tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn102.ネタ帳20240127 今年の目標と5つの話題宣言

2024年の目標について

今週のお題「2024年にやりたいこと」

1月も残るところあと4日になりました。先延ばしを続けていた今年の目標も、そろそろ決めて置かないと、ずっとダラダラしそうです。ということで、決定しました。

2024年 5つの話題宣言

今年もアイキャッチ画像には手抜き感満載です。これも定着しそう。

年間100記事

年間100記事は、ちょっと悩みましたが、今年も続けることにしました。この記事を投稿すればもう25記事となるので、残り75記事。油断は禁物ですが、何とかなるんじゃないかな?と思います。加えて、何記事まで伸ばせるかという思いもあるのですが、そこは+α ってことで目標からは外しておきます。

 

1記事2000字程度

私の場合、ついつい記事が長くなってしまいがちです。そこで、目安として1記事2000字程度をもう少し意識したいです。とは言え、字数にとらわれず、勢いに任せた方が書きやすいこともあります。思いつくままにどんどん書いた先で、新たな視界が開けることもあります。まぁ書いた後で、2記事に分けることにも慣れていこうかなと。

 

ただ、思うだけじゃ多分何も変わらなそうです。575文字カテゴリーがある程度定着したように、カテゴリー化や、字数の表示等、もうちょっと具体的な手立てを考えてみます。

 

こつこつ、のほほ~ん、しなやかに、したたかに

これは「マイペース(こつこつ)」で、「気負わず(のほほ~ん)」、「柔軟に(しなやかに)」、でも「自分らしく(したたかに)」というイメージです。これまでずっと続けてきたつもりですが、振り返れば、2022年10月に1ヵ月連続更新や去年12月に34記事投稿など、かなり強引なこともやっていました。まぁ、それでも何とかしたい思いを続けられたのは、このフレーズのおかげでもあるかな?と思います。

 

自分らしいブログにするために、改めて明記しておきます。

 

5つの話題宣言とは

話題宣言を始めたのは、2021年1月に下書きの下書き段階で箇条書きにしていたネタを、操作ミスでうっかり公開してしまったことがきっかけ。今年で4年目です。

今年はこんな話題を記事にしますという忘備録というか、予告というか、そんな感じ。話題宣言をやってみると、重荷になることもある反面、1年間の見通しが立ち、モチベーションの維持に一役買ってくれる気がします。また、5つの柱があると、1年の振り返りをする時もわかりやすくて便利です。

 

そんなわけで、今年も5つの話題宣言を続けることにしました。

2024年の5つの話題宣言

1.AIの話

去年、書くと宣言しながら、書けませんでした。ChatGPTという格好のネタがあったのですが試してみることもできず、AIに関係のある記事としては、年末にはてなブログのAIタイトルアシストを体験したことくらいでした。

 

今、AIに関するのニュースやドキュメンタリー、宣伝等、情報が多く、全体像をつかむのは容易ではありません。去年はあれこれ、目移りしてる間に流されてしまった感じです。AIの中でもこの話題、という感じで内容を絞りたいところ。どんな風に絞るのか、まだ構想はありませんが、何らかの形にはしたいです。

 

2.地図から広がる世界

去年末から始めたシリーズが、今のところ(4)まで続いています。

もう少し続けたいです。取り上げたいネタも幾つかあります。せめて(7)くらいまでには…

 

3.高校時代の授業

去年の10月、高校時代に使っていた国語の教科書が出てきました。

パラパラとめくるだけで、メモ書きやイラストもあって、当時のいろんなことが思い出されます。そんなことも含めて、記事に書くつもりです。

 

現在「高校の授業」カテゴリーとして40記事、「授業」でカウントしている記事が35記事です。「授業」のカウントを40以上まで伸ばしたいと思います。

 

4.「平和と沈黙」シリーズ

去年は年末ぎりぎりになってようやく仕上げられました。実際のところ「AIの話」を切り捨てて「平和と沈黙」を取り上げたという感じ。今年は、どちらも記事にする決意で、5つの話題宣言の中に位置づけました。何をテーマにするかは未定です。

 

5.自然と科学

これまでにも、高校時代に読んだ科学雑誌の内容をネタに記事にしています。このブログ内を「科学雑誌」て検索すると14記事がヒット。地球の一年の長さや熱の悪魔と遊んだこと、煙草ネタ、カッコウの托卵、編み物、マッチ箱AI、渋滞等です。

これまでと同様、何かのきっかけを見つけて、この話題の記事を書くことになるかも知れませんが、どれだけの記事が書けるか、意識したいです。

 

その他

2024年の目標や5つの話題宣言とは別に、できれば続けたいなと思っている話題が2つあります。「ショートショート」と「母の家計簿から」です。

 

ショートショート」は、ネタになる話を思いつけば、記事にしたいです。「母の家計簿から」は、何かのきっかけで母の家計簿を読み直して、記事にできるネタを見つけたら書いてみようかなという感じです。

 

以上、今年の目標と5つの話題宣言でした。

 

 

大根を抜いた穴から春よ来い

寒いです。日本海側中心に大雪となり、西日本や北陸などでは、平年の3倍を超える積雪になった地域もあるとのこと。ご注意ください。

 

さて、今年も年賀状の返事を出せないままに大寒入りとなっています。一念発起して、寒中見舞いを出すことにしました。

 

今回も自筆で絵を描きました。今年は計10枚。

水彩絵の具を引っ張り出し、今年の題材は白菜より簡単そうな大根に決定。

練習作品を写真に撮り、ブログ用に画像を仕上げてみました。

大根に見えるでしょうか?あんまり白い部分が多いと、インパクトが弱いかなと思って、長めの青首になりました。

大根に見えないという方は、大根と思い込んでください。

 

ということで、改めてご挨拶。

 

寒中お見舞い申し上げます。

寒中見舞い 2024

大根を抜いた穴から春よ来い

 

去年末、父の実家で大根をもらいました。思った以上にするっと抜けて、その後には大きな穴がぽかりん。すぐ土をかけて穴を埋めてしまいましたが、後になって、あの穴から春が出てくるつもりだったかも知れないと思いました。大根を抜いた穴から春が出てくるとなったら、もう、どんどん抜いちゃおうってなりそう。何本目に抜いた穴らから出てくるのか、楽しみです

 

俳句は季重ねが気になりつつ、そのまま採用。

これじゃダメだと言われたら、大根の穴があったら入りたい、ですかね。

 

 

去年の寒中見舞いの記事はこちら。

1年が早いです。

 

「一生モノ」とは何だろう?

脳内で対話する。

「ねぇ、これまで一生モノって呼べるような物あった?」

「そんな昔のことは憶えていない。」

「じゃあ、これから手に入るのかしら?」

「そんな先のことは分からない。」

 

もちろん、映画『カサブランカ』の名台詞を真似てのこと。原文はこう。

Where were you last night? 
「昨日の夜はどこにいたの?」
That’s so long ago, I don’t remember. 
「そんな昔のことは覚えていない」
Will I see you tonight? 
「今夜は会える?」
I never make plans that far ahead.
「そんな先のことはわからない」

「そんな昔のことは覚えていない」と「そんな先のことはわからない」は、ジョークのようでありつつ、はぐらかす台詞としても、事実としても成り立つのが良い感じ。ただし、説明責任のある者が使っていい台詞ではない。

一生モノ?

今頃になって今週のお題「一生モノ」をネタにして書くことにした。お題を知った当初、ああ、これは私と無縁だなと思ったのだが、幾人様のブログを拝見して、そうか、宝石や道具など有形の物にこだわる必要はないなと思い直した次第である。

 

ところが、有形の物という呪縛から解き放たれると、今度は逆に収拾がつかないくらいにまで広がってしまった。むしろ、無形の物も有りとなれば「一生モノ」ばかりではないか?と思えてくるほどに。

 

一生使う知識や経験は少なくないはずだ。かけ算は小学2年生のもので、それ以降はつ使わなかった人は居ないだろう。一人暮らしで憶えた家事は、一人暮らしではない他の暮らしにも役立つ。使う包丁を新調しても、それまでの使い方をやめることは無い。言葉だってそうだ。座右の銘を持つ人は「一生モノ」の言葉を得ていると言えると思う。

 

ただ「座右の銘は何某です」と言いたいがため、言葉の意味も考えずに持っている人も居そうではある。代々受け継いで来た着物や宝石を「一生モノ」として、大切に保管する人も居るかも知れない。でもそのどちらも「一生モノ」と言えるかは微妙。

 

では、「一生モノ」とは何かという疑問がむくりと起き上がる。Weblio辞書には「生涯にわたって使い続けることができる品。長く使える良品。」と説明されているし、多くの人は何かの有形の物として受け止めていると思われる。当初、私が自分に無縁だと思ったのも、そこに起因している。

 

なるほど、生涯にわたって使い続けることができる品を「一生モノ」とすることに異論はない。では、使い続けられるが使うのをやめたものは「一生モノ」なのだろうか。毎日のように見るだけの物は「一生モノ」だろうか。よく「家は一生モノの買い物」と言われるけれど、家を離れざるを得ない場合もあるわけで、本当に一生モノなのか「そんな先のことは分からない」はずだ。仮に借家で一生を暮らした人がいるなら、その借家は一生モノだったと言っても良いと思う。

 

では、教科書ならどうだろう?教科書でで学んだことを一生使い続ける人も多いはずだから、「一生モノ」の知識と言っていいようにも思うし、処分せず残している教科書なら、それを「一生モノ」の本と言ってもいい気がする。もっと言えば、人生を続けている内、ふとした拍子にかつて学んだことを思い出して納得する私のような人だっている。中には、かつてどこで学んだのか「そんな昔のことは憶えていない」人だっているだろう。いつからか、一生モノになっていることもありそうだ。

 

こう考えてくると、以前から一生モノと感じていたかどうか、或いは今後も一生モノであり続けるかどうかは、大した意味を持っていない気もする。大事なのは、やはり「モノ」(品)ではなく「一生」(生き方)の方だと思う。一生モノと思ってその品を大事にするのも、そうした生き方を大事にしているからこそ成り立つのであって、自身の生き方に無頓着でいては一生モノにはできないと思う。

 

確かに、一生モノと呼べる有形の物があれば、わかりやすい。しかし、一生モノが無形の物であっても臆する必要はない。一生をモノにできれば十分。それでいい。

 

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<余談 一生モノの書き方>

何故、一生モノの「モノ」がカタカナなのか、ちょっと気になった。

しかし、「一生物」と漢字で書くと「いちせいぶつ」や「いちいきもの」、さらに「いちなまもの」とも読めてしまうからかな?と結論付けている。

 

 

今週のお題「一生モノ」