tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

ヒヨコはペットか家畜か教材か

私が小学校の高学年だった頃、兄と一緒に団地内のスーパーマーケットで、ヒヨコを2羽もらったことがあります。1羽だけ飼うと上手く育たないことが多いとの話でした。何かを買えばもらえたのか、希望者にもれなくもらえたのかは憶えてません。

当時は、お祭りの露店でも色をつけられたカラーひよこが売られていたように思います。でも、色を塗られたヒヨコはどうにも異様に見えてかわいそうだし、すぐに死んでしまうという話も聞いていました。

ですから、ちょっとよたよた歩いている風でしたが、色を塗られていないやや薄い黄色のヒヨコを見て、これなら飼えそうだと安易にもらうことにしたのです。ヒヨコの育て方もほとんど知りません。「この米のぬかを少し濡らしてあげればいい。」とヒヨコと一緒にもらった餌があるから、大丈夫くらいに思っていました。

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ヒヨコ2羽

もくじ

 

 1.ヒヨコはペット?

最初は「ぴぃぴぃ、…、…、ぴぃぴぃ。」と、鳴き声に間があって、これは、弱っているからだ、帰ったらすぐにエサをあげなくてはと急いで帰りました。兄の学習机の上に空き箱を置いてヒヨコを入れました。手頃な食器にぬかを入れ、幾らかの水を垂らして混ぜます。おからで作った卯の花のイメージですが、ぬか特有の匂いが立ち、本当に美味しいのか、はなはだ疑問ながらスプーンで与えます。

お腹が空いていたせいか、ぱくぱく、いえ、濡らしたぬかなので、ぱふぱふ食べてました。その様子を見て、まず一つ、いいことをしたと思いました。

次の気がかりは、2年ほど前に家で飼っていたウサギが死んで以降「もう動物は飼わない」と決め込んだ母をどう説得するかでした。でも、ヒヨコの間の空いた鳴き声を聞いたあと、仕方ないね、世話はきちんとすることを条件に、何とか事後承諾を得ることができました。

 

2,3日して、学校から帰ってくると、箱の中にヒヨコがいません。兄の机の上にもいません。落ちてしまったかと机の下も見ましたがいません。どこかから猫が入ってきて食べられたかとも思いましたが、血の跡もありません。でもよく見ると、畳にふんがぽつんぽつんと落ちていました。見た目、緑っぽかった気がします。それがあちこち。生きてはいるんだろうと安心したものの、部屋のどこかにいる気配は無し。足音も鳴き声もありません。

部屋を出てみると、さっきは気づかなかったのですが、廊下にもふんがぽつぽつ。結局台所の食卓の下で発見しました。もしかしたら、パンくずでも見つけたかもしれません。とにかく、数日で足取りもしっかりしてきて、小さくても冒険心旺盛な二羽に急に親近感がわいたのを覚えています。とはいえ、毎日家の中を冒険されても困ります。父の実家から当時の私が抱えられるくらいの金属製の鳥かごをもらい、その中に入れました。しばらくはピヨピヨと元気に鳴いていましたが、それが住処が与えられて喜んでいたのか、閉じ込められて不安なのか、よくわからなかったです。

 

しばらくすると、ヒヨコの産毛が抜け始めました。最初の内こそ、成長が早いね~なんて家族で話していましたが、やがて抜けた毛が、鳥かごから飛び出て部屋にふわふわ散らかってしまい、拾うのもなかなかに大変。父も何とかしないといけないと、日曜大工で鳥小屋を作ると言い出しました。

鳥小屋となると、家の外になります。家の中でペットとしてヒヨコを飼うつもりだった私としては、なんとも賛成しがたいことでした。

でも。それからしばらくする間に、ヒヨコはどんどん大きくなりました。鳴き声もピヨピヨではなく、くぅ、とも、こぅ、ともつかない感じになってきます。鳥かごの前の落とし戸を開け、出そうとしても、体が大きくなっていて無理でした。仕方なく、鳥かごの上部分を外して出すようになりました。だんだんヒヨコとは言えない色と大きさになってきていました。やがて、かごの中で体の向きを変えるのも大変そうになって、もうすっかりニワトリです。ペットとしてヒヨコを飼う願いは1カ月程でかなわなくなったのでした。

 

2.ニワトリになったら家畜?

父が器用に鳥小屋を完成させたのは夏の手前頃だったでしょうか。その頃には、ずいぶんたくましくなってきました。それまでに知った知識で、カキの貝殻を割って与えたり、砂粒のある地面や、雑草の多くなった野菜をまだ植えていない畑を歩かせたりしました。結構雑食で食欲旺盛です。畑の雑草はほとんど綺麗に無くなりました。

それだけではありません。なんとバッタも食べました。普段は首をふりふり、歩くのもゆっくりという感じですが、狩りとなると別の姿を見せます。何も考えてない風にゆっくり近づいて、くちばしが届く距離となると、ばっととびかかるように、ぱくっ!っと仕留めます。そればかりか、おそらく誰もが一番嫌いとする昆虫、ゴキ〇〇が飛んでいるところをジャンプしてぱくっ!もしゃもしゃと食べてました。

雑草と虫の駆除、なかなかの働き者でした。

 

一緒に遊んだこともあります。畑の手前に障害物を置いてどのくらいの高さまで超えるか、逆にどのくらいの高さなら飛び降りられるか、試していました。鳥の高さくらいのコンクリートブロックなら羽ばたきながら飛びあがり、物置小屋の屋根くらいの高さからなら難なく飛び降り、羽をばたばたとさせて、綺麗に着地していました。もしかしたら飛べるようになって、ニュースになるかもなんて思っていましたが、そんなことはなかったです。

 

そして秋頃になって、不意に、父が「そろそろ食べるか。」と言い始めました。最初は冗談だと思っていましたが、父の実家は農家で鶏を絞めていただいたこともあるとのこと。ここには書きませんが、その時の様子を何度か詳しく聞いたことがあります。時折、笑いながら話すので、ぞっとしたこともありますが、生き物が肉になる過程の話は、食に対する考え方を改める貴重な話になりました。

当時は精肉技術に原因があったのか、鳥皮に羽の根元が残っていることが時折にありました。それを見ると急に食欲が失せていましたが、父の話を聞いてから、自分で平気で羽の根元を取り除いて食べられるようになりました。それくらいのことで差し出してくれた命を無駄にしてはいけないと思うようになったのです。

それでも、育てたニワトリを食べることにはかなり抵抗がありました。父はどうやら本気のように思えました。もらってきたヒヨコにメスが混ざっていることはまずない。オスなら卵を産まないし、食べるなら半年以内の若い方が美味しいとのこと。

兄も食べるのには抵抗があり、急いで結論は出せず、もうしばらく飼ってみることになったのです。 

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ニワトリになる手前頃

3.理科の授業で有精卵の観察

記憶に曖昧な部分があって、ここで述べる授業の話と先のニワトリを食べるかどうかの話とどちらが先だったかはっきりしませんが、私の年代では小学校6年の理科でトリの卵の成長を学習することになっていました。

先生が数日間孵化器で温めた有精卵を少しだけ割り、ピンセットで殻の破片を取り除いた後、卵の内側の膜を破り、光を当てて覗き込みました。そのとき、普段見る生卵の黄身の上に赤い血管と玉(きっと後の心臓になる部分)がありました。資料写真と同じに見えましたが、微かにに動いていたような気がします。

卵の殻の一部を取り除いてしまったら、卵が死んでしまうのではないかと心配しましたが、サランラップだったかセロハンテープだったかで上手に穴の部分だけを覆えば、きちんと雛になることもあるそうです。殻を割るのはかわいそうという声もありましたが、こうした観察を積み重ねることで命の大切さを学ぶことができること、また勉強をしたことを忘れることの方が命を無駄にしてしまうことなどの話がありました。納得できる部分も、納得しかねる部分もあった授業でした。

ですが・・・。ここから先は、夢か現実かが不確かなのですが、理科室と準備室の掃除をして、ごみを焼却炉に入れた時に、割れた卵の殻と、成長過程で死んでしまったひなを見た記憶があります。そして、なんともやるせない気持ちで焼却炉の扉を閉め、手を合わせて、「ありがとう」「この勉強は忘れないからね」と心の中でお礼を言いました。ただ、それが事実という自信はないままです。

実は、マザーグース(英国の伝承童謡)の「ハンプティ・ダンプティ」を知ったときに思い出したのがその光景でした。それが高校時代の文化祭で提案したお話の原点になっています。

tn198403s.hatenablog.jp

少年がこの詩(歌)を見たとき、幼い頃の木登りで、誤って鳥の巣から卵を落としてしまったことを思い出します。割れた卵から、孵化する直前のひなが見えていた記憶も蘇り、自分のしたことを責めるようになります。

この出だし部分は、焼却炉の記憶です。そして、ラストを

お馬も家来もみんな悲しんで

ハンプティは安らかに旅立ちました。

としたのは、私なりの贖罪もしくは願いだったのかも知れません。

  

4.思わぬ出来事

 ヒヨコを買い始めて半年程経ち、秋から冬に移り始めた頃、「ニワトリを食べるかどうか」の話が再び持ち上がります。これ以上育てると、肉が固くなって美味しさが落ちると言うのです。そうなる前、年内になんとか答えを出すことになりました。

かなり悩んだのを憶えています。ヒヨコの多くは生まれてすぐ、オスとメスに分けられるそうです。オスは卵も生まないため利用価値が低く、通常、選別されるとすぐに処分されるそうです。そうなる直前に引き取ったヒヨコが色塗りをして売られたり、配られたりするのだそうです。

すぐに処分される運命のオスのヒヨコが運よく配られ、この家に来て、ここまで育ったのです。最後までペットとして面倒を見てあげるのが当然という思いは私にも兄にもありました。ただ、父の言う、食肉としてきちんと役目を果たせる最期を迎えさせるのも大事なこととわかるのです。母の実家は肉牛を飼育していたためか、どちらも大事という立場でした。

このときはじめて、食肉を育てることの大切さや覚悟を真剣に考えたと思います。肉の美味しさは、飼育する人の思いや願いを込めて育てられた証であり、その最期の判断や、精肉の作業が丁寧にされたからこそです。ペットとは違う、命を大切にする行為だと思うようになりました。いろいろ考える内、「ヒヨコと一緒にもらった餌があるから、大丈夫」くらいに安易だった自分を少し後悔するようになっていました。

 

そんなある日、思わぬ出来事によってニワトリの今後が決まりました。鶏小屋からいつになく荒々しい鳴き声が聞こえ、バタバタと騒々しいのです。慌てて駆けつけてみると、なんと卵が一個ありました。「オスなのに卵を産んだ」と驚いた後で、いやメスだったんだと驚き直しました。さらに「コケェーッ!」と鳴きながら、生まれ落ちたばかりであろう卵を、ニワトリがぐしゃっと踏みつけ、二羽揃って卵を突っつき始めたのにも驚かされました。

卵を食べる行為は一見残酷ですが、卵を知らない食欲旺盛なニワトリが食べようとするのは理解できます。後の父の話では、卵をすぐに収穫しないとニワトリが食べてしまうのはよくあるという話でした。

 

卵を産むならずっと飼い続けることはすぐ決まりました。気がかりなのは、それが有精卵なのか、どちらのニワトリがメスなのかです。ぱっと見では、区別がつきません。オスは鶏冠(とさか)が大きくなるとは知っていたのですが、まだ育ち切っていないからか、どちらも小っちゃいです。そこで、しばらく二羽を別々にして飼って様子を見ることにしました。

結果、2羽とも卵を産みました。2羽ともメスだったのです。

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1日に卵2個の収穫

ヒヨコのメスとオスの区別は、素人にはかなり難しいという話は聞いていました。なので1羽だけなら混入することもそれほど珍しくないとの話(最初、「もらってきたヒヨコにメスが混ざっていることはまずない」と言われましたが)でしたが、2羽ともメスなら、何かの手違いがあったのかも知れません。

何にせよ、2羽ともこのまま飼い続けようと結論が出た瞬間でした。ぬか中心だったエサが、トウモロコシを中心にして加工された飼料に変わったのもこの頃だったように思います。

 

5.命を育む、命をいただく

しばらくの間、産卵は安定しませんでした。とにかく、小屋が騒がしくなるとすぐ駆け寄って、可能なら卵を取り出すようにしていましたが、いつ産むのかわかりませんし、気づくのが遅ければ食べられてしまいます。

卵が割れてしまうと、掃除も一手間増えます。鳥小屋の床には砂を数cm重ねてあり、汚れると上の部分をスコップで削り取り、畑の土と混ぜていました。でも、つぶれた卵は傷みも早いので見つけたらすぐにその部分の砂を削らないといけません。

ただ、産卵が安定してきた頃には、食べられることも減ったように思います。産むのは大抵午前中で、しかも家族の朝食より早い時間だったことも多く、私より先に母や兄が収穫していたこともありました。また、帰宅した後でも小屋に卵が残っていることも少なからずあったように思います。

 

卵を産む前兆のような動きをすることもありました。ただ、産むかな?と思ってじっと見ていたら、ぶぼっと肛門が開いて糞尿だけが出てきたこともあります。その光景は今でも目に焼き付いています。その後に産んだ卵はどうにも汚いように思われて、食べるのをためらったのですが、卵の中が汚れている訳でもないと自分に言い聞かせて食べました。そうでなくても、コオロギやクモ、ゴキ〇〇まで食べたニワトリです。変なイメージを持つ材料は豊富。でも、卵は常に単なる卵なのでした。

 

ニワトリを育てるだけの時には考えなかったことを、卵を産むようになって考えるようになりました。ニワトリが食べる物がやがて卵になり、それを自分がいただくという連鎖。産んでくれた卵は、成長こそしませんが、生きています。その命を卵かけごはんや、卵焼きなどにして食べた私がニワトリの世話をし、そのニワトリがまた卵を産む。当たり前ではないようで、当たり前のことだと後に気づきました。人間を含むあらゆる生き物は、自分が得たものを別の形にして育み、そこから新たなものを得る。その繰り返しの中で、人間も生き物も環境も成長していくのでしょう。

 

6.成長に組み込まれる最期と覚悟

産みたての卵の白身は、透明ではなく白っぽいです。卵の殻は貝殻をエサに混ぜると固くなりました。エサがまちまちだったので、殻の色や黄身の色がよく変わりました。どんな仕組みなのかは知りませんが、食べ物によって卵も変化すると知りました。そんな風に知識を増やしながら、私は小学生から中学生へと成長を続けていました。でも、 知らなかったことが当たり前になった頃、当たり前が当たり前で無くなっていきました。

私が中学生になり受験を意識し始めた頃、それまで毎日のように産んでいた卵が、毎日ではなくなり、やがて産まない日の方が多くなりました。最後の卵を産んだのは高校生の時だったと記憶しています。もう産むことはないだろうと思い始めた頃に、「コケェーッ!」の鳴き声。ずいぶんと久しぶりに産んだ卵を割ってみると、とろっとしていて白身が透明に近かった気がします。記憶違いかも知れませんが、あぁ、これが最後の卵かもと直感しました。その後、1年経つか経たないかの頃に1羽が亡くなり、更に半年経つかどうかの頃にもう1羽が亡くなりました。

悲しくなかったといえば嘘になります。でも、悲しかったというのもどこか違う気がします。最後の卵と直感した時から、どこかニワトリの最期を覚悟できていたように思うのです。最期を意識できるのと意識できないのとでは、どちらが優しいことなのか今もわかりません。それは、若いニワトリを食べなかったことが優しいのかどうかともリンクしています。

 

誰も皆、他の命をいただくことで自らの命を繋いでいますが、それは他の命を育むことにもなっています。思うのです。毎日のように産んだ卵をいただいた時期を経て育った私のニワトリを何年も飼育した経験は、しっとりと私の生き方に影響を与えているはず。でも、若いニワトリをいただいていたなら、育てた半年近い経験はもっとぎゅっと凝縮されて私の生き方を変えたのではないでしょうか。

私が成長する間にいただいた命の最期は数えきれません。でも、その多くは最期を実感することなくいます。ニワトリを飼育して食べた卵の数だけの最期を意識してきたとも思えません。でも、あの時若いニワトリをいただいていたなら、今尚、その最期は強烈な印象を持ったままになっていると思います。

覚悟の無いまま育てる命、覚悟の無いままいただく命、覚悟して育てる命、覚悟していただく命。どれがあるべき命なのか答えは無いと思います。でも人生の中でそう多くない覚悟の機会を乗り越えれば、その後、当たり前の覚悟となって、自分の成長に組み込まれて行くように思います。いつか最期を迎える自分の命も、そうした命に成長を支えられ、また別の命を支えていると思うようになりました。

 

おわりに

ヒヨコはペットか家畜か教材か--。

私は答えを持っていません。でも、どれもが正しい気がします。ただ生き物が、他の命で成長し、他の命を成長させているのは確かなことだと、ヒヨコとニワトリと産んだ卵が教えてくれました。 

ありがとう。そして、ごちそうさま。

 

 

今週のお題「〇〇の成長」

 

※ 今週のお題「〇〇の成長」の時に描き始めたものの、長くなってまとまらず、遅れての投稿です。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。