ちからの言葉だろうと思ったので、特に反論はしなかったと思います。でも、その後一つずつ折ったかどうかは覚えていません。ただ、速さと丁寧さ、気持ちがこもっている、こもっていないといった辺りは、人それぞれ思う所が違っていて、なかなかに難しいなと思ったのを覚えています。

 

その後も、いろいろな場面で、自分では丁寧にしていたつもりでも、傍からはそう見えず注意されたことは、何度もあります。逆に丁寧にしていて、時間がかかり、要領が悪いと言われたこともあります。お互いに「これでいい」と思える着地点が見つかると、後はスムーズに行くことは多いですが、そこに辿り着くまでは、どうしても時間がかかります。

 

小学校の宿題で、同じ漢字を続けて書くとき、一行まとめて同じ部首だけ先に書いて、後からつくりだけ書き足すという方法をしたことがあります。その後、先生から、一つの字として練習しないと憶えられないと言われてしまいました。でも、同じ先生なのに習字の時間には、右はらいだけ何度も練習したこともあります。同じ人でも、その時の状況に応じて、思うところが変わることも多い気がします。

 

 私の場合、高校卒業後も折り鶴を折る機会はけっこう多かったです。10枚、20枚と頼まれることもありました。そんな時、このエピソードを思い出します。どちらの方法がいいのかは結論づけず、相手や頼まれた状況に応じて判断するのが良いように思っています。

 

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※ <5枚程を重ねて、一度に折り目をつけ、途中までを手早く折れる方法とコツ>

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↑ コツ1.図のように、山折り、谷折りとも、一回折っては開き直して折り目をしっかりつけます。

 

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↑コツ2.複数枚折った際に、端の形が整うように気をつけるとズレが出にくいです。

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コツ1、2が上手くできていれば.ABを真ん中に寄せていくと、自然に頂点CとDも寄ってくるので、CとDにABを挟み込んで、きれいにたたむと下のようになります。  


折り鶴の途中までを簡単に


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 そうして次は

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と続けます。あとは通常と同じです。

授業6. 消費者の権利(アメリカンクラッカー)

習ったのが「倫理社会」だったか、「政治・経済」だったか、記憶があいまいなのですが、「消費者の権利」という言葉は記憶に残っています。

 

授業では、消費者の権利が、最近(1980年代前半当時のこと)になって増えたという話もありました。消費者が、商品やサービスを提供する企業側の責任を問えるための権利という感じで習ったように思うのですが、私には、企業側の責任だけではなくて、商品を選んだ消費者の責任もあるはずという、もやっとした違和感がしばらくの間ありました。

 

「消費者の権利」とともに「賢い消費者」という言葉も記憶に残っています。「消費者の権利を活用できる賢い消費者になる必要がある」とする話だったように思うのですが、それについても違和感がありました。権利と義務の違いや関係がよくわかっていなかったのも原因だと思いますが、消費者の権利を敢えて使わずにいられるのが賢い消費者のように思えたのです。

 

要するに「買った後で文句を言うな。よく考えて納得してから買え。」とか「買ったものは上手く使え。」って感じです。いやぁ、若かったと言うか、青かったと言うか…。

 

まだ、小学校に入学する前、カチカチボール(アメリカンクラッカー)が流行っていました。小さい頃、カチカチ音を立てたくて、よく遊んでましたが、鳴らすことができるようになった反面、腕に青あざが残るほどの打撲に負ったり、額にたんこぶを作ってしまったりしてました。「音をリズムよく立てて楽しい、自慢できる」と「よく怪我をする」とが混ざったおもちゃでした。

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そんな体験もあって、私にとって「賢い消費者」とは、「カチカチボールで上手く遊べる」に近いイメージだったのです。しかし、後にそれが間違いだったと思えたことが起きます。

 

丁度、豊田商事の「純金」のペーパー商法が、いろんな噂になっていた頃。「高額な利子がもらえる」と「絶対に破綻する」が話題になっていました。もっとも、その詳しい内容など知る由もなかったので、高校当時は、それが「カチカチボール(アメリカンクラッカー)」みたいな話だと思っていました。上手くいくこともあるだろうが、失敗することもあるという感じ。

 

 強引な売り方が問題になっても、利息分の報酬があるなら堅実な投資とも考えられるという見方もあり、社会全体としては、まだ様子見だったように思います。それが、高校卒業後に、殺人まで起きてしまう事件に発展し、結果、法律の改正にも繋がりました。

 

そんなこともあって、私も、詐欺商法など悪意ある経済行為に個人で対応するには限界があると思えるようになりました。 もし、アメリカンクラッカーに構造的な欠陥があったにもかかわらず、在庫を売りさばくために売られ続けていたとしたら、個人の努力で上手く使えばよいという話にはなりません。そのために消費者の権利は必要と考えるようになったのです。

  

この記事を書くにあたり、改めて消費者の権利を調べてみました。

1962年に、ジョン・F・ケネディが提唱したことから始まったこの権利は、「安全である権利」「知らされる権利」「選択できる権利」「意見を反映させる権利」の4つでしたが、1975年に「消費者教育を受ける権利」、1980年に国際消費者機構(CI)が「生活の基本的ニーズが保障される権利」「救済を求める権利」「健康な環境を求める権利」を追加し、消費者8つの権利となっています。

  

こうして見直してみると、消費者の権利は、かなり広範囲にまで及んでいるように思えます。1980年代と比べると、現代はお金の流れはより複雑になり、今やキャッシュレス時代を展望するほどになりました。ネット通販など取引の形も多様化しています。SNSの普及は、一個人でも企業を糾弾することや、思わぬ廃業に追い込んでしまう手段にもなり得ます。またプラスチックの海洋汚染やPM2.5等、環境問題は深刻さを増しています。

 

 こうした状況を考えると、何か問題が起きた時のための消費者の権利というだけではなく、既にある問題を見逃さず、解決につなげるための権利という見方に変わってきています。消費者が生産者に対してだけでなく、消費者が消費者を律するための権利でもあるという感じです。

 

とはいっても、私自身、電気の消し忘れや、エコバッグを面倒くさがる、電気器具の取扱説明書を読めてない、スマホの扱いが分からずあきらめる等は多いです。賢い消費者を自認できるようになりたいものですが、この歳になっても先はまだまだ長そうです。

文化祭 詰将棋(五手詰め)

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文化祭の時、当時将棋部(正課クラブ)だった私は、顧問の先生に呼ばれて、「将棋部で教室を借りたから、何か企画して。」と頼まれました。そうは言っても、教室で将棋に関する何かをやって、大勢で盛り上がるような案は浮かばず、結局、幾つかの机を向かい合わせに配置し、駒と盤を置き、自由対局場としただけでした。ところが、それではあまりに芸がないとのことで、黒板に貼りつける対局説明用の盤と駒も活用するように言われました。それで、何問かの詰将棋を用意することにしたのです。

 

その内の一つがこれ。この問題は高校時代に私自身で考えたものです。かなりシンプルな駒の配置なので、既に同じ問題があっても不思議ではない気もします。とは言え、詰将棋の基本的な手筋も入っているので自画自賛ながら、お気に入り。ちなみに、この問題のタイトルは「パックマン」。難易度は低めなので、興味ある方は解いてみてください。タイトルの意味が伝わると嬉しいな。

 

記憶を辿ってみると、当時は、けっこう将棋を指していました。先輩や、クラブ仲間、兄や親戚。「遊び1.アーケードゲーム」にも書きましたが、アーケードゲームでも結構やりました。勝ち進むと、駒落ちで対戦することになるのですが、慣れる内、飛車角桂香落ちでも勝てるようになりました。今のPCソフトでは、難易度を高めにすると、まず勝てません。将棋のプロや名人でもAIに負けるくらいですからね。

 

また、当時、何人かの人とは、盤も駒も使わず口頭だけで戦う「目隠し将棋(現在の呼び名)」もやってました。でも、記憶や手の抜かりで、きちんと終局できないことも多く、一局がきちんと成立したら二人して「最後までできたなあ。」とちょっと嬉しくなる感じ。

 

大学時代には、一局の最初から最後まで、大抵の場合は再現できるようになった頃が、実力的にはピークだったと思います。正式な検定は受けてなかったのですが、よくて3級くらいと有段者からは言われてました。もっとも、今は、かなり力も落ちていると思います。

 

※ この記事は、以前に公開していたものを再編集しています。

tn7.スペースシャトル

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スペースシャトルが初めて宇宙に飛び出したのは、1981年4月。当時はかなりインパクトのある出来事だったのですが、時が経つにつれ、月に着陸したアポロに比べても、印象はかなり薄くなってきた気がします。

 

 でも当時は、スペースシャトルからいろんな夢や空想が広がってました。宇宙旅行も近いという感じ。『2001年宇宙の旅』のようなことが現実になるんじゃないかという気もしましたから。

 

そんな折、国道沿いに、スペースシャトルを象った喫茶店ができていました。興味半分で行ったことがあります。それも自転車で。 

もしかしたら、メニューに宇宙食があるかも、なんて思いましたが、無かったです。確か、各席にインターホンがあって、注文ができるようになってました。当時はまだ珍しかったはず。しかし、インターホンで注文しようとしても、すぐにはつながらず、ちょっと大きな声で、店員さんを呼んで注文したような・・・。何だか残念感が残ってしまいました。今では、回転寿司などでは、タッチパネルで注文するのも普通に見られる光景になりましたが、インターホン注文は定着しなかったようです。

 

その後、店は閉店になり、しばらくはスペースシャトルの外観だけが残されていたように思います。実際のスペースシャトルでも耐熱タイルが剥がれたニュース等が度々あった上、数年後には、命を失う事故も起きてしまいました。そんな影響もあるのでしょうか、当初、華々しかったイメージがだんだんと薄らいでいった気がします。

 

結局、スペースシャトルの計画は2011年まで続きました。いくつかの話題と功績を残した一方で、予算や有用性の低さで打ち切られた感じですが、それに続く宇宙への計画はまだ本格化していません。

 

今となっては実現はかなり難しい気がしますが、それでも、地球の外から、地球を眺めてみたいという思いはずっと持ち続けてます。まだ実現する可能性は残っているでしょうか。どうでしょうね。

令和元年

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2019年5月に入り、元号が平成から令和に変わりました。これで昭和、平成、令和と三つ目の時代を生きていくことになりました。

 

どんな時代になるでしょうね。

どんな時代にできるでしょうね。

良い時代になりますように。

良い時代にできますように。

 

これからもよろしくお願います。

音楽5.『ルビーの指環』(寺尾聰)

私の高校時代に一番売れたレコード・CDは何だろうと調べてみました。大ヒット(ミリオンセラー)したシングルは意外と少なく、私の高校時代という期間限定となると判断に悩むこともありました。少し古いデータ(2006年)の売り上げ枚数200位以内に入っていた歌は、4曲でした。

 

1981.02.05 寺尾 聰  ルビーの指環(※1)1,340,890枚 109位

1982.07.21 あみん  待つわ 1,089,790枚 191位

1982.08.01 大川栄策 さざんかの宿 1,209,470枚 145位

1983.12.14 山下達郎 クリスマス・イヴ(※2)1,806,230枚 37位

(※1)1981年2月5日発売発売、約1ヶ月程経った後から徐々に売上を伸ばし、同年3月30日付のオリコンシングルチャートで自身初の1位を獲得 (※2)1983年に12インチ・シングルとして限定リリース、1986年11月28日、7インチEPとして再リリ ース。 (追記 20190430)いろいろ探していると、上記以外にものミリオンセラーがありました。この頃は、発売してから数か月後から売り上げが伸びるという歌も珍しくなかったようです。1981年の邦楽ヒット曲 ランキングに、以下2曲が入っていました。

1980.06.25 竜鉄也 奥飛騨慕情 128.0万枚 

1980.12.12 近藤真彦 スニーカーぶる~す 104.7万枚

 

 『ルビーの指環』のリリースが、高校入学前であったことを考えると、私の高校時代の売り上げ枚数が一番多かったのは『さざんかの宿』かも知れません。『待つわ』が若い人に限って受け入れられたのに対して、『さざんかの宿』は、幅広い年齢層に受けたようにも思います。その辺の詳細なデータが不明なのはちょっと残念です。

ルビーの指環』のリリースは、高校入学直前というイメージでしたが、実際は2月だったことにちょっとびっくり。『クリスマス・イブ』は、一般的にリリースは1986年とされてますから、ここでは除外して考えていいと思います。

 

でも、やはり高校時代、記録でも記憶でも印象強い歌は、『ルビーの指環』ですね。ウィキペディアによれば、「TBS系『ザ・ベストテン』でも1位を記録し、12週連続1位という同番組の最長記録を樹立し、この記録は放送終了まで破られなかった」、「日本テレビ系『ザ・トップテン』では放送第1回の第1位かつ10週連続1位」、「翌1982年春開催の第54回選抜高等学校野球大会の入場行進曲にも採用」、「第23回日本レコード大賞を受賞」等、華々しさでも群を抜いているように思います。

 

当時「口を開けない」「お経みたい」とも言われた歌でしたが、その歌い方もヒットの要因だったかもしれません。

 

それにしても、この歌にも、音楽1.『めだかのきょうだい』(わらべ)と同様、歌詞の憶え違いがありました。

歌い始め「くもり硝子の向こうは 風の街」のところ、ずっと「くもり硝子の向こうは 雨の街」と思い込んでいました。頭の中にはずっと、雨の湿気で硝子が結露して曇っていたというイメージだったのです。そのため「枯葉ひとつの重さもない命」は、ぬれ落ち葉で、街ゆく人に踏みつけられてるイメージでした。でも、「風の街」となると、軽くて風に舞うイメージになります。

いつから記憶の入れ違いがあったのか不明ですが、今になってこのイメージの転換に少なからず驚かされました。

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<余談『ザ・トップテン』>

この記事を書くまで、日本テレビ系『ザ・トップテン』という番組があったのをすっかり忘れていました。で、この番組の司会に堺正章と榊原郁恵が起用されていたことを知り、確かにあったあったと、思い出しました。また、寺尾 聰のアルバム(『Reflections』)の中にあった歌、「HABANA EXPRESS」を「バナナ・エクスプレス」と紹介されてしまったこともあったような…。違ったかなぁ?

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授業5.微分・積分

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当時、数学ⅡBに出てきた学習ですが、結局「微分積分」は何をどう考えたらいいのか、よくわからないままです。

 

高次関数で描かれる曲線にたいして、その接線の傾き具合を導き出すのが微分、その曲線を含む線分で閉じられた面積を求めるのが積分というイメージがあります。(きっとイメージからして間違ってると思います。)

 

他にも、うろ覚えで、「次元を超えた思考ができる」とか「変化の具合や未来を推測できる」とか、とても興味深い言葉を聞いた記憶があります。でも、(そんなことがわかるようになるといいなぁ。)と思うものの、私には理解の限界を超えた世界でした。

 

結論。「微」かに「分」かった程度で終わったのが微分。「分」かった「積」もり程度で終わったのが積分

私の中では、そういうことになっています。

 

でも、そのときの学習が無駄だったとは思ってないです。強がりを言っていると思われても、構いません。

 

誰の言葉かは覚えていませんが、「わかる」には四つの段階があるのだとか。

1.わからない(わかっていない)ことがわからない。

2.わからない(わかっていない)ことがわかる。

3.わかる(わかっている)ということがわからない。

4.わかる(わかっている)ということがわかる。

 

 どうでしょうか。微分積分を学習する前は、「微分積分も学習すればその内わかるはず」と思っていたのが、学習することによって「微分積分は、ちっとやそっと学習しても私にはわからない」と思うようになったのです。これは私なりに頑張って得た成果だと、今でも思っています。え?やっぱり強がりですかね。

遊び5. 変わったスプーン達

『変わったスプーン達』は、ショートショート(短編小説)を書いていた頃、「変わったスプーン」シリーズの総集編として、書いたものです。(「 遊び3.ショート・ショート(短編小説)」参照)

 

書き始めの頃は、それほど深く展開を考えておらず、クラスメイトの名を借りて同音異字の登場人物を使おうとか、幾つかの場所・地名をピックアップして書いてみようとか、これまでに書いた変わったスプーンを活かせるようにしようとか、かなり漠然としていました。

 

 ところが、いざ書き始めてみると、書く時間より、考える時間や資料に目を通す時間の方が長かったように思います。インターネットなどない時代でしたから、家に百科事典やいろんな地図があったのは、幸運でした。本屋で旅行のガイドブックをいろいろ見たことも憶えています。

 

大まかなストーリーは、「変わったスプーンを秘密の場所まで運ぶ」というもの。その途中、あちこちで遭遇する、ある組織からの妨害を切り抜けていく展開です。

 

物語としての出来はともかく、原稿用紙100枚程のお話を書けたことは良い経験になりました。日記や読書感想文等であれば、経験や読んだ文章から書きたいことを選び、中身を絞っていく感じで書くことになりがちですが、お話の創作は、書いてみようと決めたことを、どれだけ上手く広げつつ繋げられるかが勝負という感じでした。

 

例えば、ある場所を取り上げるにしても、地名だけでは、全然イメージが広がりません。そこで、その地名を百科事典で調べたり、地図を見たりすると、少しずつイメージができてきます。その場所の写真や街並みがわかる地図をもとに、道路の幅はどのくらいか、通りには民家が多いか、店が多いか、車の交通は多いか、多いなら使うのは歩道橋か横断歩道か、そんなことを考えている内に、行ったことのない場所でも、自分勝手なイメージを持つことができます。場所のイメージができてくると、そこに登場人物をどう置くか、どう行動させるかが決まってきます。イメージが鮮明になるほどに、動かしやすくなります。さらに、登場人物の行動力や思考の仕方を考えていくと、時折に、登場人物はこう動くしかないはず、と思えてくることがあります。その瞬間は、次々に文章が浮かんできて、文章を書くのが楽しくてたまらないという感じになりました。

 

振り返ると、その感覚を得られたのが一番の収穫だったと思います。誰だったか、作家が「文章が天から舞い降りてくる」と話すのを聞いたことがありますが、わかる気がしました。ただし、断言できます。「舞い降りてくる文章が、独りよがりなものであることは、多い。」いい気になって書き進めた後で、いい気のまま読み直してみると、全然良い文章に思えないなんてことはよくありました。さっきまであれほど書き進める先が輝いて見えていたのに、その光は呆気なく消え去り、色褪せ、枯れ果てた別世界に迷い込んだ気になるのです。

 

それは、このブログの文章も同じ。どんどん書き進んでいい気になっていても、次の瞬間に、とても恥ずかしくて公開する気になれない文章に思えることは多いです。高校時代に比べて、一つの思いつきから広げられる話は増えたかも知れませんが、やっぱり、これじゃあダメだと、がっかりすることも増えたように思います。

 

それが良いのか悪いのか、また、残った文章が意図の伝わるものになっているのか、自信は今もありません。でも、原稿用紙に換算して、100枚を超えるお話を書いた遊びのおかげで、長い文章もそれほど苦にならずに書けているようには思います。まぁ、長ければいいって訳ではないのは承知の上ですけどね。

映画5.『 2001: A Space Odyssey 』(2001年宇宙の旅)

2001年宇宙の旅』(以下『2001年』/スタンリー・キューブリック監督)を初めて観たのは高1の時のテレビ放送でした。調べてみると、1981年10月25日の日曜洋画劇場でのこと。解説は淀川長治さん。

 

中高時代は、SF作品が特に好きだったので、観たい映画の筆頭でした。文字通り、テレビに釘付け状態で、家族にも「音を立てないで!」とお願いしたのを憶えています。

 

いろんな思い入れがある作品です。1968年公開の映画なのに、1981年当時でも「未だどうやって撮影したのかわからない」と言われていました。始まるまでは「撮影トリックを見抜いてやろう」なんてことも思っていたのですが、冒頭、重なる星に太陽の光が差すまでのシーンに圧倒され、そんなことはあっという間に吹っ飛びました。

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ツァラトゥストラはかく語りき」の音楽に乗って始まるオープニングは、黒い宇宙と、ほのかな輪郭がわかる星(多分惑星)がゆっくり現れます。そしてその星が下がっていくにつれ、向こうに見えてくる太陽の光が、間にある別の惑星の輪郭を浮かび上がらせていく。映画公開からもう51年、TV放映から38年が経ちますが、今でも宇宙空間の原風景として、私の記憶に残っています。

 

続いての猿人の登場する「人類の夜明け」シーンには、台詞がありません。油断していると観る気を失ってしまいそうですが、息を飲んでしまうほどに、猿人の表情や動き、その背景が、とても本物らしく見えます。後で知ったのですが、この撮影はアフリカに似せたスタジオで行われたとのこと。その話がちょっと信じられないくらいです。

また、『猿の惑星』(同じ1968年公開)の猿人と比べて、作り物感があまりありません。もちろん、猿人の描き方として『猿の惑星』は人間に劣らぬ存在、『2001年』は人間に遠く及ばぬ存在という演出上の狙いが違うのですが、『2001年』の完成度の高さには驚かされます。

 

 猿人が、骨を放り上げた後、一気に時代は進み、未来の宇宙開拓時代へ。「木星使節」のシーンに代わります。「美しき青きドナウ」の曲が流れる中、宇宙船やステーションがゆっくり次々と映し出されるシーンも優雅で美しい。映画公開当時は未来を描いていましたが、今となっては、2001年は18年も前。『2001年』以降、撮影技術は驚くほどに向上しています。それなのに、今観ても、未来に見えてしまう不思議。幾らかの陳腐な部分はあるものの、CG技術そのものが存在しなかった時代に、この映像を作り上げたことに驚くほかありません。

 

デザインが、当時の科学者の英知を集められて作られたこと、驚くほどに細かな配慮の上で撮影がなされていること、そして何より、スタンリーキューブリックの傑出した技術や執念ともいえるこだわりがあってのことです。一つ例を挙げると、宇宙の黒さと、宇宙船の白さをリアルに際立たせるため、宇宙船のミニチュアにかなり強いライトをあてた上、1コマにつき600秒(つまり10分間)シャッターを解放して撮影したそうです(諸説あり)。しかし、通常の映画は1秒間に24コマの画像を使います。つまり、わずか1秒間の映像を作るだけで、240分(4時間)、10分の映像なら2400時間(休み無しで100日!)も時間がかかるわけです。当時の製作期間としては異例の2年超もかかったそうですが、それをやり遂げられたのも、監督のなせる業でしょうね。 

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 そうしたこだわりは、多くの都市伝説を生みました。中でも有名なのが、アポロ月面着陸より1年早く公開された『2001年』の月面シーンがあまりにリアルだったため、アポロの実際の月面着陸も、このセットを使って撮られたものだという話。その他にも、少しネット検索すればいろいろ出てきます。

 

もっとも、高校時代はこれら裏話をあまり知りませんでした。ただただ強烈にいろんなシーンが脳に焼き付けられた感じです。それは映像でも、効果音や音楽でも、ストーリーでも。 

作品にクラシック音楽が使われたことは、後のいろんな映画に影響を与えています。本来なら無音のシーンに人の声を使っていたことにも衝撃を受けました。その影響でしょうか、私は未だに、無音の状態になると、人の声が聞こえる気がします。

また、音がしないシーンでも、音や声を使った方が、より静けさを伝わることもあることにも気づけました。

ストーリーも結論を描かず、視聴者に問うこともありだということも知りました。

 

映画のラストに近い「木星 そして無限の宇宙の彼方へ」のシーンも、台詞や説明がありません。でも、不可解ながらも見入ってしまう映像が次々に映し出されます。ただ、気持ちが冷めてしまうと、観る意欲を失ってしまう人もいそうです。実際、この部分の評価は、賛否両論。私も意味不明な部分はいろいろあるのですが、自分勝手な解釈をしています。しかし、その上で『2001年』は映画史上で傑作の評価を受けることが多いのです。何故でしょうか。

 

思うに映画は、究極的にはストーリーを描くことよりも、映像に引きつけることが大事なのではないでしょうか。ストーリーが不明でも、映像に魅力を感じれば観てしまいます。また、映像を観続けてさえいれば、観る側で勝手にストーリーを作ってしまうように思います。でも、いくらストーリーに魅力があっても、映像に魅力が無ければ、ストーリーを追うことさえしなくなってしまように思うのです。

 

そんな訳で『2001年』は、映画の観方の大きな転換点になった作品でもあります。

一冊の本を読んで、記憶に残る文章が一つでもあれば、それは読んだ人にとって価値のある本だそうです。ならば、映画も記憶に残るシーンが一つでもあれば観た人にとって価値のある映画だと言えるのではないかと。そんな風に考えるようになりました。

そのシーンが、観るのに疲れるエンドロールの後に出てくる場合もありますが、最後まで余すところ無く見ておきたいと思うようになったのです。 

  

 ところで、当時の家のテレビは、それほど大きな画面ではなかったのに、『2001年』は映画館の大画面で観たような気がしているのが何とも不思議です。どこかでリバイバル上映を観た記憶もありません。 成人してから買った安いDVDを何度も観たことが影響しているのかも知れませんが、DVDよりも記憶の方が画質が良いような気がします。いつか、70mmフィルムで撮られたものを、視界ぎりぎりいっぱいになるスクリーンで観てみたいと今でも思っています。