tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業19.『卒業』には笑顔が似合う

高校の卒業式はどうだったろうと気になって、当時の映画手帳を見た。

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高校時代の映画手帳 日記代わりのメモも書き込んでいる

ほぼメモ書きなのだが、そう言えば…と思い出せたこともあった。一部抜粋の上、いくらか言葉を補ってここに載せることにした。

1984年3月8日木曜日)

みんなと久しぶりに会った。卒業式では「仰げば尊し」を歌った後、笑いかけていた。

一人で昼食をとった後、クラスのさよなら会に出た。フルーツバスケットなどをした。Y先生にお土産を渡し、お礼を言った。その後、卒業アルバムをもらった。

 

以下、誤解を招かないよう幾つか釈明しておこう。 

 

「笑いかけていた。」

という一文に、私らしさが満載で苦笑してしまった。

でも、確かにそうだ。達成感や解放感に近いものを感じて笑いそうだった。小学校でも中学校でも同じような心境になった。

「お別れするのは悲しい」という人がいるのは承知しているし、その気持ちもある程度は理解できるのだが、その別れも乗り越えて卒業なのだという思いが私は強かった。

 

実はこの時点で合格した大学は無かった。結果発表待ちの大学も合格は無理だと確信があった。それでも「笑いかけていた」のだから私らしい。未来のことはわからないが、卒業する今は胸張っていいはずだ。そんな感じ。ただ、下を向いて笑いをこらえていたような気もする。

 

あ、そうだった。

あの時、笑いをこらえながら大学入試の面接を思い出していた気がする。

「大学を卒業したらどんな人になりたいですか。」

「周りからいい人と思われるように・・・」

「いい人というのはお金持ちということですか。」

ぷふっ!

笑ってしまいそうでうつむいたものの、こらえきれず鼻で笑ってしまったのだ。

面接官と私の「いい人」のイメージに差があり過ぎた。

面接官にかなり悪い印象を与えただろうなと思いつつ、「いい人=お金持ち」という安直なイメージを持つ人の下で学びたくないとも思った。

もっとも、面接官は私を試すつもりで、私の話を遮りそんな話に持っていった可能性はある。

 

「みんなと久しぶりに会った。」

説明する順序が逆になるが、実は卒業式の前日に卒業式の予行があった。私はこれに参加しなかった。というより、できなかった。

前日3月7日は、遠方の大学入試から帰ってくる途中だったからだ。

先述の「ぷふっ!」とは別の大学で、後に不合格が通知が来るのだが、とてもいい経験になっている。まぁ、それは別の話。

 

そんな訳で、一ヵ月以上ぶりに会う人も多かった。卒業式の流れもほとんど分かっておらず、ただ周囲に合わせて立ったり座ったりしていたように思う。卒業証書が壇上で一人一人に手渡されたのかさえ記憶にない。人数が多かったので一括して代表に渡しただろうと思っている。

 

一人で昼食、クラスのさよなら会、フルーツバスケット

一人で昼食にしたのは、他の人が一緒だと受験結果の話が出そうで避けたのだと思う。私は合格がゼロだったが、いくつも合格している人もいる。入試結果の good と bad のコントラストが強すぎるタイミングだった。

 

クラスのさよなら会でフルーツバスケットになったときも、受験合否に関するお題は無しになっていたように思うが自信は無い。

また、この時の余興だったかははっきりしないが、一人のクラスメイトが『トラのパンツ』を歌って踊っていたのが思い出された。

「とら~のパンツはいいパンツ~」と真顔で真面目に体操をするように歌っていた。その真面目さと歌詞のくだらなさのギャップがやたらと可笑しかった。笑い過ぎてひぃひぃ言っていたようにも思う。

これが本当にさよなら会でのことだったなら、今更ながら、そのセンスに感心する。この記事のタイトルを「『卒業』には笑顔が似合う」とした理由の一つは、ここからきている。次のステージに進むには、やはり笑顔がふさわしいと思う。

 

Y先生にお土産を渡し、お礼を言った。

共通一次試験を終え志望大学を決めた後で、歌唱の試験もあるとわかった。楽譜を見て階名で歌うのだったと思う。しかし高校時代、芸術で美術を選択した私に音楽は縁遠い。クラス担任に相談したところ、なんと個別に授業のない日に教えてもらえることになった。それも若い女の先生で、嬉しいやら申し訳ないやら恥ずかしいやら。

 

指導してもらった日数や時間は不明だが、喉を傷めないように水分補給の休憩をしながらだったから、一回に1時間以上は練習していたように思う。指導の詳細は省くが、かなり熱心に指導してもらった。音痴に自信があったから、美術を選択した私である。かなり手を焼かせたはずだ。

 

そうした経緯があるので、やはりきちんとお礼を言っておきたかった。どんなお土産だったか憶えていないが、センスのない私であるから、もらっても困るような類だったはずだ。さらに、受験の手ごたえを聞かれて「不合格だと思います。」と、なんとも情けない、申し訳ない話をしたように思う。

 

何から卒業できたのか

手帳にはわずかなメモしかなかったが、それを手掛かりに予想以上のことを思い出せた。我ながら感心する。卒業式で笑いかけたことと入試の面接が繋がったのも面白いと思った。

 

ところで、高校の卒業式で何から卒業できたのかを今一度考えてみた。

尾崎豊は『卒業』で「この支配からの卒業、闘いからの卒業」と歌った。かつてなら、ある程度の共感もあったのだが、今は高校時代を支配されていた時代と片づけるのに違和感がある。

 

このブログを始める前、高校時代は受験に追われただけの無意味なもののように思っていた。しかし、ブログを書き始めてみると、無彩色に思えた時代が実はけっこういろんな彩に覆われているのだと気がついた。

 

まるで人生の綿埃のようだ。綿埃は一見、灰色である。しかし、その絡まった繊維を細かく見ていくと、そのほとんどは何某かの色を帯びている。遠目にはどう見たって灰色でも、それを作り上げている一つ一つは単純な色ではない。

 

高校に規則や制約も多かった。世間からの「進学校の生徒ならこうあるべきだ」という応援や叱咤激励、同調圧力もあった。

そんながんじがらめの拘束の中で、周りが求める高校生になるしかなかった人もいれば、反発し続けることで自分らしさを主張した人、のらりくらりと捉えどころのない私みたいな人もいた。

いろんなカラーの生徒がいたはずだが、総体として灰色の綿埃のように感じられたとしても不思議ではない。

 

そこではある意味支配されていたのかも知れないが、それによって学習の時間や成果が保障されていたようにも思う。確かに自由に遊べなかったかもしれないが、努力次第では自由に進学が可能になったとも思う。

高校1年の初めての三者面談で大学進学は無理だと言われた私が、一浪したとはいえ進学できた。それは支配されていたからではないはずだ。むしろ、先生の言葉と闘ったのだとも思う。

 

私にとって卒業は、支配とか闘いとかの大義名分は無くていい。単に高校から卒業できたという事実だけで十分だ。

苦しくもあったが、楽しくもあった。自由もあったが、拘束されてもいた。無彩色な時代に見えるが、いろんなカラーが確かにあった。

そんな時代と空間を抜け出られた爽快感がある。

だから、『卒業』には笑顔が似合う。

  

 

 

今週のお題「〇〇からの卒業」

 

注:卒業式は授業ではないが、正規数の授業を受けたから卒業できたとして、「高校の授業」カテゴリーとした。

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<余談 尾崎豊の『卒業』について>

記事中で、

尾崎豊は『卒業』で「この支配からの卒業、闘いからの卒業」と歌った。

と書いているものの、『卒業』はそんな単純は歌ではないとも思っている。ここで、そのことにも触れておくことにした。

 

尾崎豊の言う「支配」

尾崎豊の『卒業』の舞台は高校だとは思う。ただし、彼は色々な経緯の末に高校を中退している。そこにはいろんな校則や社会慣習による壁、罠にも似た勧誘があったとも聞いた。だから、ここでの「支配」は単に学校による支配を歌っている訳ではないと思う。恐らく学校で何かに支配されていると気づき、学校に支配されているというニュアンスを持たせつつも、結局は世の中全体の支配を歌っていたはずだ。

 

歌詞の後半部分にはこんな言葉がある。

「先生、あなたはか弱き大人の代弁者なのか」

先生は、代弁者で会って直接に支配をしているわけではない。要するに別に黒幕がいて先生を動かしていると見抜いている。ここに「窓ガラス壊して回った」以上の衝撃があった。先生や学校を敵としているわけではない。だからこそ、「俺達の怒り どこへ向うべきなのか」と問いかけ、さらにこう続けている。

 

「これからは何が俺を縛りつけるだろう」

卒業しても、支配から逃れられないことを予感している。学校外にも支配があることを見抜いている。

 

「あと何度自分自身卒業すれば 本当の自分にたどりつけるだろう」

これがこの歌の肝だと私は考えている。尾崎豊が求めているのは純粋に「本当の自分」であって、怒りを向けるべき矛先でもなければ、俺を縛りつける奴の正体でもない。自分の力で得た卒業でなければ、どんなに何かから卒業しても、本当の自分にはたどり着けないという意味だと思う。

そして、本当の自分に辿り着くための第一歩として、彼の自由な活動を許さなかった支配や、賛否あったろう意見との闘いから「卒業」すると決意したのだろう。

 

結局、時間が経てば卒業できるシステムにはあまり価値を認めず、自分の力で人生を切り開くための卒業にこそ価値を見出したという歌が『卒業』だと思う。

 

tn43.人生で一番美味しかったもの

何分、夢の話なので曖昧な部分も多いのだが、思い出し思い出し、さらに記憶の齟齬を修正しながら記事にしていることを先にお断りしておく。なお、記事に出てくる有名俳優は仮名にしている。実名で検索してこの記事がヒットする恐れはないと思うが、念のため。

 

 

プロの作家になれるかもという企画

人生で一番美味しかったものは何かを募集する企画がある。なぜ一番なのか読んで納得できることが重要で、この企画で最優秀賞をとれば、スポンサーつきのプロ作家になれるとのこと。スポンサーの言いなり記事を書かされるのはどうかとも思うが、安定した収入となるのは魅力である。

 

スポンサーになるのは、企画の発案者でもある大物俳優、役場工事(仮名)だ。ある映画完成の打ち上げで、これまでに食べたことの無い美味しい物を食べてみたいという話が出た。よくある飲み話だが、役場が一番おいしかった食べ物を通して、その人生を演じてみたいと熱く語り始め、今回の企画につながったらしい。企画の盛り上がり具合によっては、映画化の可能性もあると言う。映画化が難しくても、いくつかの記事を抱合せ、役場工事がそれを食べに行く食レポを兼ねたテレビドラマにするアイデアもあるそうだ。

 

役場工事の食レポ。これは面白いかも知れない。今、日本映画界で彼の右に出る者はいないだろう。その彼が、どんな食べ物に関心を持つのか、どんな扮装でどんな食べ方をするのか。想像もつかないが、興味津々である。

 

スポンサーや映画化、ドラマ化をエサに原作を募集する企画の成功例はあまり聞かない。だが、役場工事自身が絡む企画となると参加してみたい。レストランや家庭の味、再現可能かどうか等にはこだわらない。とにかく、なるほどその人の人生でそれが一番美味しかったのだなと納得できる話であればいいと言うのも彼らしい気がする。

 

二つのアイデア

そう思って人生で一番美味しかったものを数日間考えてみたが、これというものが思いつかない。いや、幾らかは思いついくが、証明するには説得力に欠けるものばかり。

 

そんな時に、夢の中で閃いたのだ。それも二つ。最優秀は無理でも最終選考には残る可能性がありそうなアイデアに思えた。よし!これならいけるかもと思ったタイミングで、私の隣に役場工事が来て、「そうか、何を書くか決まったんだな。」と言い、ニヤリと笑みを浮かべた。

 

すべては夢だった

そこで目が覚めた。それでも、何かとても大事なことのように思えて、布団の中でスマホからつらつらブログ記事の下書きにメモを残した。きっと今、起き上がったら何もかも忘れてしまいそうだと思いながら。とはいっても、そもそも役場工事の企画段階からすべて夢なので、最優秀でプロ作家になれることも映画化されることもない。 

 

夢の中で、ああこれは夢だなと気づきながら、そのストーリーが気になって夢を見続けたくなるのは珍しいだろうか。映画『マトリックス』の世界観に似て、そこではできることできないことがあり、たいてい期待通りにはいかない。それでも夢の世界観に浸り続けていたくなる。夢の中の話を細かく憶えていることは滅多にないが、ごくたまに夢の中の設定が気になってあれこれ考えてしまうことがある。

 

今回もそうだった。役場工事から声をかけられてプロの作家になれるかもと期待した二つのネタ。その記憶を糸口に、崩れ行く世界を強引にとどめようとかなり補修しながらこうして記事にしている次第である。

 

夢のからくり

どうしてこんな夢を見たかについては思い当たる節がある。ガンプラを購入する前に観た映画『すばらしき世界』の影響だ。

(上は 購入したガンプラで遊んだ記事)

 

映画での彼の演技に息を飲み、彼はどんな役でも見事に演じるのだと改めて思った。それがベースとなり、私の人生で一番美味しかったものを食べる姿を演じてもらいたかったのかも知れない。

 

それにしても私の人生で一番おいしかったものとして浮かんだアイデアが微妙過ぎた。

 

ニンジン入りハンバーグ

候補に上がった食べ物の一つはブログ記事にしたこともあるニンジン入りのハンバーグだ。でも、それを人生で一番美味しいと思うはずがない。記事を読んでもらえたら自ずと分かるはず。なのに、なぜ思いついたのかすらひっかかる。

ニンジン入りと知った驚きを演じて欲しかったのだろうか。

 

シイラの刺身

もう一つはシイラの刺し身。こちらは、人生で一番おいしかったと言えない訳でもない体験である。

 

シイラは釣って時間が経つほどに味が落ちていくと言われるが、食べたのはホエールウォッチングに向かう漁船の上。船長が釣りの仕掛けをしてクジラを探索していたら、運良く掛かったのだ。すぐ釣り上げてバンバン跳ね回るシイラをあっという間にさばいて振る舞ってくれることになった。 

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海上で獲れたてのシイラをいただく

近くの漁船に連絡して醤油を分けてもらう。ワサビは無し。シイラはすぐ臭くなるとも聞くので少し不安がよぎる。一緒に乗船していた他の客もいるので一人当たり人3切れくらいかと計算して、一つ食べてみることにした。

青黒い海原の上、新鮮で透き通るような身は夏の日差しを跳ね返しキラキラ輝いて見える。人数分の割り箸は無かったので、指でつまんで醤油をつけてぱくり。

これがとても美味かった。すぐ捌いたせいか臭みは全く無い。コリコリする様な硬さというより弾力が楽しい上にけっこう甘い。私の知る鯛の刺し身の甘味を凌駕していた。一人3切れしか食べられないのが残念だ。

 

しかし、他の客は船酔いをしているのか、シイラという魚に馴染みがないのか、あまり手をつけようとせず、半分程も残っている。これは幸運だとこのまま捨てるのは船長さんにもシイラにも悪いと思い、残りを食べてもいいかと尋ねてみると、是非どうぞとの返事だったので、遠慮なくバクバク食べた。

 

あの時の私を演じて欲しくてあんな夢を見たのかも知れない。それでも、この一品で私の人生を描くのは難しいと思う。美味しかったのは確かだし、理想の食材を考えるときによくこのシーンを思い出すのだが、何のことはない、美味しいものを独り占めして喜んでいるだけにも思う。

 

人生で一番美味しかったもの

ここで、一番かどうかはともかく、とりわけ美味しかったと思うものを並べてみる。

(ほぼ時代の古い順)

 

  1. 大学時代の豚焼き定食
  2. とれたてカツオのぶつ切りみそ汁。
  3. 獲ってすぐ持って帰ったキスの揚げたて天ぷら
  4. 酔っぱらった漁師さんが不意にやってきてふるまってくれた甘えび踊り食い
  5. きびなごの刺身と天ぷらの食べ比べ
  6. 何度となく通った豚骨ラーメン
  7. マグロ5種類のトロの刺身食べ比べ
  8. 山の町で強引に連れていかれた店のツガニ汁
  9. あん肝のもみじおろしポン酢
  10. 米沢牛の牛タン
  11. 富士五湖の一つ西湖畔の店のマス味噌(詳細はこちらを参照)
  12. お気に入りの店で今日の一番と勧められたシマアジの握り
  13. 実家の年末恒例おでん、春菊つき 
  14. 讃岐うどん巡りで出会った醤油うどん、近所の店の醤油うどん
  15. ハモと松茸の土瓶蒸し。
  16. 戻りガツオの皮つき刺身
  17. キャベツとピーマンの火加減が絶妙な回鍋肉
  18. 肉の味に目覚めたフィレ肉ステーキ
  19. アワビの踊り焼き、活け造り、蒸し焼き食べ比べ
  20. 漁港にある店のキンメダイ煮つけ
  21. 3種の焼き方を経たローストチキン

 ……

とりあえず、思いつくままに並び替えてみた。

全体的に見ると私の場合、海産物が多い。

また、旅先で出会った味の多いこと。3、4、7、9、10、11、14、18、19、20、21の11個、過半数に及ぶ。上記のシイラの刺身もいわば旅先の話だ。

どうやら食べ物そのものの味だけでなく、食べるまでの過程や食べた後のことなども大きく影響しているように思う。人生で美味しかったものとは、食材だけでなくその人生そのものも噛み締められるものと言えるかも知れない。

今更ながら、役場工事のアイデアに感心してしまった。って、私の夢の中の話だが。

 

高校時代の美味しかったもの

残念ながら上記の中に高校時代の物はない。高校時代の一品を敢えて挙げるならこれになるだろうか。

それともこちらか。

友だちの家でふるまってもらったサンドイッチもいいかも。

 

と、ここまで書いて、これらは美味しかったというより心に残った食べ物に思う。食べ物の味より、高校時代は見た目や思いの方が優先されるようだ。

 

(20230402:追記)

高校時代の美味しかったものに追記しておく。

受験仲間の住む街で食べたとんこつラーメンがあった。

 

結局のところ

夢で思いついた二品より美味しかったと思うものはたくさんある。

山梨でのマス味噌

11.の山梨でのマス味噌を私が「うまい。」「うまい。」と『鬼滅の刃』のように連発していたとき、経営する夫婦がニコニコして私を見ていた姿が忘れられない。ブログ記事にもしているので興味ある方はどうぞ。(詳細はこちら

漁師さんが不意に出してきた甘えび踊り食い

4.の「酔っぱらった漁師さんが不意にやってきてふるまってくれた甘えび踊り食い」なんて、深夜フェリーの待合室のことで、酔っぱらいの漁師さんを見て他のお客さんはあれよあれよと居なくなっちゃって、私一人が確保されてしまった。

食べきれないから一緒に食ってくれというが、竹のざるの上で、甘えびがうようよと這い回っている。でもざるから出るだけの元気はない。動いているのを食べるのに躊躇していたら、殻のむき方も教えてくれた。頭部をちぎって、身体から3番目の殻から上を剥はいで軽く噛む。それから尻尾の先をつかみ、絶妙な力加減で引っ張るとするりと身が抜けるのだ。その身をちゅるるっと吸って口に入れる。

 

詳しく憶えているのには理由がある。まず、これがたいそうな美味しさであった。ぷりぷりのエビと違ってうま味が口内全体に絡まっていくような、ややねっとりした感じでいてしっかり甘みがある。上手く吸い取れた時の方が美味しく感じるのは、噛んだ時の旨味の広がり方にあったかもしれない。

 

手が止まらず、何度も失敗しながらも成功回数が増え、食べに食べた。動いていないのは別の料理に使えばいいし、生で食べてもそんなに美味しくないと言う。要は、生で美味しいのだけ食べて欲しいとのこと。えびもできるだけ美味しく食べてもらうのが一番の供養になるから、少しでもきちんと選別したいなんてことを赤ら顔で熱く話してくれた。

 

何匹くらい食べただろう。竹で編んだ直径30~40cmくらいのざるにいっぱいあったのが二人で半分くらいになるまで食べた。酔った叔父さんの声は大きかったが、私が美味いというほどに豪快に笑っていた。そして、これくらい食べたらいいかと漁師さんは立ち上がり、去っていった。

閑話休題

いけない、書き始めると全部に解説を加えたくなりそうなので、ここまでにしよう。

言いたかったのは、本当に美味しいと思ったら、人はそれを伝えたくなるということだ。

 

敢えて結論

ここで「(シイラの刺身を一人バクバク食べていた)あの時の私を演じて欲しくてあんな夢を見たのかも知れない。」という前言は撤回する。「あの時、食が進まなかった人にも、あの美味しさを知って欲しかった」のだと思うことにした。まあ最優秀賞も映画化もとてもとても無理な話ではあるだろう。

 

きっと、誰にも伝えたくない美味しさなんてこの世に存在しない。

もしかしたら、こんなに美味しい物を誰にも食べられたくないと思う人はいるかも知れない。食べられたことをただただ悔しく思うことだってありそうだ。でもそこでは美味しい物を共有した者同士だけが知る互いの人間味という隠し味は楽しめない。

 

無表情な顔や沈んだ顔より、笑顔がそれをさらに美味しくさせる。

きっと、人間はそれを本能的に知っている。

だから、人は食べ物を紹介する情報を求めるし、発信し続けるのだろう。

美味しいものに出会いたい故、人の笑顔を見たい故に。

 

 

美味しさの追求が人生の最大目標とまでは言わないが、人生の辛酸甘苦を味わっている人ほど、一番の美味しさを味わえる気がする。

まだまだ美味しい物を味わう人生を続けていたい。

  

私と煙草(3)禁煙でも断煙でもない今後のこと

告白します。まだ禁煙すると決めたわけではありません。でも、いつまでも喫煙し続けるつもりでもありません。そんな揺れ動く思いを持つ喫煙者の気持ちを書いてみました。 

 

喫煙への風当たり

大学生になってから、未成年の煙草だけでなく、少しずつ成人の煙草への批判も出てきました。私自身が高校時代に科学雑誌で煙草の害を知ったくらいですから、それは当然だろうという思いもありました。一方、知らずにいた煙草の害に気づかされることも多かったです。

 

 

※この記事は『私と煙草(2)喫煙、勝ち煙草、節煙休煙、本格再開』の続きです。

大学の講義

チェルノブイリ原発事故が起きたのは1986年4月26日。その年の夏、大学の集中講義(夏休みなどを利用して数日で一気に単位が取れる講義)で煙草の害の話がありました。その時はまだ禁煙派でしたが、嫌な感じを持ったことは憶えています。科学的、医学的な煙草の見解に異論はなかったのですが、講師の話によれば、煙草は原発より深刻な問題だというのです。話の筋としては、日本の原発も安全性が確立できていない問題があるが、事故がなければ特に被害はない。でも煙草は、毎日、主流煙が喫煙者の体に悪影響を与えるだけでなく、副流煙で周囲の者にも被害を与え続けている。だから原発より悪いという感じの論調でした。

 

ある意味、正しいのでしょうが言葉の節々に棘というか悪意を感じました。世界が注目する原発の問題を引っ張り出してきて、それより煙草の方が問題だと脅すような論調が不快に思えたのです。それなら車の排気ガスはどうなんだとか、工場などによる大気汚染、水質汚染はいいのか等、反発がありました。その後も、誇大した嫌煙論に出会うことがありましたが、煙草以外の問題を軽く見てしまいそうで、疑問が残ります。

 

それでも、副流煙の害には納得して、喫煙者は周囲への配慮をすべきという思いには繋がりました。

 

ゴミの中に吸い殻がたくさん

大学祭の手伝いだったかで、大学構内の掃除をしたことがあります。そのゴミの中に吸い殻がずいぶんと多いのには驚きました。ぱっと見で歩道の上にポツポツ落ちているくらいに思っていたのですが、それはまだ新しい吸い殻で白さが目立つ状態の物でした。

雨や露、土埃などで汚れるほどに黒ずんで、土やアスファルトが保護色になって目立たなった吸い殻が、白く新しい吸い殻の陰で増え続けているのだと知りました。

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アスファルト上の新旧吸い殻 イメージ

既にもらい煙草をしていた頃でしたが、吸い殻のポイ捨てはしないと決めた要因となっています。

 

父の実家近くの様子

父の実家の周りには幾つか煙草畑がありました。子どもの頃は自分の背より高く、顔の何倍もある葉の大きさに驚いたものです。でも、いつごろからかその畑が別の作物に変わっていきました。最近では全然見当たりません。

 

葉煙葉の種類は不明ですが、県全体の数字として平成12年(2000年)に222haあった耕作面積は、令和2年(2020年)に127haまで減っています。

葉煙草は収益性が高い上、値段の変動が少なく収入の安定した作物だそうです。他の作物と違い、JTが全部を買い取るシステムのおかげで作り過ぎによる廃棄等が無いというのが大きな理由のようです。決して楽に作れるという話ではありません。

 

煙草自体の需要が減っているのですから、生産量が減って当然なのですが、子どもの頃と違う風景に少し残念な気もします。

 

煙草の銘柄と価格

初めて自分で購入して吸った銘柄は、マイルドセブンライトだと思います。もらい煙草をしていた時、先輩や友人に吸っていた人が多かったからでしょう。価格は180円だったと思います。その後、バニラビーンズの風味があるキャスターマイルドも楽しむようになりました。

 

価格は1989年の消費税導入やたばこ税の増税などで、徐々に値上がりしていきます。大学を卒業してすぐに220円になりました。その影響もあって、新銘柄のハイライトマイルドが200円と安かったのでメインに吸うようにもなりました。ただし、ハイライトマイルドを売っている店が少ない上売り切れも多く、他の銘柄を吸うことも多かったです。 

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キャスターマイルドとハイライトマイルド イラスト

上記の二つの銘柄は今はありません。マイルドセブンシリーズはメビウスシリーズとなり、2021年3月時点で一箱540円です。180円時代の3倍。高くなったものです。

 

以前は1日10本までのルールでしたが、最近は経済的な理由も加味して3日で1箱(20本)が目安になっています。

 

喫煙マナー

喫煙マナーの話をすると、そんなことに気を遣うより吸うのをやめたら?と一蹴される時代になりました。今は個々人の禁煙というより、社会全体で脱喫煙に向かう時代です。喫煙マナーなんて既に無意味なイメージが付きまといそうですが、このブログは「人生に無意味な時間は無い。」の立場なので、幾らか書いておくことにします。

 

吸い殻のポイ捨てはしない

外で吸った時も、吸い殻のポイ捨てはほぼしていませんでした。灰皿がない場所では靴の裏に火を押し付けて消し、ひとまず煙草のパッケージのフィルムの中に収め、灰皿を見つけてから捨てるなどしていました。  

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吸い殻をポイ捨てしない

ただ、散った火の粉を避けようとして、うっかり吸い殻を側溝のふたの隙間に落としてしまったことがあります。また、吸い殻でなくとも煙草の灰には気が回らず平気でいたことを後に反省したこともあります。

 

換気と喫煙場所

大学

学生時代は周りで喫煙者も多く、あまり気にせずに研究室でも吸っていました。ある深夜、研究室にこもって卒論を書いていると、友人が来て「煙がすごい」と言われました。そこで初めて、霧のように煙が充満しているのに気づきました。直ぐに窓と扉を開けて換気。部屋が外気より暖かかったからでしょう、冷たい空気が流れ込み程なく霧のような煙は消えました。その後、ある程度の時間が経つと研究室の換気を意識するようになりました。今、大学は敷地内全面禁煙となっているようです。

実家

一人暮らしをしていた頃は自分の部屋で吸うことに抵抗がなかったのですが、帰省した折には、窓を開けるか、外で吸うことにしていました。煙草を吸わない両親は、冬は寒いので窓を閉めて中で吸えば良いと言ってくれたのですが、かつて煙草嫌いだった頃、煙の匂いが嫌だった記憶もあったので、吸うときは、両親と離れ別の部屋で一人、窓を開けて吸っていました。正月の帰省では、立って吸います。盆の帰省では座って吸います。そうする方が、煙が外に出ていきやすかったからです。最近は、自宅でも実家でも、夏でも冬でも玄関の外で吸うようにしています。

職場

働き始めた頃、隣の席の先輩から自分の席で吸うように言われたことがあります。気を遣わなくていいからという気遣いからだと思いますが、言われた通りにしていました。でも、異動で職場が変わってからは、喫煙場所か外で吸うかになっていきました。

禁煙席から喫煙席、全面禁煙への流れ

1990年代に入り、喫茶店やレストランでは禁煙席が増えていきました。当初は、喫煙可能の席より禁煙席が少なかったのですが、分煙の流れは拡大し、いつの間にか喫煙席の方が少数になっていきました。

 

2000年代になると、JRの喫煙可能な車両は激減、さらに喫煙室以外禁煙、やがて全席禁煙となっていきました。一部の駅の喫煙場所はホームの遠い場所にポツンとあるだけ。歩いていくのが面倒という思いはありませんでした。むしろ、乗り換えの待ち時間、周りに気兼ねなく吸える場所として重宝していた感じです。でもそれも、2010年頃には駅構内全面禁煙が普通になっていきました。

 

飲み会でも、喫煙の際は場所を変えるようになりました。以前なら、喫煙派が多かったのですが、徐々に禁煙派が増えて吸いづらさが出てきました。

外で吸うのも気兼ねする

マンションなどでのホタル族(ベランダに出て吸う)も嫌われるようになったそうで、絶滅危惧種として名があげられることも。

街中の歩き煙草は見かけなくなり、公園など灰皿のある場所で吸う人が集まっていることが増えました。でもその後、公共の場での喫煙をしないように灰皿が減っていきます。煙草を売っているコンビニでも、コロナ感染予防として密集を避ける理由から灰皿を撤去する事例も多くなった気がします。

 

社会全体で脱喫煙に向かう時代

かつて、私に煙草を勧めた友人も「まだ吸ってるの?」と言うようになりました。映画やドラマでも喫煙シーンは激減。歌詞にも使われなくなりました。度重なる値上げ、喫煙が可能な場所の縮小等、禁煙の流れは強く広範囲に及び、いろんなタイミングで禁煙を勧められます。

 

ブリンクマン指数

高校時代に知った「吸った本数が20万本より少なければ、発がん率はそれほど高くはならない」を言い訳にしていますが、2000年頃からだったか煙草を吸った量の目安に喫煙指数(ブリンクマン指数)が言われるようになりました。「1日に吸うタバコの本数×喫煙している年数」が400を超えると肺がんリスクが高まるとされます。

1日10本とすると40年で400です。本数に直すと、10本×365日×40年=14万6000本となり、当初の知識より発がん率が上がるのが約5万本減った計算です。

 

今は1日に7本程度になっていますが、累計言えばで10万本は超えてそうですが、15万本には届いていないはず。ブリンクマン指数で言えば300超えた辺りでしょうね。400になるまでは吸うと決めたわけではないですが、ひとまず当面まだ大丈夫かなあ?なんてことをぼんやり思っています。

 

脱喫煙を目指す社会へ

ブリンクマン指数は、喫煙者本人のリスクを数値化したものですが、今後、吸う人を抱える社会や家族のリスクなどが数値化されるかもと気になってます。なんとも気が落ち込みそうですが、それはある意味仕方ないでしょう。というより、むしろ、そういう方向であって欲しいです。喫煙者がいる現状で一気に禁煙を押し付けるような方向に進むことは避けて欲しいです。ひとまず、脱喫煙を促す方向で、やんわりといて欲しい。そんな思いです。たくさんやめるべき理由があれば、やめやすいと思うのです。

 

それは、リスクを知っていながら、なお吸い続けている者の身勝手な話かもしれません。でも、リスクを小さくして自分のタイミングで吸い始めたように、過大なリスクにならないうちに自分のタイミングで終えたい気持ちがあります。それがあまりに遅く、ブリンクマン指数の400や、自分のリミットとした累計20万本を超えるとなると話は別ですが、今は強要や悲壮な決意による禁煙や断煙ではなく、静かに終える終煙にしたいなと思っています。

 

 今週のお題「告白します」 

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<余談 記事を書き終えて>

ひとまず「私と煙草」について思っていたことを3回に分けて記事にしました。

正直な話、禁煙の風潮を強く感じる中で書きづらかったのですが、書いて少しすっきりしました。

私を含め、喫煙者の多くは幾らかの後ろめたさを感じていると思います。でも、その気持ちをきちんと話す機会、聞いてもらえる機会はまずありません。話そうとしても、結局「煙草はやめた方が良い」で打ち切られることが多いですし、実際、やめた方が良いのは確かなことなので、話しづらさがつきまといます。

 

「盗人にも三分の理」ではありませんが、なかなか踏ん切りをつけられないことってあると思います。賭け事、飲み過ぎる習慣などの依存症と共通する部分もありそうです。

 

もちろん、ある日突然、やめることを否定するものではありませんし、場合によっては不可避的に止めざるを得ないことだってあるでしょう。でも、なるべく自分のタイミングを大事にしたい、そんなニュアンスを私の喫煙記録とかねて記事にしておきたかったのです。長文になりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。