tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

綿埃の新たな繊維を見つけるために

人生に無意味な時間は無い

このブログも、あと3カ月足らずで5年を迎えます。

1日の平均アクセスは100にも程遠く、泡沫のような存在でしょうけれど、それでも書き続けてよかったと思えることがあります。

 

50歳を超えた頃の私には、高校時代はただ受験に追われただけの味気ないものに思われました。そんなある日、高校の同窓会の企画が持ち上がります。それをきっかけに、高校時代にも何らかの意味があったのかも知れないと思い直したのです。

 

「tn198403s 高校時代blog」のタイトルの下に、こう記しています。

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

このブログを書き始めた当初の、偽らざる思いでした。高校時代の取るに足らないような経験でも、とりあえず一つ一つ綴ってみよう。何が得られるのかは不明でも、何らかの収穫を得られるまでは続けてみよう。楽観視し過ぎてとても決意とは言えない、でも淡いながらも幾らかの期待も持って、始めたブログでした。

収穫は思いの外、早い時期から、それもたくさんありました。とても全部は書き切れません。ですから、一つに絞って書きます。

 

一番の収穫

一番は、お気に入りの表現に出会えたことです。とりわけても、「人生の綿埃」との表現に出会えたことは、大きな収穫だったと思います。

このブログを始める前、高校時代は受験に追われただけの無意味なもののように思っていた。しかし、ブログを書き始めてみると、無彩色に思えた時代が実はけっこういろんな彩に覆われているのだと気がついた。


まるで人生の綿埃のようだ。綿埃は一見、灰色である。しかし、その絡まった繊維を細かく見ていくと、そのほとんどは何某かの色を帯びている。遠目にはどう見たって灰色でも、それを作り上げている一つ一つは単純な色ではない。

『 授業19.『卒業』には笑顔が似合う 』の記事に書いた文章です。

 

ブログを書き始めて2年3ヵ月の頃。今だから言えますが、ブログ名を「高校時代blog」から「人生の綿埃blog」に変えようかなと思ったくらい。

 

高校時代、馬鹿なこともやりました。楽しかったこともありましたが、悔しかったことの方が多い印象です。記事にしていく中で、記憶違いだったこともありましたが、たくさんの経験が絡まった高校時代の綿埃から、一本の繊維を見つけ出し、なるだけ丁寧にそっと引き抜く感じで、記事を書きます。

人生の綿埃 イメージ

記事に書いている途中、不意に当時の気持ちが蘇ることがあります。それが全くの思い違いだったと後に気づくこともあるので偉そうなことは言えませんが、蘇ったと思った瞬間は、軽く衝撃を受けることも珍しくありません。「そうだった。あの時、随分恥ずかしいと感じていたけれど、今ならわかる。残りの半分位は嬉しかったんだ。」そんな風に感じることもありました。

 

忘れるって何だろう?憶えているって何だろう?

ブログを書いていてよく思います。高校時代は灰色だと思い込んでいた頃、私は高校時代の中身を忘れていたから灰色に思えたのでしょうか、それとも憶えていたから灰色に思えたのでしょうか。

正直、今もよくわかりません。ただ、はっきり言えることは、どちらにせよ、曖昧なままの記憶は、誤った記憶となって、誤った印象を放ち続けることが多いということです。辛い記憶の場合、しっかりと向き合えないこともあります。それなのに、我慢して向き合う必要は無いです。できるところからで十分。

 

憶えていること、思い出せること、そこから始めればいいと思います。憶えていることを思い出すというのは、矛盾した表現かも知れませんが、記憶を何度も辿って、そして何らかの物証や考えを手にすることができた時に、もう一度、丁寧に思い出してみる。そうした時に、昔の自分に共感し直せると、自分の歴史をリアルに認めることができる気がします。あの時の自分が正しかったか、間違っていたかなんて、大した問題ではありません。ただ、確かにあの時の自分がいたから、今の自分がいる。そして、それに気づけて良かったと思えることが大事なことに思えます。

 

私の場合、今のところ、当時の気持ちを思い出して、嫌だったことはありません。嫌だと思っていた記憶も、よく思い出すと、そうか、そうだったよなと、受け入れられています。

 

わたしがブログを書く理由

こう考えてくると、私がブログを書く理由は、見落としている自分に気づくためと言えそうです。丁寧(飽くまで自分基準)に、自分を思い出したり、確かめたり、書き表したりしていると、これが自分だと思っていたことと、少し違う部分に気づくことがあります。

 

ブログに慣れてきたせいもあるのでしょうか、以前より最近の方が、その頻度が増えた気がします。もっとも、それ故に、ぴたりと文が止まってしまうことも増え、下書きのままになるのが悩みの種でもあります。正直、いつまで続けられるかも不明ですが、日常で体験したことを手掛かりにして、人生の綿埃の中をもう少し、探索したいです。まだ、気づかずにいる繊維を見つけ、その彩を確かめ記事にしたいです。

高校時代blog タイトル

私の”人生の綿埃”ブログはそうやって、少しずつ増えていく。

ブログを一見した方に、このブログを薄汚い灰色と思われてもかまいません。

ただ叶うなら、一つ一つの記事を、一本一本の繊維を見てもらえた時に、何某か、ほのかな色でも感じてもらえたらと願うばかりです。

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 

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