tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn56.『ニコリ』と『さとこ』と寄木細工の秘密箱

前回の記事で鍛治真起さんの訃報に触れ、「またいつか、『ニコリ』について書くことがあるかも知れません。」と書きましたが、私が思っていた以上に喪失感は大きかったようです。

先日、ニコリの事務所に遊びに行った夢を見ました。実は大学時代に訪れたことがあるのです。その時にあったことと、夢の中での創作話が入り混じっている感じがして、あいまいな部分も多いのですが、そのことを含めて書き残しておきたいと思います。

 

 

 『ニコリ』との出会い

出会いは、パズル雑誌『ニコリ』がまだ不定期発行だった1984年春。私が大学受験に一つも合格することなく高校を卒業して、予備校に通い始めた頃でした。新聞の片隅にパズル雑誌『ニコリ』のフェア開催の記事を見つけたのです。ニコリファンの尽力で実現したとのことで読者と出版社が近いことも魅力に思えました。バックナンバーをまとめたNG(二コリのバックナンバーの合体本)と合わせて、全号分を揃えて手に入れました。

 

当時、全編パズルの雑誌に『パズラー』がありました。映画手帳の記録を見ると、高校3年の時から手に入れています。受験勉強の追い込み期に何をやってるんだ?という感じですが、パズル関連のブルーバックス単行本などを買い込んでいましたから、日常の1シーンです。ニコリの創刊は『パズラー』より先でしたが販売ルートが確立されておらず、地方には出回っていなかったのです。

 

ニコリの魅力は、「パズルを楽しむ」ことがそっと伝わってくることです。やさしく楽しくわかりやすく工夫された説明、解き手への愛(ヒント等)が適度であること、そこから作り手の思いも伝わってくること、解いている間に作り手と解き手が会話しているような感覚になることもありました。

 

受験勉強の傍ら、大学に入ったらパズルサークルを作ろうと考えるようになったのは、『ニコリ』の影響です。

 

『さとこ』創刊号

大学で立ち上げたパズルサークルさとこ。大学祭までに創刊号を完成させて販売する予定でしたが間に合わず、発行は1985年(昭和60年)11月25日でした。

 

16ページ12問。200部印刷。紙代、印刷代、綴じ代で16000円。1部を100円で販売することに決めました。当初は100部作って反応を見るつもりでしたが、印刷屋さんには、「あとから増版なんて普通は無理。印刷原板を保存するのもお金が必要。作り直しをするくらいなら、多めに印刷しておく方がずっと安く済む。」と教えられ、200部の印刷に決定。完成した創刊号を手にしたときは、感無量でした。

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さとこ創刊号 表紙迷路

その表紙の迷路です。答えはこちら

 

100部は自分たち(サークルメンバーがこの時に約5人)で売り、100部は大学の生協書籍部においてもらうことに。突然のお願いにも関わらず、生協のお兄さんはとても協力的で、創刊号の全面が見える形で置いてくれることになりました。ただ、「原価80円で、売値100円はあり得ない設定」と言われてしまいました。「広告を載せてもらうとかしていかないと。」「第2号はいつごろ出るの?続いて出るということも大きな宣伝になるよ」「利益がなくてもいいと言っても、原稿紙やペン代が重なれば、意欲も衰退していくよ。」等々たくさん忠告をいただきました。

 

 

どれだけ、出版について無知だったかを思い知ります。さらに、最初の意気込みはすぐに消えてしまうほど、パズル誌は不人気でした。友人の間には快く買ってくれる人もいましたが、興味の無いことに100円出すというのは決して気軽にできることではないと知るのでした。サークルのメンバーも売れないこと、断られることが続くうち、意気消沈していきます。

 

作り上げた時は、自分でもまずまずのできに思えたのですが、少し熱が冷めて、冷静に見直してみると、独り善がりまことがあちこちで目に付くようになりました。また、ニコリのペンシルパズル本に難しいとの設定で送った問題が、簡単な問題として本に載るなど、私の力不足を痛感することになります。

 

結局、さとこは創刊号のみで終わりました。サークルはもうしばらく続きましたが、翌年の新入生歓迎にむけた活動はできないままに解散。傍目には大失敗の結果に見えるかも知れませんが、サークルを通してでなければできなかったこと、作ったパズルをお金を出して解いてくれる、作ったパズルについての正直な感想を得る、そうした経験は貴重なものとなっています。良い問題とは、難しければいい、易しければいい、そんなことじゃなくて、解いたときの満足感や達成感、それに共感できることじゃないかな、なんて思ったのです。

 

ニコリの事務所へ行く

ニコリの本社?事務所?は度々引っ越ししていました。学生時代に何の時だったか、遊びに行ったことがあります。東京を訪れた時に少し時間の余裕ができたので、ちょっとニコリに寄ってみようと思いたったのです。建物を見てみようくらいの軽い感じでした。運よく、スタッフに会えたなら、さとこの経緯と励ましてもらったお礼も伝えたいと思ったのです。といっても、まだ世間知らずな学生で、手土産の一つも持たずに直撃しました。当時のスタッフは社長を含めて5人の頃でした。(訪問時に5人いたかどうかは不明)

 

もう夜も近い時刻にお邪魔して、皆さん忙しそうでしたが見学させてもらえました。私が話下手なもので、聞きたいことも質問の返事もうまく言えず、でも、まだその空間から去りたくは無くて…。その思いを察してくれたのか、鍛治真起さんから事務所内にある箱根細工の秘密箱を「これ開けられるかな?」とニヤニヤ?ニコニコ?しながら渡されました。制限時間は、皆が仕事を終えて会社を閉めるまで。閉めるまでに開けられるか。そんな状況もなんだかニコリらしく思えたものです。

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寄木細工の秘密箱

寄木細工の秘密箱

秘密箱自体が初めてですから、勝手がよくわからず、悪戦苦闘でした。でも、触っている内に少し動く箇所があって、その作業を繰り返すうちに、蓋が数ミリずつ開いてきます。

「お~、そこまでいったか。その調子。」

なんて、時折、スタッフから声がかあります。放り放しじゃないけれど、具体的なヒントをくれるわけでもありません。でも、温かく見守ってくれてる感が心地よかったです。でも

「あと20分くらいで閉めるかな~。」

と追い打ちもかかります。箱の中には紙が入っているのですが、ようやく蓋の隙間から紙が見えるくらいまでゴールが近くなっていました。

「そこで時間が来てあきらめた人もいたけど、どうかな。」

その頃には構造が何となくわかってきたのですが、最終的に54回の手数が必要な秘密箱でした。感触としては、あともう一段階蓋が移動できれば開くというところまできていたのですが、そこからが悪戦苦闘。間に合うかどうか気にしているところに

「そこまでくれば、開くのは時間の問題だね。」

と声をかけてくれたのが鍛治真起さんだったように記憶しています。

 

40分程かかって何とか、会社が閉まる前に箱を開けられました。中の紙に一言書いたように思うのですが、記憶が定かではありません。紙を広げてすぐ戻して、元通りに箱を閉めた気もします。そして、結局会社を閉めるまで、いえ、閉めた後にも「ラーメンでも食べようか」と(金)さんに奢ってもらったような記憶もあります。(記憶違いでしたらペコンです。)

 

お酒を飲んだわけじゃないと思いますが、旅行が思わぬ強行日程になったせいか、かなりの緊張の中で秘密箱と格闘したせいか、はたまた、東京の人ごみに酔ったのか、その後の記憶が曖昧です。翌日、お土産にもらったニコリのカレンダーを列車の中に置き忘れてしまい、結構落ち込みました。

 

でも、「箱を開けるまで、黙って待ってくれたこと、しかも時折には声をかけてくれたこと」の体験は、一つの宝物です。後にアルバイトで家庭教師をしていた時、子どもがわかるまでこんこんと教えるより、自分でわかるまで待つ方が有効な場合もあると納得しました。どうしていいかよくわからずとも、それに触れているうちに馴染んでわかっていく、それが自信になっていく、そんな経験でした。