tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

勉強「しなきゃ」から「わかりたい」に変わった時

高校入学当初から、勉強「しなきゃ」、大学進学「しなきゃ」という思いは強かった。でも、振り返れば「しなきゃ」という思いが強い程に勉強ができなかった気がする。もう40年以上も前の話である。

 

高校受験当日の午後に高熱で意識を失ったこともあり、入学は無理だろうと思っていた。奇跡的に合格はしたものの、最初の面談で大学進学の希望を話すと担任に笑われた。学習成績もあまりよくないまま、劣等感の塊のような状態では、親しい友人もできなかった。後に、母からノイローゼになるかと思ったと言われた。それでも、勉強「しなきゃ」、大学進学「しなきゃ」と自分を追い込んでいた。

 

このブログを始める前、高校時代は受験に追われただけの無意味なもののように思っていた。しかし、ブログを書き始めてみると、無彩色に思えた時代が実はけっこういろんな彩に覆われているのだと気がついた。

 

まるで人生の綿埃のようだ。綿埃は一見、灰色である。しかし、その絡まった繊維を細かく見ていくと、そのほとんどは何某かの色を帯びている。遠目にはどう見たって灰色でも、それを作り上げている一つ一つは単純な色ではない。

(過去記事 授業19.『卒業』には笑顔が似合う より引用) 

人生の綿埃 イメージ

たくさんの勉強「しなきゃ」を積み重ねたと思う。始めは、嫌でも「しなきゃ」だった。それは苦痛だった。その連続の日々は、今でも灰色だったと思う。授業中、クラスで自分だけが分かっていないと感じた頃は、一人置き去りにされるぞと脅迫されている気がしていた。

 

この問題を解かなきゃいけない、これを暗記しなきゃいけない、成績を上げなきゃいけない、そのためにはとにかく勉強しなきゃいけない…

息苦しさが強まる中で、一つの転機があった。

数学の授業中、自分だけわかっていない気がして、置き去りにされるのが怖くて、

「質問があります。」

と手を挙げた。質問をしている最中に足が震えて頭の中が真っ白になった。先生は丁寧に説明してくれたはずだが、その時は気が動転していたのもあって理解できず、「もう少し考えてみます。」みたいな返事をしたと思う。

 

後日、きちんと理由を述べた上での質問を先生はほめてくれた。まだ疑問が残ったままだったが、勉強「しなきゃ」という思いは、「わかりたい」という思いに変化した。もっとも、思いが少し変わっただけで、理解力が上がるわけはない。ただ、逃げ出したいような思いから解放され、勉強の苦痛が和らいだ感覚があった。

 

一番の変化は集中力だったと思う。時間を忘れて、学習ができるようになった。今日は何問解いたといった達成感より、解いて納得できることの方が大事に思えるようになった。もちろん、どんな勉強もそうなると良いのだが、そんなに簡単にはいかない。今の自分に理解するのは無理だと判断して、後回しにすることや、あきらめることも少なくなかった。それでも、わかることを増やしていくスタイルは、やがて「わかる楽しさ、できる喜び、役立てる有用感」として意識できるようになっていった。

 

残念ながら、高卒前の大学受験は全敗に終わる。しかし、高1で進学の希望を笑われたことを考えれば、高3で受験してみる価値はあると応援してもらえたのは心強かった。紆余曲折はあったものの、最終的に希望の進学と就職を叶えることはできたのだ。

 

勉強とは、「勉(つと)めて強いる」という意味を持つ。やりたくないことでもやり抜くから勉強なのである。それを考えれば、矛盾するかもしれないが、勉強「しなきゃ」から「わかりたい」に変わった時に、私の勉強、否、勉強というより学習、学びが始まった気がする。

 

受験時と比べると、今の私の方が知識も理解力も衰えているのは間違いない。だが、現在の「大学入学共通テスト」(かつての共通一次試験)の問題と解答が公開されると、幾らかでもチャレンジしたくなるのは、勉強「しなきゃ」の苦痛ではなく、わかる楽しみ、できる喜びを感じたいからだと思う。学習で得た知識や考え方を今なお役立てられる嬉しさもある。もちろん、理解不能、答えが出せない問題も多い。しかし数少なくなった「わかること」を確認するのは苦痛とはならず、楽しいことなのだ。

 

勉強なんてしなくていい、なんて言うと、反感を買うだろう。しかし、やりたくないことでもやり抜くのは苦痛の連続である。苦痛を乗り越えることも大事だろうが、やりたいことをやり抜く方がずっといい。逃げるのでも、あきらめるのでもなく、やりたいことに到達できる別の道はきっとある。たとえ、願い叶わず、夢をあきらめるしかなかったとしても、やりたいことをやってきた先には別の道が繋がっているだろう。

 

「しなきゃ」に耐えつつも、あるいは放棄してでも「やりたい」を見つけて磨く。そこにこそ、自分らしい生き方があるように思う。