tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn53.「終戦直後を知らない子供たち」でいいですか? 平和と沈黙(2021)

終戦の年に20歳であったなら(2)

1945年に20歳であったなら、徴兵されていた可能性は高いです。戦地で命を落とした可能性もありますが、生き残ったとしてその後をどう生きただろうかと考えました。

 

まず、どこで終戦を迎えたかで大きく変わります。日本本土なら、何日かけてでも家まで帰れる気もしますが、当時の植民地、満州や台湾だったらと考えると、果たして無事に日本に帰れるだろうかと不安に襲われます。日本に向かう船が運行されるかというところから怪しい上、周囲には日本を憎む人が大勢いるのです。これが東南アジアの戦地だったら、南洋の孤島であったなら、帰国できるかどうか以前に終戦を知ることすら無かったでしょう。

 

20歳の時、この辺りまで考えただけで、途方にくれました。

 

この記事は前回の続きです。

tn52.『戦争を知らない子供たち』でいいですか? 平和と沈黙(2021)

 

戦後ゼロ年

今年2021年は戦後76年です。あの戦争を繰り返してはいけないと、毎年、戦後○年と言われますが、終戦直後の戦後ゼロ年から平和になれたわけではありません。終戦直後の混乱を見る視点は大事だと思います。戦争が長引いた理由、敗戦を恐れた理由が見えてくるからです。それはそのまま、終戦後も続く悲劇を教えてくれます。

 

玉音放送

空襲により焼け野原になった街で、ラジオから聞き取りにくいポツダム宣言を受諾し終戦(日本の降伏)を告げる玉音放送が流れ、聴衆が泣いたり、うずくまったり、呆然とするのをドラマなどで見た人は多いと思います。終戦(敗戦)の象徴的なシーンですが、4分40秒に及ぶ玉音放送をきちんと聞いたことはなかったです。そこで

玉音放送 - Wikipedia

にある音声ファイル(全文、読み下し文、現代語訳も併記)を聞いてみました。雑音もあり聞きにくい上、聴き慣れない言葉も多いですが、一番肝心な

朕は帝国政府をして 米英支蘇四国に対し その共同宣言を受諾する旨通告せしめたり

(現代語訳)私は、帝国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

部分は聞き取れました。でも、これを聞いて敗戦したとはっきり分かった人は少なかったようです。また、聞き覚えのある

然れども朕は時運の赴く所 堪え難きを堪へ 忍び難きを忍び 以って万世の為に太平を開かんと欲す

(現代語訳)しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。

この部分は、これから占領されるが、堪え難きを堪へ 忍び難きを忍んで欲しいと誤認した人が多かったと聞きます。なお、この後に流されたアナウンサーの解説で理解した人も多くいたようです。

 

玉音放送には謝罪がないとの批判も聞きますが、降伏(ポツダム宣言)を受け入れたことが最重要な事実であったこと、この時点で天皇の謝罪があれば国体護持(天皇存続)が大きく揺らぎ国民が大混乱した可能性があること、等を考えれば、ギリギリの表現だったかも知れません。

 

敗戦の受諾決定(聖断)に至るまでも、放送に至るまでも、波乱続きでした。

 

実は、玉音放送の数時間前、日本の降伏を阻止しようとするクーデターにより、当時の内閣総理大臣鈴木貫太郎は命を狙われます。間一髪、警護官に救い出されています。また、同じころ、飽くまでも戦争完遂、無条件降伏拒否を条件に陸軍大臣に就いた(和平工作を考えていた説あり)阿南惟幾(あなみ これちか)は自刃しています。

 

玉音放送の後、鈴木総理は「国民悉(ことごと)く心より 陛下に御詫び申上げる次第であります」と国民を代表する形で敗戦を天皇に謝罪し、「臣子の本分は生きるにつけ死ぬにつけ如何なる場合にも天壌無窮の皇運を扶翼し奉ることであります」と国民は生死を天皇と共にするといった意味を述べました。同日、鈴木総理は天皇に辞表を提出し鈴木内閣は総辞職しています。

 

鈴木総理自身がそうであったように、誰を信用していいのか、信用してはいけないのか、何を話すと、誰からどんな仕打ちをされるのか、権力を持つ者にもわかりにくい状況だったようです。玉音放送までの1日は「日本の一番ながい日」とも言われています。

 

この辺りの経緯や各人の思惑には諸説ありますが、この放送文言であったから、天皇を崇拝する勢力の暴動や反乱、多数の自決をある程度抑える効果があったと言えなくもないような気がしないわけでもない…。

 

ごめんなさい。正直に言います。本当のところどうだったのかよくわからないです。ただ、現在では想像がつかないほどの天皇崇拝や本土決戦を望んだ勢力があったのは確かでしょう。一説には終戦当時自決した人は全国で700人ともいわれます。終戦の放送を聞いた後、まだ正式な停戦命令は出ていないとして、特攻をしかけた軍人もいます。放送の後1年以上たってから自決した人もいるそうです。

 

その時のアメリカ人にとって天皇存在の意味は理解し難かったでしょう。象徴天皇制の下で日本人歴55年の私にもこの辺りのことはよく分かりません。強制的であれ、自主的であれ、当時の尽忠報国は、現代人や外国人の理解を超えていたと思います。

 

皇居前広場

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皇居前広場から眺める二重橋

玉音放送の後、次々と皇居前広場に人が集まってくるようになりました。鈴木総理が天皇に謝罪したように、皇居前で天皇に謝罪し土下座するためです。

皇居前広場のゼロ年とした特集ページでは、当時の様子を語る動画があります。

www.nhk.or.jp

8月23日には、広場で自決した人が13人いたとのこと。

 

8月26日には、後述する「特殊慰安施設協会」(RAA)結成式が行われます。

政府は各地方長官に進駐軍向けの慰安施設を設立するよう指令し、多くの女性が集められた。皇居前広場で開かれた結成式では日本民族の純潔を守るための「防波堤」であるとする声明文が読み上げられた。

皇居前で特殊慰安施設協会結成式を行うことに違和感が拭えませんが、国の政策という名の下に女性を集めるには格好の場所だったとも思えます。

 

1946年3月になると、戦勝国のパレードが次々とおこなわれます。米軍だけでなく、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、インド軍によって、頻繁に行われたそうです。戦勝をアピールするのに格好の場所であったのでしょう。

 

5月に入ると立て続けに民衆が集会などを行うようになります。そこでは、敗戦で打ちひしがれているばかりではいけないと、生活が苦しくとも声を上げて立ち上がる人々のエネルギーも感じられます。

 

5月1日 戦後初のメーデー集会が行われました。

前年12月に労働組合法が制定され、11年ぶりに開催された大会には50万人が参加。これ以降、昭和25年まで皇居前広場で開催が続いた。

5月12日 世田谷区民が米よこせ区民大会を経て皇居の台所に押し入ります。(後述)

旧軍や政府関係者による物資隠匿(後述)の摘発事件が続出する中、深刻な食糧危機はさらに深刻化し、コメの配給が5月に入って激減。「都内平均5日間の遅配が10日現在で5日半となり、ついに世田谷区の11日半となった」と東京・世田谷で開かれた米よこせ大会に参加した区民113人が、皇居の食糧事情を確かめようと台所に入った。

5月19日 食糧メーデー(後述)

食糧危機を解決できない政府への憤りから、25万人が広場に集まった。労働組合社会党共産党の代表だけでなく赤ん坊を背負った主婦・永野アヤメが演台に立ち、政府を糾弾した。

 

もし、皇居前広場に定点カメラが設置されていたら、終戦直後からの世情の動きがつぶさに記録されていたでしょう。

 

終戦後も平和は簡単には来ない

当時、「戦争が終わったら平和が来る」と素直に終戦を喜んだ人がどれだけいたでしょうか。天皇に忠誠を誓い、「降伏したらアメリカに何もかも取り上げられる」、「負ければ、虐殺、略奪、去勢、強姦、奴隷化」等と散々脅され、戦争に奉仕させられていたのです。それまで鬼畜米英と呼び、憎くて恐ろしい敵と戦わされていたのに、戦争が終わったとたん、優しいアメリカ人が日本に来て、窮状を助けてくれると安堵した人が多くいたとは、とても思えません。

占領される恐怖 日本政府のしたこと

敗戦の衝撃の直後にあったのは占領される恐怖でした。玉音放送以後の日本国内では「敵が上陸したら女を片端から陵辱するだろう」との噂が拡がりました。政府も同じことを考えました。敗戦3日後に日本政府は、日本人女性が手当たり次第に性暴力の対象にされることを食い止めるため、売春施設「特殊慰安施設協会(RAA)」を作るように動いたのです。軍の関係書類の焼却処分命令に次ぐ速さと言えます。

 

敗戦を受け入れるまでの紆余曲折に比べて、この動きの早さには驚きます。政権の中枢にいた人が、外国の軍隊による性暴力にこれほどまで強い恐怖感を抱いたのは、日本軍の兵隊がしたことを知っていたからだろうとの説が有力です。もっとも、当時は世界中の戦争で、性暴力は当たり前だったとも聞きます。

 

 他に生活の術の無い戦争未亡人や子女が多かった時代背景もあり、東京都内だけで約1600人、全国で4000人の慰安婦が働いており、RAA全体では5万3000人の女性が働いていたとみられる。慰安婦は一日あたり30人から50人の客を取っていた。

特殊慰安施設協会 - Wikipedia より

強制性を別にしても、日本軍の従軍慰安婦がデマだったと思えない理由の一つです。

 

NHKの特集ページからの引用です

昭和20年8月26日には、閣議決定を経て「特殊慰安施設協会」(RAA)が発足します。進駐軍兵士による婦女暴行を未然に防ごうと、慰安婦の仕事に就く女性を全国で募った。性病が蔓延し、翌年GHQの指示によってRAAが閉鎖された後も、女性たちは路上に立って客をとり続けた。進駐軍兵士を客とする街娼は、いつしか「パンパン」と呼ばれるようになった。

www.nhk.or.jp

 同じページで「闇の女 ラク町のお時(東京・有楽町) 「パンパン」への偏見と戦った女」と紹介されている文章も引用します。

東京の商業学校に通っていた昭和20年、東京大空襲で家族を失う。上野駅地下道での浮浪生活を経て、有楽町を根城にする街娼たちの元締めとなった。昭和22年、19歳のとき、NHKアナウンサーのインタビューによるラジオ番組「街頭録音」で、街娼たちの社会復帰を受け入れようとしない世間を痛烈に批判し、大きな反響を呼んだ。お時自身も、夜の世界から足を洗おうと工場の事務員に就職するが、その後消息が途絶える。

多くの日本人が アメリ進駐軍を恐れる中、米軍の空襲で焼き出された女性を多数盾にしておきながら、その裏で彼女たちの社会復帰を受け入れない戦後間もない日本。ラク町のお時さんにも、平和な時代が訪れたと言えるのでしょうか。

襲撃される恐怖 満蒙開拓団

女性を性の防波堤にして、自らの安全を守ろうとしたのは政府ばかりではありません。

1932年以降、開拓団との名目で、日本の各地から多くの人が満州(現在の中国東北部)へ渡り、集落を築きます。約27万人が移住したそうです。開拓団は現地の人たちの畑や家を奪う等、かなり強引なこともやっていました。やがて、そこで敗戦を迎えると、現地住民による略奪や殺戮にあったり、集団自決や病気で亡くなったりする人が多く出ました。また、終戦直前の8月9日に旧満州に侵攻したソ連軍は日本の敗戦後も南下を続け、勢力を拡大していました。満州は大混乱に陥りました。後の中国残留孤児問題となる子どもや女性の人身売買もありました。

 

そんな中、現地住民の襲撃を恐れ、ソ連軍部隊の力を頼った開拓団がありました。ソ連軍には見返りとして未婚の女性約15人に軍将校の性の相手を強要させたのです。未婚の女性であれば、夫が苦しまないからいいだろうとの身勝手な理由でした。

 

性接待が続けられるうち、4人の女性が性病と発疹チフスにかかり、亡くなりましたが、「それが当たり前と思い頑張るんや」と言われたそうです。終戦から1年後、故郷に帰ったのは開拓団662人のうち、451人でした。しかし、故郷では性接待は“なかったこと”にされ、女性たちは「汚れた女」と呼ばれたと言います。

 

戦後73年が経ち、存命者が3人にまで減る中、遺族や関係者は戦争が招いた過酷な事実を後世に残すため、過去と向き合い、ようやく明らかになった事実でした。 

日本軍の膨大な資産が姿を消す

軍人や政府要人や官僚が、戦争に関する文書の処分、性の防波堤としての慰安所設置よりも素早く動いたことがあります。日本帝国陸海軍が保有していた膨大な資産の隠匿と言うより略奪です。日本軍の隠匿物資は20億ドル(現在の数兆円)にものぼると言われるものでした。戦況悪化に伴い物資供出の大号令で国民からは貴金属などを強制的に押収しておきながら、戦争には使わず何かのためにと隠し持っていた資産も残っており、その処分、隠匿、の指示文書が玉音放送前日の14日に出されています。 

軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件です。

国立国会図書館にある資料を引用します
rnavi.ndl.go.jp

終戦1945(昭和20)年玉音放送が世に流れる1日前、8月14日の 閣議決定文書です。

(黒太字が閣議決定文書の内容)

軍其ノ他ノ保有スル軍需用保有物資資材ノ緊急処分ノ件
昭和20年8月14日 閣議決定

(私の現代語訳)軍やその他で保有する軍需用保有物資資材の緊急処分の件

昭和20年8月14日(玉音放送の前日) 閣議決定

陸海軍ハ速カニ国民生活安定ノ為メニ寄与シ民心ヲ把握シ以テ積極的ニ軍民離間ノ間隙ヲ防止スル為メ軍保有資材及物資等ニ付隠密裡ニ緊急処分方措置ス
尚ホ陸海軍以外ノ政府所管物資等ニ付テモ右ニ準ズ

(私の現代語訳 赤字・太字は私によるもの)

陸海軍は速やかに国民生活の安定の為に寄与し、民心を把握し、積極的に軍と民が協力して(占領軍に差し押さえられる)隙ができないよう、保有資材及び物資については、隠密裏に緊急処分の処置をする。

なお、陸海軍以外の政府補完物資についても右に準じる。

 ※ここでの「民」とは、国民ではなく、財閥などの意味

 

続いて具体的な方針です。

例示
一、軍管理工場及監督工場ノ管理ヲ直チニ解除ス、此ノ場合製品、半製品及原材料ノ保管ハ差当リ生産者ニ任ス

(私の現代語訳)一、軍管理工場及び監督工場の管理任務を直ちに解除する。この場合、製品、作りかけの半製品、及び原材料の保管はさしあたり、生産者に任せる。

※軍の工場の管理は当面、財閥に任せる

 

二、軍ノ保管スル兵器以外ノ衣糧品及其ノ材料医薬品及其ノ材料、木材、通信施設及材料、自動車(部品ヲ含ム)、船舶及燃料等ヲ関係庁又ハ公共団体ニ引渡ス

(私の現代語訳)二、軍の保有する併記以外の衣料・食料品及びその材料医薬品及びその材料木材、通信施設及び材料自動車(部品を含む)船舶及燃料等関係庁または、公共団体に引渡す。

※軍の保有する物品、燃料などは関係庁や公共団体に引き渡す

 

三、軍作業庁ノ民需生産設備タリ得ルモノハ之ヲ適宜運輸省関係ノ工機工場其ノ他民間工場ニ転換ス

(私の現代語訳)三、軍作業長の民需生産設備たり得るものは、これを適宜運輸省関係の工機工場その他民間工場に転換する。

※軍が所有の設備は、持ち主を運輸省や民間(財閥)工場の物とする

 

四、食糧(砂糖ヲ含ム)ヲ原材料トスル燃料生産ヲ即時停止ス

(私の現代語訳)四、食糧(砂糖を含む)を原材料とする燃料生産を即時停止する。

※食料を燃料に変える(バイオ燃料)生産は即時停止。食糧の確保を優先する

 

五、軍需生産ハ之ヲ直チニ停止シ工場所有ノ原材料ヲ以テ民需物資ノ生産ニ当ラシム

(私の現代語訳) 五、軍需生産はこれを直ちに停止して、工場が所有する原材料を持って民需物資の生産に当たらせる。

 ※軍事のための生産ではなく、民間のための生産ということにする

 

一言でいうなら、占領軍が来る前に軍の資産は特権階級に分配してしまうという文書物でした。国民に返すという考えはありません。隠密裡の緊急処分です。国民の財産を横領することを国家が黙認するという、とんでもない指令です。一説には現在の額に換算すると20~40兆円にものぼるとか。特権階級には1952年、日本が独立した2日後に戦没者遺族を支援する「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が公布され、翌年には軍人恩給も復活します。被災した民間への補償はほとんどないままに、どれだけむしり取るのでしょう。

 

しかも、誰が何を持ち出し、どこに渡したのかの資料のほとんどは焼却処分にされ、行方不明のままになっているものが全資産の70%に上ったとの調査もあります。いえ、誤解が無いように書くなら、「行方不明のままになっている」ではなく「行方不明にさせている」でしょう。証拠を無くす前提で分配したのです。軍人、政府関係者、官僚が財閥関係企業に横流しし、より癒着を広めたとの見解もあります。「軍需用保有物資」と呼ばれていても、東京湾で見つかったのは大量の金塊で映像もあります。

参考リンク:戦後ゼロ年 東京ブラックホール|NHKスペシャル

また、大量のダイヤモンドは結果的に占領軍が摂取したとも報じられ、国会の特別委員会でも議題になっています。資料として 国会会議録検索システム のリンクを貼っておきます。

 

見逃せないのは、これに似た手法が、つい最近もあった点です。コロナ禍で持続化給付金をスピード感を持って行うとの名目で、多額の中抜きをして関連企業に丸投げの連鎖を繰り返したという問題を記憶している人も多いでしょう。金額はどんどん失われ、申請者に行き届く前に多くが目減りしたのです。

また藁にもすがる思いだった申請者には書類の不備を理由に何度も申請を余儀なくされた人が多くいました。SNSで「#不備ループ」として数多く投稿され明るみになりました。いつまでたっても下りない給付金が問題となる一方、官僚の立場にもかかわらず給付金詐欺を働いた輩もいました。こうした詐欺が、給付金申請の受理を一層困難にさせたであろうことを考えれば、あまりに許せない行為だと言うしかありません。

 

あの戦争はおおきな生活格差を生みました。現在とは時代も金額も違いますが、同じような構造でコロナ禍の生活格差を生み出されていることは見逃せません。

 

要人の略奪は命の糧にも及ぶ

また、資産に限った話ではなく、配給の食糧さえ国民の手に渡るまでに次々中抜きをされていきます。配給ルートの確保が難しいとして、戦後直後の混乱期に国民の手に渡る食料は粗末になり、届くまでにも何日もかかりました。結局、多くの人が飢えで亡くなっています。闇市で食料を得ないと生きていけない現状を訴えても声は届きません。法の番人として正規のルートで手に入るものしか口にしなかった山口良忠裁判官は1947年10月に餓死しています。配給だけでは生きていけなかったのです。

 

5月12日と19日に皇居前広場で行われた米よこせ区民大会、食糧メーデーについて、先の女たちのゼロ年から引用します。(リンク先では動画の中で永野アヤメさんの演説の一部を見ることができます。)

空襲で焼け出され、乳飲み子を抱えて世田谷の知人の家に間借りする。極端な食糧不足の中で雑草さえ食べつくし、母乳も出なくなった。そのころ、政府や軍関係者による食糧の隠匿が次々に発覚。これに憤った人々は「世田谷米よこせ区民大会」を開催、参加者の一部が皇居の台所に踏み込んで皇族の食糧事情を暴く事件に発展した。永野アヤメはその1週間後、皇居前広場で開かれた「食糧メーデー」で25万人の先頭に立ち、母親を代表して政府を痛烈に批判した。

赤子に飲ませるおっぱいも出ないのであります。
この窮状を町会長は知っているでしょうか。
そして、町会長に申し上げてもそれは取りあげてくれないのであります。
警察に言っても問題にしないのであります。
これ以上の苦しみを誰に聞いていただいたらよいのでありましょうか。

 

永野アヤメさんは、ひとり娘を育て上げ、平成16年に90歳の生涯を閉じました。

 

敗戦色濃い中、いわゆる特権階級にある者達が命を軽んじ戦闘機で体当たりをさせる特攻を指示できたのも、既に人間らしさを失っていたからと思えてなりません。玉音放送の後でも特攻をかける兵士が出る程のものでした。

世では大和魂なる言葉が使われ士気を鼓舞する一方で、戦争を終わらせる玉音放送の前から軍の財産を奪い保身に走る。この姿は現在に通じるものを感じます。

 

軍や政府、官僚達と国民の生活格差が大きかった上、戦況の判断にも大きな差があり過ぎて、統制が取れなくなっていた国情が浮かび上がります。

隠匿物資に食料隠匿。

終戦後には、空襲で焼け出され身体を売らなければ生きていけない女性がいて、満州から逃げ延びるため未婚女性をロシア兵に差し出した開拓団がいたわけです。命の糧となる食料配給は減らされ遅配が常態化し、市民は飢えに苦しみ明日の生死さえ不安な日々を送っていたのです。

 

「戦争が終わって日本は平和になりました」の一文で、この時代を無かったように言うことに、強い疑問を感じてなりません。終戦直後を知らないまま、戦争がなければ平和だと簡単に言い切っていいのかどうか、考える価値は大きいと思います。

 

答え

冒頭で書いた戦争が長引いた理由、敗戦を恐れた理由。

それは特権階級にある者たちの特権への執着と喪失の恐れでしょう。

それが見える時代だからこそ、この時代をなかったことにしたいのだと思います。

今の権力者も特権への執着と喪失の恐れを持ち続けているようですから。

 

 

(次回に続く)

  tn54.「平和を知らない子供たち」でいいですか? 平和と沈黙(2021)