tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn52.『戦争を知らない子供たち』でいいですか? 平和と沈黙(2021)

終戦の年に20歳であったなら

1985年、20歳になった誕生日に「もし、時間を逆方向に生きていたら…」と考えました。1965年生まれの私が、逆向きに20年生きたとなると1945年、太平洋戦争終戦の年です。その時に20歳であったならと想像して、ぞっとしたことを憶えています。

 

一つは、自分が生きてきた時間を考えると、終戦は全く想像がつかないほどの昔ではないと思えたこと。もう一つは、同じ二十歳であっても、1985年を生きるのと1945年を生きるのとでは全く違う人生だったろうと思えたこと。

 

1945年に20歳であったなら、徴兵されていた可能性は高いです。

 

1943年に徴兵が19歳からとなり、1945年には日本軍兵員数は陸海軍合わせて700万人以上になっていました。20歳から40歳までの男子人口に対する割合では 60.9% に上るという資料もあります。そして、日本兵の戦死者は約230万人。約3分の1の兵が亡くなっているのですから、私も戦争で命を落としたかも知れません。そうでなくとも、若い兵の扱いは酷く、戦闘の先陣を切ることも多かったと聞きますから、無傷ではなかったでしょう。

 

ちなみに、終戦直後の日本の人口は約7200万人。これに軍人230万、市民80万人と言われる死者数は含まれていません。先の戦争がどれだけ悲惨なものだったか、この数字だけからでもうかがえます。

 

1985年は大学生でした。一浪しての田舎大学であったとはいえ、合格したことに幾ばくかの自負を持っていました。しかし、戦争のない場所と時代に生まれたのは、私の実力ではありません。努力だけでは決して得られない自分の生い立ちや運が占める大きさを少し知った気がしました。鉛筆の代わりに武器を扱う毎日を想像するだけで、居たたまれないです。

 

それ以降、誕生日の度、逆向きに生きていたらどんなに生きていただろうかと考えるようになりました。50歳になったとき、100年がそれほど昔だとは思わなくなっていました。

 

 

沈黙の先にあるもの

二つの沈黙

去年の記事

で言いたかったのは、二つの沈黙でした。

事実を知らずに、或いは知っていても他人事のように思ってしまう圧倒的多数の沈黙

現状や被害を詳しく知っていても、世の偏見や差別等に潰される少数者の沈黙

沈黙するという意味で二つの行為は同じでも、少数者にとって、圧倒的多数の沈黙は脅威になると書きました。圧倒的多数の沈黙が、重要な情報を持つ少数者を沈黙させてしまうことは少なくないと思います。「寝た子を起こすな」そんな言葉が思い起こされます。

 

沈黙させる力

上の二つは市民の沈黙を念頭に置いていましたが、最近、とても気になるのが、弱者を沈黙させる力の存在です。単に発言を黙らせるだけでなく、議論に応じない、発言を無視し続ける、事実を隠し続ける、そして責任を取らない、そうしたものが一体化している気がします。

 

去年、日本学術会議の会員候補6人の任命拒否が問題視されました。人事に関することだから拒否の理由や経緯を答えず、文書公開要請には不開示とする姿勢は、事実を隠すものです。先の首相も「桜を見るの会」では名簿は無い、領収書は無いとし、それ以前の「カケモリ」も証拠を改ざんしたうえで、証拠がない、証言があっても信頼するに当たらないという姿勢でした。また検事長の定年延長の画策も、政権に物言わぬ検察づくりとの見方が広がりました。

 

最近の話で言えば、政府のコロナウイルス感染症対策分科会に相談なく入院対象を重症者に絞り込む方針転換が思い浮かびます。6月には「今の状況で(五輪を)やるというのは普通はない」と述べた尾身会長に対し、個人の研究発表に過ぎないとして取り合わない経緯もありました。権力のあからさまな嫌がらせに見えます。それでも機会があれば率直に意見を述べ、機会を与えらなければ自身で提言を出す尾身会長の姿勢には頭が下がります。

 

政権を見るとき、何を言っているかよりも何をしてきたかが大事だとは思います。ただ最近は何を言わせなかったか、何を隠そうとしているか、権力が沈黙させようとしているものをしっかり見る必要性を感じます。今更ですが、議論の場に上げないもの、明らかにしないもの、話題からそらすものをもっと見なくてはと思うのです。

  

沈黙しない選択

世界を見ると、沈黙しない難しさの一方でその大切さも強く感じます。

 

香港、ミャンマーにおける弾圧では、文字通り命がけで自由を守ろうとする姿に心を打たれます。言っても無駄、弾圧は変わらない、むしろ標的にされるとの論調もありましたが、それよりも弾圧者に立ち向かう人の姿が強く印象に残っています。中国新疆ウイグル自治区での人権侵害、一部の国で強まる移民難民への迫害に心が痛みます。

 

Black Lives Matter「BLM」運動、MeToo運動には、人権を擁護し世を変える力を感じました。弾圧とは違い、多くの人に当たり前だと思われていることにも差別があることを教えてくれます。知らないままの差別に気づくことは簡単ではないし、場合によってはより激しい差別や対立が起きることもあります。でも、沈黙を破らない限り差別は解消されないこと、また解消されるまで諦めず主張し続ける大切さは歴史が証明しています。

 

日本では選択的夫婦別姓制度の否定的判断、LGBT理解増進法の見送り、五輪組織委の森会長の女性蔑視発言、など差別の根強さが目立ちます。でも、先述した世界の趨勢を見ると、あきらめずに主張すること、沈黙しないことの大切さに気付かされます。

 

沈黙の先に平和は無いと思います。一方で、主張することがさらなる対立や弾圧、殺戮を生むという不安もあります。時には仕方なく沈黙し耐え忍んでいる人まで責められることもあります。何らかの犠牲を伴うこともあります。結果、沈黙するしかないと考えることもあるでしょう。けれど、そこに平和があるとは思えません。歴史を見れば主張しても敗北することは多々あります。でも、主張の無いところに、平和は来ないでしょう。

  

沈黙させる力に対抗して主張することは容易ではないです。勇気が必要です。でも、その勇気は、また次の誰かの勇気を喚起し、知恵や工夫や気づきをもたらし、広がっていくと信じたいです。

 

戦争と沈黙

毎年、この時期になると戦争のドラマやドキュメンタリーを目にすることが増えます。子どもの頃、8月の登校日は戦争の悲惨な話を聞く日という感じでした。でも、私にはどこか、戦争がいけないのではなく、戦争に負けたからいけないと思っていた節がありました。子どもの頃は、「あの戦争で負けてなかったら…、」という論調を時折耳にしていた気がします。

 

戦争を知らない子供たち

ベトナム戦争が続いていた頃に流行った歌です。小学校や中学校でも歌いました。この歌について、クラスメイトの作文が紹介されたことがあります。悲惨な戦争を知らない子どもでよかった、今の平和な時代がずっと続いてほしいといった内容でした。

 

一方で、この歌に対し、戦争を知らないくせに甘ったれたことを言うなとする論調もありました。この歌に触発されて、戦争体験を語る人もいたように思います。

 

戦争を知らない方が良いのか、知った方が良いのか。あの頃からずっと、もやっとした感覚が尾を引くことになりました。それは、好戦的か反戦的かの区別無く、軍艦に興味をもったり、戦記物語を読んだり、映画やドラマを好んで観たことと繋がっているかも知れません。

 

戦争を考え直す契機

高校時代に観た映画で、

戦記物に「戦争はカッコイイものなのか?」という問いかけを見かけた時、内心で「戦争はカッコイイとは思わないけど、強いのはカッコイイ。」と答えていた

自分に疑問を感じるようになりました。その後、自分で旅行計画を立て行った広島平和記念資料館の資料や展示物に息をのみ、知ったつもりになっていた原爆や戦争を考え直すようになりました。

 

100年カレンダー

高校時代に100年カレンダーを購入して、長らく部屋に貼ってありました。太平洋戦争だけではなく日中戦争を含めた15年(※ 2021.8.9訂正)の間は、薄赤の地になっていました。二度と薄赤の地になることが無いよう祈りを込めて発行したという話だったと思います。

今振り返ると、100年の時間や戦争を考えることに影響していたと思います。戦後20年が経過して生まれた私です。生まれた頃の写真に戦争を感じるものはありません。でも、子どもの頃は、漫画やドラマで戦争に触れる作品は多かったです。

 

漫画『トイレット博士』では、スナミ先生が戦争体験を語りました。戦災で食べ物に困る内、弟のお尻が痩せて肛門が見えるようになり、細い便しか出なくなって死んでいく話があったと記憶しています。子ども向けのドラマでも、終戦記念日に親が戦時中に不味いすいとんを食べていたことを知ってもらおうと食卓に並べるのですが、子どもはそれを食べたくなくてトラブルになる話がありました。

 

1970年代は、少年漫画にも『はだしのゲン』『花も嵐も』等、戦争をテーマにした話は多かったです。でも、だんだんと現実の戦争より、架空の戦争を描く作品が増えていったと思います。100年カレンダーは、そんな頃に発行されたのでした。戦争の頃を薄赤い地にしただけなのは、現実の戦争を話題にしにくい世を反映したものだったかも知れません。

 

戦後の沈黙の始まり

 権力の行使による沈黙(弾圧)は戦前からありました。治安維持法の悪用、軍部による検閲、弾圧、特高警察による取り締まり等々、自由にものを言うことはできませんでした。しかし、終戦後は民主主義を打ち立て、誰もが自由にものを言える時代が来るはずが、戦前の権力者の流れは復活し、戦災者は少数の弱者として追い込まれていきます。

 

軍と民の戦後補償格差

去年、NHKの放送で知ったことです。

以下『「受忍」 忘れられた戦後補償』の番組ページから引用します。(※引用中の太字は私によるものです。)

 戦時中の日本は、民間被害者に対して「戦時災害保護法」による金銭的な手当てを、軍人や軍属へは「軍人恩給」という年金のような補償制度を設けていた。しかしこの補償制度は終戦GHQ連合国軍総司令部に「軍国主義の温床になっていた」としてどちらも廃止された。

www.nhk.or.jp

そしてその後、

1952年4月30日、日本が独立した2日後戦没者遺族を支援する「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布。翌年には軍人恩給も復活した。

軍国主義の温床となるから廃止されたはずなのに、独立後すぐに軍人軍属への補償が復活します。「戦犯」への補償制限が覆されていきました。厚生省の内部文書から、その過程も分かってきたとのことです。

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20201021/images/image10.jpg

当時、旧軍の流れを汲む厚生省には、陸海軍の士官クラスが横滑りし、強い影響力が温存されていた。軍出身の官僚が「世論工作」を行い、戦犯の名誉回復や支援活動を後押ししていたのだ。復活した恩給制度には、戦前の陸海軍の階級格差も反映されていた。

 

大将経験者の遺族には、戦犯であっても、兵の6.5倍の補償を実施。閣僚経験者に対しては、現在の貨幣価値で年1000万円前後が支払われていた。その一方で、旧植民地出身の将兵は、恩給の対象から外された。

と言うのです。国は戦場で命を落とした軍人軍属やその遺族などに対し、これまで60兆円の補償をしたとのことです。

 

一方、民間の補償はありません。

敗戦国だから仕方ないという考えもあると思いますが、実は、先の大戦での敗戦国、ドイツにも、イタリアにも民間人への戦後補償はありました。

ドイツとイタリアの戦後補償
先の戦争で、同じ枢軸国だったドイツとイタリアでは、どのように戦後補償が行われたのか?

ドイツではベルリンへの空襲などで、およそ120万の民間人が犠牲となった。しかも領土縮小で、財産を失った引揚者が1200万人以上。戦争終結の5年後、西ドイツは「連邦援護法」を制定した。国は、すべての戦争被害に対する責任があるとして、軍人や民間人といった立場に関係なく、被害に応じた補償が行われてきた。

イタリアで犠牲となった民間人はおよそ15万人。戦後、財政不安に陥ることが多かったイタリアにとって、補償は容易なことではなかった。しかし1978年、民間被害者に、軍人と同等の年金を支給する関連法を制定。たとえ補償額が少なくとも、国家が個人の被害を認めることを重視したのだ。

同じ敗戦国で、日本との違いは何でしょうか。

日本の民間被害者も組織を作り、声を上げていました。しかし、

空襲被害者にとって、国会も壁となった。補償を実現させるための法案は、1970年代から14回にわたり提出されたが、すべて廃案。さらにこの頃、空襲被害者たちに向けられた心ない世間の声が、被害者たちの気力さえ奪っていった。

声を上げた空襲被害者に届いた手紙には

『生きているだけでも有難いと思え』

戦争で苦しんだのはお前たちばかりではない。国家の責任にし、金をせびろうとする浅ましい乞食根性』
『慾ばり婆さんよ。いまさら何を言っている。そんなに金がほしいのか』 

等の文面もありました。弱者を沈黙させる力は、何も権力者から直接与えられるだけではありません。いつの世にも権力に同調して「正義」の声を上げる人が一定数います。それにしても、「私も苦しんでいるのだからお前も苦しめ」という論調が生まれるのは何故でしょう。基盤には国の非常事態下で起きた被害は、国民が等しく受忍(我慢)しなければならないとする「戦争被害受忍論」があると思います。

 

問題なのは、戦争被害の実態や受忍論を意識しないままにいる圧倒的多数の沈黙が社会的弱者に重くのしかかっている点でしょう。もちろん、ここでいう圧倒的多数の沈黙と、心無い言葉を浴びせる者とに直接的な関係はありません。

 

それでも、沈黙している多数が、弱者にとっては心無い言葉に同調している勢力のように思えてしまう怖さには警戒したいです。賛否の表明は自由としても、相手を貶める誹謗中傷は、人権を踏みにじる許せない行為です。弱者を沈黙させるこうした卑劣な力を許せば、民主主義は成り立たないと思います。

 

その後、

終戦から30年以上が経過した1980年代。国は、戦後補償問題に区切りをつけようとした。外地からの引揚者やシベリア抑留者の団体の求めに応じて

「戦後処理問題懇談会」が設置されます。一時は、民間被害者への補償を検討する意見もありましたが、議論は救済処置を絞る方向に進み、

2年半に及んだ懇談会は、民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の「法律上の義務によるものではない」と結論づけた。その理由として、「いま戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり“不公平”」とする考え方が、新たに付け加えられた。

のです。戦争責任を棚上げにした国が、次代を担う世代を盾にして、国としての戦後補償責任も放棄する。それも、戦犯遺族だけには膨大な補償をしておいて、そう言うのです。

 

この論調には記憶があります。2015年、終戦70周年の安倍内閣総理大臣談話です。

あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

詭弁です。私たちは謝罪を続けるために歴史を受け継ぐのではありません。戦争を繰り返さないために、平和な世を築くために、その全容を受け継ぐ必要があるのです。

戦争被害(特に復興から取り残された人)の実態を知り、受忍論の理不尽さを知る必要があると思います。

 

番組を見て、戦争を知らない方が良いのか、知った方が良いのか、小学生の頃から頃からずっと持っていた、もやっとした感覚の理由がまた一つ分かった気がしました。力のある者にとって都合のいい戦争だけを教えられる怖さ。戦争を知るとは、権力者の言い分を知ることではなく、失われた暮らしや命、願いを知り、その教訓を揺るがぬ平和につなげていくことだと改めて思いました。

 

被爆者援護法がもたらしたもの

日本は、民間人への戦後補償を一貫して拒否し続けてきましたが、原爆の被害や沖縄戦の被害については、少し変化が生まれます。

以下、広島市のサイト「爆者援護法の成立まで」から引用します。

昭和32年(1957年)に「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」を制定し、被爆者は国の費用で医療が受けられるようになりました。また、被爆者の福祉を図るため、昭和43年(1968年)に「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、被爆者への健康管理手当の支給等が開始されました。

 さらに、平成6年(1994年)12月、これらの法律を一本化した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」(以下、「被爆者援護法」といいます。)が制定され、被爆50周年にあたる平成7年(1995年)7月から施行されました。この法律には、原爆の惨禍が繰り返されることがないよう恒久平和を念願することや、被爆者に対する保健、医療、福祉にわたる総合的な援護を国の責任において行うことが前文に謳われており、給付内容についても以前の原爆二法より充実しました。

戦後補償の点からも「被爆者援護法」は、新たな前進でした。しかし、上で紹介した『「受忍」 忘れられた戦後補償』の番組ページでは、

被爆者たちは国の責任を問うために、あくまで「国家補償」を求めていた

とあります。しかし、国は、補償を求め始めていたアジアの被害者たちの動向を気にしていました。そこで、

国は救済措置として金銭的手当はしたものの、「国家補償」という形はあくまで選択しなかった

ということです。被爆者は例外的に金銭的手当てをしたのであって、補償とは違うという立場です。これに歩調を合わせるかのように、被爆者援護法もその対象者を絞りに絞り込められました。

 

しかし長い年月をかけて、少しずつ、その適用範囲を広げていきます。その変遷を厚生労働省被爆者援護施策の歴史で見ることができます。当初は認定疾病に限られた医療給付だったのがそれ以外の医療費も対象になったり、疾病を条件にしない保険手当の支給や重度の障害者についての介護手当等、より充実した方向に進みます。対象となる地域も爆心地から2km以内だったものが3km以内、原爆投下時にその場にいた人に限られていたのが100時間以内に対象地域に入った人が含まれるなどしていきます。

  

平成19年(2007年)8月5日、当時の安倍内閣総理大臣は、原爆症認定の在り方について「専門家の判断の下に見直すことを検討させたい」と発言しますが、被爆者切り捨てにつながるとして抗議が起こりました。それ以降、国が審査を進める間にも、原爆症認定の裁判で国の敗訴が続くようになります。原告が高齢化している中で、裁判を長期化させることも問題視されるようになっていきました。

 

黒い雨訴訟がもたらせるもの

 去年の記事でも触れた「黒い雨」訴訟は、こうした流れの中でのことでした。

f:id:tn198403s:20210813213758p:plain

黒い雨 イメージ

先日、「黒い雨」訴訟の一審判決で、黒い雨を浴び、特定の病気に罹患(りかん)していれば被爆者と認めるという画期的な判決が出ました。それは被爆者の願いに応えるものだったはずです。

これに対して、安倍首相は「黒い雨地域の拡大も視野に入れ、検証する」と控訴しました。どれだけ検証に時間をかけるのでしょう。75年もの間、立証が難しいと苦しめ続けられた人々を、検証の名目でなお苦しめ続けるのは2007年の姿勢そのままです。

 

今年7月14日、第二審でも原告が勝訴しました。政府の検証を待たずに、また一審よりもさらに踏み込んで、「“黒い雨”を浴びていなくても、空気中に滞留する放射性微粒子を吸い込むなどして体内に取り込んだことが否定できなければ、内部被ばくによる健康被害を受けた可能性がある」としています。

 

これは、政府にとって予想を超える判決でした。原爆のみならず、福島原発事故による被ばく者への援護に繋がる可能性があるからです。菅首相が「黒い雨」判決の控訴を断念しながらも、「容認できない」部分でした。

 

今回の裁判は原爆を前提にしたものですが、国策として進められた原発での被害について判断に影響が出るかも知れません。これまで、国は被ばくの線量が少ないことを理由に、原発事故ががんに影響を与えたとの見方を否定してきましたが、被ばくした事実は否定できず、健康被害を受けた可能性は残ります。国家補償を避け続ける姿勢が今回の判決で変わってくるかも知れません。

 

一方、8月6日までに原告に被爆者手帳が交付されていたことには少し安心しました。今後同じような状況にある人への救済も急ぐという姿勢にも期待したいです。

  

沈黙させられる怖さ

戦後76年。日本は恒久の平和を念願して歩んできました。しかし、「平和」の概念は曖昧になり、戦後反省したはずのことが復活していることもあります。戦争被害受忍論同様に、話題にしづらいことが増えてきていると思います。

歴史教科書問題

1980年代、歴史の教科書表記で、日中戦争が中国への「進出」か「侵略」で問題になりました。南京虐殺従軍慰安婦なども扱い方に変化が出始めたと思います。「歴史教科書問題」、「歴史認識問題」として広く知られるようになりました。

 

その後、戦後教育で「自分の国の歴史に誇りを持てない」、「日本は反省と謝罪を」という意識が生まれたと批判する立場から「自虐史観」として否定する主張が高まります。一方で「日本軍(特に慰安婦)問題は国内外の反日勢力の陰謀」「南京大虐殺はなかった」とまで叫ぶに至った勢力を「日本版歴史修正主義」と反論する声も高まります。

従軍慰安婦問題

2013年の政府答弁で安倍首相は「軍人や民間人が上記女性らに対し、売春をさせる目的で上記(軍法会議の記録のこと)慰安所に連行し、宿泊させ、脅すなどして売春を強要するなどした」との記述が存在することは認めた上で「いわゆる(官憲が家に押し入って行って、人さらいのごとく連れていく)強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と説明しました。

 

この話が「慰安婦問題の証拠はない」と拡大解釈され、「慰安婦問題は存在しなかった」との論調になり、自治体の長が「慰安婦はデマ」と言い切るまでになった流れを危惧します。「いわゆる強制連行の証拠がない」としても、慰安所があった事実は揺るぎません。他の選択肢を奪われ、売春を強要されたことも安倍首相自身、認めています。

 

これは、証拠になるヒトラーの命令文書がないからユダヤ大虐殺(ホロコースト)は無かった、作り話だと主張する流れとそっくりです。「証拠がないから事実ではない」と言う論調を許すのは「証拠さえ残さなければ何をしても良い」という暗黒に繋がりかねません。

 

日本では、いつの間にか慰安婦問題が大きな腫れ物のごとく、一触即発のセンシティブな話題になった気がします。少しでも自分の考えを述べると賛否両者から一斉に攻撃されそうな怖さを感じます。この話題のしにくさは、沈黙の始まりに思えてなりません。

 

平和と沈黙(2021)

上に書いた通り、センシティブな事柄を語るのは容易ではないです。今回の記事にかなり苦労しました。記事に書き始めて約2週間が過ぎましたが、上手くまとまっていない気が満々です。

 

先の大戦で知らずにいることはまだまだ多いです。でも最近は、戦前戦中のことより、戦後のことの方が大事なのではないかという気もします。日本が戦争をしていない事実に安心して平和だと思うのは、何かが違う気がしてなりません。戦争を経て、何をどうしてきたのか、これからをどうしようとしているのかを合わせて考える必要があると思うのです。

 

名古屋出入国在留管理局に収容されていたスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが死亡した事件。本来なら人権を尊重する国の機関として、威信をかけて命を守らねばならない施設のはずです。法務省の子ども向けページにはこう説明があります。

出入国在留管理庁は日本人や外国人が出入(帰)国する際の審査や確認,入国した外国人が引き続き日本に滞在するための手続,不法滞在などの外国人を国外に強制送還する仕事のほか,関係する省庁と協力して外国人との共生のために必要な政策を行っています。
また,しいたげられたり,苦しめられたりといった迫害を受けるおそれのある外国人が日本に保護を求める際の難民認定手続の仕事もしています。

まさか、その場所が外国人を虐げたり苦しめたりする場所になっていたとは思いもしませんでした。

 

最終報告では、適切な治療を行う体制が不十分だったとされていますが、事件の詳細を知る程に人権尊重意識の重大な欠如があったと思えてなりません。たとえ「不法入国」だったとしても、命を軽んじていい理由にはなりません。

 

遺族の「お姉さんの状態を上司や局長は何も知らなかったといいますがそれは責任逃れにしか聞こえません。」の言葉が胸に刺さります。たとえ、何も知らなかったとしても、人権を尊重する国であるなら起こり得ない事態です。そう思うと、この件で沈黙し放置することは私たち主権者の責任逃れにも思えます。

 

知らなかったで終わらせてはいけません。

たとえ「戦争を知らない子供たち」でも、「人権を知らない子供たち」になってはいけないと思うのです。

 

今一度この詭弁を引用します。

あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

必要なのは謝罪を続けることではありません。

人権を尊重する平和な社会を築き、受け継ぐことでしょう。

そのために、あの戦争に関わる必要があるのです。

 

 

(次回に続く)

tn53.「終戦直後を知らない子供たち」でいいですか? 平和と沈黙(2021)