tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

遊び58.高校時代に終止符を打つ旅(2)『岬めぐり』と佐田岬

1984年3月28日 佐田岬を目指して

岬めぐり山本コータロー

当時の八幡浜駅にロータリーがあったのを憶えている。でもgoogle mapのストリートビューを見ると記憶とはずいぶん違っているように思う。無理もない、40年近くも前だ。近くの喫茶店で朝食をとってから、佐田岬の手前の三崎町行のバスに乗り込んだ。

 

時間帯もあったのだろう、バスは立つ人もいてほぼ満員。これは予想外だった。脳内では人の少ないバスに揺られて岬に向かうイメージで山本コータローの歌『岬めぐり』をスタンバイしていたが、満員バスは歌のイメージとは程遠いのでしばらく待機。ただし、歌詞はうろ覚えでサビ部分しか憶えていない。その後、バスが停まる度に人が降りていき、バスの窓から海がちらちら見えるようになった頃には、乗っている客はぐんと減っていた。

 

※この記事は

の続きです。

 

ここで、脳内レコードがスタート。ただし、サビの部分だけ。

岬めぐりの バスは走る

窓に広がる 青い海よ

悲しみ越えて 海を見つめたら

この旅終えて 街に帰ろう

これを何度も何度も再生していた。受験に失敗した悲しみを抱えて、佐田岬に向かう今の自分にぴったりだと思っていた。遠路はるばる訪れて海を見つめれば、やるせなさも消えると思い込んでいた。人生の転機を感じ、気分晴れやかに家に帰れるのだと期待していた。

 

しかし、お気づきの人はいるだろうか。

実は、「悲しみ越えて 海を見つめたら」の歌詞は間違いで、本当は「悲しみ深く 胸に沈めたら」であった。ずいぶん後、大学時代のレーザーディスクカラオケで気づくのだが、このときは疑う余地はなかった。

当時の道は、くねくねと曲がり、坂を上ったり下りたり。既に伊方原発に繋ぐ新しい道ができていたのか、そこを幾らか通ったのかも不明ながら、港町を一つずつ訪れる感じで、バスは揺れに揺れたイメージだ。バスが港町に着くたび乗客が減っていった。

 

三机湾

バス路線の手がかり

佐田岬半島は日本列島で最も細長い半島で東西に40km超になる。リアス式海岸で入り江が多く、漁港が点在している。一方で半島の細い部分は800m程しかない。宇和海に望む漁港から山を一つ越えれば、瀬戸内海の漁港が見えてくるのだ。

 

バスの道は主に半島の南側、宇和海に沿っていたが、山を越えて瀬戸内海側の三机湾を経由した記憶がある。これを手掛かりにバス路線を検索した結果、

buste.in

三崎線(鼓尾経)のバス路線が最も似ていると思われる。

八幡浜駅ー三崎町の路線バス(現在)

港町を一つずつめぐる路線を確認できて嬉しくなった。ただ、今も運行されているかどうかは確認できなかった。ちなみに、バス路線ができる以前は、漁港を繋ぐ船舶が主要な交通手段だったそうだ。

三机湾と真珠湾攻撃

ガイドブックだったかに、三机湾は水深や地形がハワイの真珠湾に似ているため、真珠湾攻撃の極秘訓練基地になったと記されていた。バスから降りることはなかったが、半島の北側、瀬戸内海が見られるので、窓からまじまじと見た。何も見つけられなかったものの、特訓を積んでハワイの真珠湾攻撃に参加し、戦果を勝ち得たであろう兵士達に思いを馳せた。しかし、知らないとは恐ろしい。この時はまだ、基地が太平洋戦争の惨たらしさの証であったと知らずにいた。

 

後に、極秘だったのは10名の若い兵士が2人乗り特殊潜航艇で、真珠湾の米軍艦に体当たり攻撃をかける訓練基地だったからと知る。日本軍は開戦当初から兵士の命を犠牲にする特攻を仕掛けていたのだ。結果9名は戦死(体当たりが成功したかどうかは不明)。1名は艇の故障で座礁して身動きが取れなくなり、日本軍捕虜の第1号となった。真珠湾攻撃の3カ月後、日本では戦死した9名は九軍神として讃えられた。10名が揃っていた写真も、1人だけ消されて報道されている。戦後、九軍神が批判的に語られることもあり、戦死者の名誉のため1966年に「九軍神の碑」が建立される。ここでも、捕虜のことは隠された。生き残った1人は訓練中や捕虜期間中の手記を戦後に本にしたが、ほとんど話題にはならなかった。そして開戦の特攻から80年経った2021年、ようやく「九軍神の碑」の横に建てられた石碑に10人そろった写真が掲げられたのである。

 

人生、何がどう繋がるかわからない。三机は忘れられない地名になった。

参考にしたサイトのリンクを貼っておく。

www.tokai-tv.com

三崎町

本日の佐田岬到着を断念

手帳によれば、出発時に満員だったバスが終点の三崎町に着いたときには3人になっていたとのこと。もうお昼の時間だった。旅館(民宿)の場所はガイドブックに描かれていたがよくわからず、近くに居た子どもに教えてもらった。

 

一番の関心は、佐田岬に向かう乗り合いタクシーがあるかどうかだ。定時運行されてないので、現地で運行の有無を確かめるしかなかった。午後の便があれば、すぐにでも乗って訪れるつもりでいたが、この日の午後の便は無かった。一人でタクシーで行くこともできたが、車から降りた後もずいぶん歩かないと岬には着けない。往復で1時間程はかかるらしい。その間タクシーにずっと待ってもらうわけにもいかない。かと言って、急ぎ足で岬まで往復するのも気が進まない。

 

結局、今日中に佐田岬を目指すのはやめようと決め、遅めの昼食を喫茶店で食べた。しかし、ぽっかり空いた時間は思いの外長く、ぶらぶら散歩がてら小さな町を観光した。その中で、憶えているのがあこう樹だ。亜熱帯性の樹で、どこからどうやってこの地に根を下ろしたのかは知らないが、あこう樹の生える北限らしい。段差のある場所に吸い付くように根を生やし、幹は太く、枝は広く伸びていた。北限と聞くと、何だか先頭で生きているイメージも持てそうだが、私には一番離れた場所で生きているように思えた。端っこにあっても、堂々と生きている姿であった。

旅館(民宿)で

泊り客は私一人だったと思う。部屋はふすまで仕切られた畳部屋で、鍵はない。風呂はやや大きめの湯舟だった。

 

変な話だが、部屋のテレビで見たバルタン星人が記憶に残っている。『ウルトラマン』の再放送で、バルタン星人の大群とウルトラマンが闘うシーンだった。二つのことを思う。一つは特撮技術の古さである。大群が整然と動くシーンにスターウォーズやレイダースに比べてずいぶん茶地に見えた。一方で、こうした古い特撮技術が、今の特撮に続いているのだとも思った。

 

夜は、テレビを見る以外にすることが無かった。宿で夕飯を食べたはずだが憶えていない。明日の朝の早めの時間帯で乗り合いタクシーが運行されると聞いた。岬訪問が実現しそうだと喜んだのは憶えている。

 

1984年3月29日 佐田岬、一人だけの世界へ

複雑な心境

乗り合いタクシーはミニバンを使っていて、数人が乗り合わせた。仕事か釣り客だったか、途中で次々と降りる。ろうか。途中、手描きされた「牛肉・オレンジ輸入自由化反対」の立て看板を幾つか見た。ニュースは聞きかじっていたが、こんな田舎にも影響があるのかと少し驚いた。終点の灯台手前の空き地(舗装無し)まで乗っていたのは私だけ。話では岬の灯台を乗り合いタクシーで訪れるのは少数派らしい。降りて、ミニバンを見送ったときの複雑な心境は今もよく憶えている。

 

「いよいよ、半径数kmの中に私だけの世界に入るのだ。」という高揚感と、「もし、何か起きても誰も来ない。」という寂寥感。でも、こうなった以上、弱音を吐いてもどうにもならない。木々の間を縫うように続く細い道は、それなりに歩きやすかった。ストリートビューを見るとセメント舗装されていたが、当時はどうだったろう?

 

ガイドブック通りとそれ以外と

木洩れ日のさす道を、いろんなことを考えて歩いたと思う。猪が出てきたらとか、本当にこの道で良いのかとか、もし足を踏み外したらとか…。そうする内に、開けた場所に出た。疑心暗鬼になりかけていただけに、ガイドブック通り、夏だけ使うキャンプ場が見えたときは安堵した。海水浴もできるらしい。誰もいない波打ち際まで行ってみる。そこで振り返った時、急斜面をびっしり埋め尽くした低木の群生に息を飲んだ。

 

ただ、実は記憶があいまいになっている。赤い椿の花があちこちに咲いていたのと、花が咲いていなかった両方の記憶がある。恐らく、似た景色や映像をたくさん見たからだろう。手帳には、ただ「木の向きに驚いた」とだけ書いている。

 

低木は皆、強い風の向きにそって伸びたのだろう。それが飛ばされまいと風に抗った結果なのか、風の力になびいた結果なのかはわからない。昨日見た北限のあこう樹に比べれば、一本一本は小さな存在感だ。しかし、急斜面にしっかりと根を生やし、負けじと生きている姿に見えた。ガイドブックには書かれていない、低木が群生する景色を見られたのは幸運だった。自分も強風に負けず立っていたいと思った。

 

一人だけの世界で

佐田岬灯台 イメージ

小高い場所にある灯台は白く眩しく見えた。階段を上り灯台の足元で見た空は青く、海は波を立てキラキラ輝いていた気がする。遠くに九州の佐賀関やその手前の島も見えていた。

周囲に誰もいないのをもう一度確認した。

遠くに船が見えていたと思うが、声は届かないはず。

間違いない。一人だけの世界だ。今、私はその真ん中にいる。

そして、咆哮した。なんと叫んだのか記憶が定かではないが、「ヤッホー」でも「バカヤロー」でもなかったと思う。

その後、しばらく風景を眺めた。場所を変えながら見たと思う。手帳には「崖の上の地蔵に手を合わせた」とあるが思い出せない。

 

空き地への帰り道で一人の旅行者に会った。咆哮を聞かれたのではと思った自分が可笑しかった。案内板にたくさんの落書きを見つけた。予想通り「落書きするな」という落書きもあった。手帳によると、私は「落書きするな」と紙に書いて板の隙間に挟んだようだ。何をやってるんだか。

 

乗り合いタクシーを降りる時に帰りのタクシーの打ち合わせをしておいたのか、電話ボックスがあってそれでタクシーを呼んだのか、記憶が曖昧である。ただ、20~30分タクシーが来るのを待った。駐車場代わりの空き地にはバイクが停まっていた。すれ違った旅行者の物だと思われた。

 

三崎町に戻った後は、船に乗って九州へと向かう。

北国で出会った受験仲間と再会し、とんこつラーメンを食べるのだ。

 

 

次回に続く。

遊び57.高校時代に終止符を打つ旅(1)にわとりコッコ

卒業式後のぐだぐだ生活

まんじりと過ごした日々

高校の卒業式を終え、大学受験は全敗に終わり、予備校への入学が決定していた1984年3月下旬。大学への再挑戦は決めていたものの、この先どうなるかわからないという不安も感じていた。4月になれば、予備校が始まり勉強漬けの毎日になるだろう。漠然としたプレッシャーから逃れるような日々を送っていた。

 

映画館は3ヵ月ぶりに訪れた後、2週間で計4回行っている。

高校を訪れ、お世話になったお礼や進路相談もした。そういうのは苦手なのだが、まんじりとした時期だっただけに、何かせずにいられなかったのだと思う。行動も普通ではなかった。高校に行くなら通学と同じように自転車で行けばいいものを、一時間近く歩いてからバスに乗って向かったこともある。

サッカークラブは受験に集中するため高3になる前に辞めたのだが、OB(卒業生+先輩)と在校生とで試合をするからと誘われ、参加した。1年のブランクで体力や俊敏さの衰えを痛感した。

 

中学3年の同窓会もあった。当時の担任の先生も来てくれた。高校受験の際、成績が伸びず心配してくれたのに、私の希望を押し切った経緯もあったので、大学受験失敗と浪人することは話しづらかった。誰も私を責めず、根拠の無い励ましをしてくれた。予想通り、皆、当たらず障らずの話ばかりになった。

 

両親や親戚も、私にどんな話をしたらいいのかと気を遣っていたと思う。3月20日の彼岸に墓参りには参加したものの、その後親戚とは一緒に居づらくて、一人で1時間強歩いて家に帰って来た。

 

あまり意識せずにいたつもりだが、やはり高校時代を終えるのに明確な進路が定まっていない負い目を感じていたのだと思う。絶望はしていなかったが、覇気も無い自分に区切りをつけたかった。悶々とした毎日にあって、何かワクワクするようなことに飢えていた。同じ大学を受験した仲間は今どうしているだろうか?そんなことも考えた。

 

そうだ!とんこつラーメンを食べに行こう

雪国での受験の際、九州から来た受験生の話を聞いて決めたことがある。

ラーメン論争も起きた。これも九州各県で味が違い、一緒にされたくないと言っていたが、基本は豚骨で同じらしい。相手の話し方が上手いのか、私が今までに食べたラーメンより美味しそうに思えた。当時、豚骨ラーメンは食べたことが無く、とにかく汁が白いという豚骨ラーメンを食べると心に決めた。

これを思い出したのが転機になった。

「そうだ!とんこつラーメンを食べに九州へ行こう。」

まだ、とんこつラーメンが日本各地で食べられる時代ではなかった。納豆が東日本の食べ物であったように、とんこつラーメンは九州の食べ物だったのだ。

 

しかし、どうやって行ったものか。受験旅行で多額の費用を出してもらっていたので、これ以上、親に出してもらうわけにはいかない。貯めた小遣いで収まる旅にしたかった。青春18きっぷを使うことも考えたが、一人で5日分を使うのは難しく思われた。

 

地図とにらめっこをしている内、もう一つ行きたい場所ができる。

四国最西端の佐田岬

本屋でガイドブックを探して立ち読み。交通の便が限られていて、ちょっとした秘境のようだと知る。「灯台があるだけで、他に何もない」がある場所。運が良ければ?周囲数kmに渡って一人きりになれる場所。その時の私は受験失敗で人との会話を煩わしく感じたせいもあってか、どうしても行かねばならぬ場所に思えた。

 

人の繋がり

行き先が2カ所決まったものの、まだまだ漠然とした計画でしかなかった。発案がいつだったかは不明だが、あれこれ情報を得ようとする内、不思議といろんな縁が繋がり、旅の輪郭が見えてくる。

 

1.雪国の受験で出会った人に手紙

雪国への受験旅行(3) 受験を終えれば春  に書いたように、受験最終日前夜にちょっとした宴を行っている。そして

宴は早めに終わり、その後は、寄せ書きの時間になった。手帳には「夜遅くまで寄せ書きを書く」と記してあるが、試験最終日前日に何時まで書いていたのやら。のどかな時代で、本名に住所、電話番号のやりとりもした。

この寄せ書きを元に、九州の何人かに手紙を書いた。まだ、会えるかどうかも分からない段階で、お土産用のキーホルダーを3つ買っている。

 

2.兄の帰省

九州行きの計画を練っている時に、大分で働く兄が車で帰省する予定だと聞く。是非その帰りに便乗できないかと相談すると、快諾された。帰りの交通費が浮くことになり、大助かりである。青春18きっぷを使うのはやめた。これで、旅の行程の半分が決まったことになる。

 

3.安い宿

さらに安上りを目指して安い宿を探した。条件にこだわらなければ、以外とあるもので、結果、初のユースホステル(松山)と民宿(佐田岬手前の三崎町)、そしてビジネスホテル(大分)の三つに決定。ユースホステルと聞いて、ピンとくる人は少ないかも知れないが、当時は若者に重宝がられていたと思う。民宿は、一般の家の一室に泊めてもらう感じ。これらの宿は後述するが、この時点で、素敵な旅になりそうな予感満載だった。

宿泊は松山、佐田岬(三崎町)、大分

旅の繋がり

ちょっとした思いつきから始まってはいたが、高校生最後のイベントとして、一人旅はとてもいいアイデアに思えた。自分で計画した旅行の経験が、この旅のハードルを大きく下げてくれたと思う。

 

青春18のびのびきっぷ」の旅

高1の時の友人との二人旅は、とても細かな計画で、公園の通り道まで決めていた。ただし、予定を消化することが目的のようになってしまい、窮屈だった。同行した友人は連れ回される感覚だったかも知れないと反省している。

それでも、初めて自分で移動手段や宿の計画を立てたことは、貴重な経験になった。

 

受験旅行

高3の受験旅行は、日時と場所が決まっている。出願の際に、大学の斡旋で良心的な価格の宿を頼んだこともあったが、移動の計画は自分で立てた。受験用パック旅行を利用する人もいたが、高値の印象があった。移動は指定席、宿では豪華な食事、場合によっては前泊後泊がついていることも。経済面からも利用しようという気は起きなかった。

 

それが功を奏した。見知らぬ人との相部屋に、当初はかなり緊張したが

旅の醍醐味を一言で表すなら、「未知との出会い」だと思う。

ようになった。

 

そして、九州に行く事に決めた理由が

であり、そこで知り合った人に会うという目的もできた。

 

細かいところまで計画を立てた友人との旅行や、移動の少ない受験旅行とは違い、「行ってみないとわからない」ことが多い旅となるが、不安よりワクワクする期待の方が圧倒的に大きかった。

 

1984年3月27日 松山へ

鈍行列車に揺られて

朝早い出発だった。鈍行列車に延々と乗り続ける。予讃線から見える瀬戸内海は、春の光に照らされ奇麗だった記憶がぼんやりあるが、景色に浸ることはできなかった。手帳には「腹を減らし頭ガンガンで松山へ」と書いてある。昼食抜きで列車に揺られていたようだ。それでも、4人席の様子を「子どもと女の子(中3)とじいさん、ばあさんで良い雰囲気だった」とも書いてある。高校合格の話をしていたように思う。

 

道後温泉

夕刻前には松山のユースホステルに着いた。ユースホステルは食事付きの泊まりでも格安料金だが、基本男女別の相部屋になる。部屋に入ると、神戸から来たという人がいた。簡単な挨拶をした後、一緒に道後温泉本館に行こうという話になった。気楽に歩いて行ける距離である。

 

行く途中、道後温泉のどの湯に入ろうかとの話になった。一般に使う湯(神の湯)と、休憩も兼ねた上級の湯(霊(たま)の湯:2、3階での休憩とお茶菓子付き)があるが、私は霊の湯に決めていた。以前、神の湯には入ったことがあるので、今回は道後温泉本館を観光したいという思いだったからだ。手帳によると、霊の湯は1200円。当時、自宅近くの銭湯が200~300円程だったと思うので、破格ではある。それでも神戸の人は、そうだよね、一般のお湯に入るだけなら銭湯と同じようなものだから、ここまで来てケチったら道後温泉に来た意味が薄まるよね、と同意してくれた。

 

話している内に、私が18歳で高校を卒業したばかりだと知ると、神戸の人はかなり驚いていた。一人旅でユースホステルに安く泊って、温泉は高い方に入るなんて、かなり旅慣れしている風に思ったらしい。

 

霊の湯は思ったより狭く感じたが、人が少ないのでのんびりと浸かることができた。夏目漱石の『坊ちゃん』を真似て、少し平泳ぎをしてみた。湯から出た後、急な階段を上がり3階の休憩室に行ったと思う。風の通りの良い部屋で、涼みながらお茶菓子をいただいた。休憩室から見た街は、あちこちに高いビルが見受けられたが、明治の頃には街が一望できたに違いない。

 

ユースホステル

食事のルール

ユースホステルの利用はこの時が初めてである。帰り着いて、しばらくすると夕食の時間になった。基本セルフサービスで、アルコールは無し。高校の学食みたいな感じだったが、食後の片付けの際、自分で食器を洗うのには驚いた。その後、強制ではないが、ミーティングに参加して欲しいとの話があった。

 

全国にあるユースホステル全てが同じではないらしいが、このミーティングが宿泊者の絆を結ぶ交流の時間になっているそうだ。この日のミーティングに参加したのは男女合わせて10人は超えていたと思う。皆20代~30代前半という感じ。リーダーが仕切って、自己紹介をしたり、ゲームをしたりする。学校の宿泊訓練でのゲームやレクリエーションのイメージと言えば伝わるだろうか。そこでも18歳だと言うと、20歳には見えると驚かれた。

にわとりコッコ

ミーティングでは、「にわとりコッコ」を強烈に憶えている。要は「鳩(鳩ポッポ)」の替え歌&振り付きである。一部、歌詞や振りに自信がないが紹介しておく。間違いがわかる人がいれば、是非教えて欲しい。

 

コッコッコ にわとりコッコ

にわとりクソして ケツふかず

それでもたまごは おいしいな

 

これを振り付きで歌うのだ。

 

「コッコッコ にわとりこっこ」の部分は、片手の指をすぼめてくちばしの形を作り鼻先につけ、つんつんする。もう一方の手は尾のイメージで手を広げてパタパタさせる。「コッコッコ」の後に体の向きと手を入れを変えて「にわとりコッコ」をする。

コッコッコ にわとりコッコ

「にわとりクソして」の部分は、両手の脇を締めて羽をパタパタさせる感じで動かしながら、腰をフリフリする。結構難しい。「ケツ拭かず」は両手の羽でお尻を拭こうとするものの、届かずにパタパタさせながら、腰はフリフリ。

にわとりクソして ケツ拭かず

「それでもたまごは」は、卵かけごはんをつくるように、卵を割ってご飯の上に落とすイメージ。「おいしいな」は箸でご飯をかき込む感じ。

それでもたまごは おいしいな

家でにわとりを育て、産んだ卵を食べていた私にとっては当たり前だったが、何人かは卵ご飯が食べにくくなる~とぼやいていた。やや下品なイメージが付きまとう歌詞も、恥ずかしさの一線を乗り越えるには丁度いい試練だったかも知れない。(もしかしたら、歌詞のクソ→フン、ケツ→しりだったかもと思うが、下品な歌詞という印象があるので上記のようにした。)

 

傍目にはバカバカしい限りだろうが、これを参加者全員、男女関係なくまじめに挑戦していると、自然、連帯感のようなものができてくる。最初は丁寧にゆっくり歌と振りを真似るのだが、慣れてくるに従いだんだんテンポが速くなる。そして動きの滑稽さに大笑いしたり、素早く巧みな動きに拍手したり。可愛いにわとり、厳(いか)ついにわとりと様々いて、面白かった。レクの魅力かもしれない。

 

他にもいくつかゲームをしたが、「にわとりコッコ」に勝る印象はない。ユースホステルは今もあるようだが、当時のようなミーティングもやっているのだろうか。

佐田岬を目指して

翌朝はユースホステルを早く出るので、朝食は頼んでいなかった。やや暗い街を通って向かった記憶があるから、松山駅まで歩いたのだと思う。松山駅から八幡浜駅までは国鉄。ちなみに切符は当初から八幡浜駅までの分を買ってあり、松山駅で途中下車をしていた。「途中下車」とは、乗車券の区間内の途中で、改札口の外に出ることを言う。片道の営業キロが一定距離を超える普通乗車券は後戻りしない限り何回でも途中下車ができる上、有効期限も複数日になるので、駅から一度出て宿泊した翌日も使うことが可能なのだ。

 

松山の土産に坊ちゃんだんごを買って乗車。八幡浜駅まではほとんど眠っていたと思う。八幡浜駅で降りたら、朝食をとり、佐田岬手前の三崎町行のバスに乗る予定だった。

 

 

次回に続く。

 

※ この記事は、2023年5つの話題宣言の「トラベル(旅行)」あたる記事です。

 

特別お題「私がとらわれていた『しなきゃ』」で受賞しました。

hatenablogさんから、IDコールと言及があったとのお知らせ。

特別お題キャンペーン「私がとらわれていた『しなきゃ』」で優秀賞をいただきました。

blog.hatenablog.com

 

キャンペーンに応募した記事がこちら

応募期間ギリギリの投稿で、アイキャッチ画像も慌てて描いています。「何だ、この絵は?」と思って見てくれる人がいるかもってノリでした。アイデアは悪くないと思っていますが、テキトーに描いた感満載。記事は、高校時代blog を始めてから気づいたことや過去記事を基にして書きました。キーワードは「人生の綿埃」かな?

 

受賞したことに加え、記事への評も嬉しかったです。

評を引用します。

勉強への義務感にとらわれていた時の苦悩、勉強の捉え方が変わるきっかけ、その後の流れが丁寧に書かれていました。

「しなきゃ」という状況でも、視点や考え方一つでポジティブに向き合えるようになるんだということが伝わってきました。

現在、勉強を「しなきゃ」と感じている方に読んでほしい記事だと思います。

高校時代blog は40年も前の私個人の経験を基に書いているので、独り善がりな部分は多いと思います。それでも、誰かに共感してもらえることがあると、励みになります。これでいいのだろうか?と悩みながら生きていた高校時代を認められたような感じ。暗い印象だった時代がまた少し、明るく感じられる気がします。

 

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プライム会員費20ヵ月分。その間、プライムビデオ見放題。「高校時代の映画」カテゴリーの充実につながるかも。

 

「しなきゃ、なんてない。」絵本

イラストは岡村優太さん。キャンペーンサイトからも内容を観ることができます。その実物絵本が届くとのこと。優しいタッチが印象的で、見開きの構図を活かしたアイデアも楽しいです。

 

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