tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

近況5.「その人らしさ」のイメージを変えた漫画と母のこと

終末医療についてはいろいろな考えがあります。最期を迎える場所のみならず、どんな最期を迎えるかも大切な視点。それは個人個人で違うでしょうが、大切なのは「その人らしい」最期を迎えたい、迎えさせてあげたいという思いでしょう。

でも、「人らしさ」というイメージでさえ、なかなか一致できないことがあります。また、時代によってそのイメージが変わるという難しさもあります。

 

 

影響の大きかった漫画3作

私にとっての「人らしさ」の考え方は、テレビ報道、ドラマ、新聞、雑誌、映画、関連書籍、授業や講演等いろんなところからの影響があります。また、連載漫画も大きく影響しています。ここでは漫画を3つ紹介します。

『どんぐりの家』(山本おさむ)1993 - 1997年

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障害児を持つ家庭の実態や思い。支援、介助、介護の在り方について深く考えさせられました。障害があってできないことに注目にするのではなく、できることに注目して、できることを増やす、伸ばす、維持するという視点は、後の母やツレ父の生活を見る上で、基礎になっています。

 

『医者を見たら死神と思え』(はしもとみつお)2014 - 2017年

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がんに対して、無理な治療で患者に大きな負担を強いるのでも、治せないとあきらめるのでもなく、QOL(quality of life )=生活の質を維持する視点から、患者が自分らしい生活を送るために何をするとよいかを教えてもらった気がします。治す医療が一番大事だという考え方を見直し、病気と付き合っていくという考え方を持つきっかけにもなりました。私自身、病気の強いストレスから救われたように思います。

 

『はっぴぃ・えんど』(魚戸おさむ)2017- 2020年

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自宅での医療、介護の状況と課題。そこに関わる人の思い。訪問診察、緩和ケアのとらえ方。緩和ケアを、大きな負担を避け患者を苦しめずに最期を迎えてもらうだけでなく、自分らしく、その人らしく生きることを最期まで追求する、味わうという視点を持つきっかけになりました。人は何のために生き、死ぬのかも考えさせられました。

 

こうした作品群と出会えていなかったら、母に対しての思いも、ツレ父の介護の仕方も全然違っていただろうなと思います。

 

「どうせいつかは死ぬのだから」の真意

経験上、自分に、または誰かに「どうせ、いつかは死ぬんだから。」とあきらめにも似た言い訳はよく耳にします。しかしそれは「どうなってもいい」という意味ではないと思います。多くの場合、「(今の状況で)どうすれば自分らしく生きられるのかがわからない」というSOSのように思えるのです。

 

母が施設入居前に認知症の進行を自覚した頃、普段言わなかった弱音を繰り返す時期がありました。調理がワンパターンになり、味付けも濃すぎたり薄過ぎたりで、自分でも美味しくないと感じていたようです。食べる量も少なくなっていきました。調理をしなかった、できなかった父は、それでも文句を言わず食べていたようですが、お互い辛いのを我慢していたところがあったのでしょう、口げんかが増えていったように思います。

母が「どうせ死ぬのだから」、「その内、何も食べられなくなる」、「どうなってもいい」そんな捨て鉢な台詞を吐くこともありました。困った父から私に電話があり、「話し相手になってくれ」と頼まれ、電話口に出た母から弱音を聞かされ、なだめたたことは何回もありました。

 

帰省した折に私が食事を作ると、母は大抵「美味しい」と言って食べてくれました。

私が台所に立って、母に手伝いを頼むと大抵嫌がらず引き受けてくれました。ざく切りにするところを千切りにしてしまうなどの失敗もよくありましたが、私よりも細く正確な千切りでした。まだまだ手先も大丈夫そうだと声をかけると喜んでいたようです。

 

その人ができることに注目し、それを組み合わせてやってもらい、自己有用感につなげることは上記の『どんぐりの家』で知った気がします。そして、「こうすればいい」とわかっていれば前向きになれると母から教えられた気がします。

 

できることを精一杯する

母が言葉を出せなくなり、自分で食べることも難しくなった頃のことです。入院先に見舞いに行くと食事時刻になり、食事の様子を見せてもらいました。既に、固形食が食べられなくなり、ゼリー状の食べ物を食べさせてもらっていると聞いていましたが、以前「その内、何も食べられなくなる」と嘆いていた母がどんな風に食べるのか気になったのです。

看護師さんが、スプーンに食べ物を乗せて母の口元に運び、「はい、あ~ん。」と促すと、母は顎が外れるのではないかと思うくらいにパカッと口を開け、食べ物が入ると何度も噛んで食べていました。噛む力がかなり弱っていたはずですが、それでも、味わうかのように懸命に噛んでいました。

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「はい、あ~ん。」 パカッ

「食べたいは生きたい」、「生きたいは幸せになりたい」ーー。

誰かの言葉を思い出しました。言葉が無くなり、私が誰だかもわからなくなった風な母からそんなメッセージを受け取った気がして、涙が出そうになりました。今の自分にできることを精一杯やれることは幸せなことだと言っているかのようでした。母は、母らしさを失うことなく生き続けているのだと思ったのです。

 

「その人らしさ」「自分らしさ」を知る

目の前の人に何ができるのか、その人が何をしたいのか、それに対して何をしてあげたらいいのか。その判断は難しいです。でも、自分でも自分らしさを維持するためにどうしたらいいかわからないこともあるのですから、そこは無理からぬことだと思います。

 

しかも、苦労してつかんだはずのその人らしさや自分らしさが、何かのタイミングで一瞬にして無くなったり、崩れたり、別のものに変わってしまうことだってあると思います。それを承知しながら、丁寧に一つ一つ、時には乱暴に一気に、死ぬまで重ね続けていくことが、その人らしさなのかも知れません。

 

「らしさ」という言葉自体が、曖昧さを内包している以上、きっと自分らしさはこれだと固定することは不可能です。誰にとっても、そこに近づこうとするだけで精一杯のはずですが、それが自分らしさを磨く、維持することのようにも思います。もしかしたら、それを最期まで続けられることも、幸せの一つの形なのではーー。

 

最近、そんな風に思えるのです。

 

 

 

※ これまでの、介護や緩和ケアについての記事

tn33.読書感想文の追想文(小学校編)

 今週のお題「読書感想文」が出ていた頃に書き始めた記事です。上手くまとめられないまま、ツレ父の介護に入るようになったのですが、改めてまとめてみました。でも、長文になったので、分けることに。今回は小学校編です。

※注意それぞれが、本のネタバレになっていると思います。

 

 

 一番古い感想文の記憶 『サルのブランコ』?

感想文の一番古い記憶は、確か小学2年生で原稿用紙に10枚程書いたことです。低学年の原稿用紙なので、1枚に200字だったと思います。ただ、感想文とは名ばかりで、本の文章の引用やあらすじがほとんど。いつどこでだれが何をしたか等を長々と書き、話のまとまりごとに一行ほど「それで、ぼくは~と思いました。」とだけ書き足すような感じでした。

 

本のタイトルは『サルのブランコ』だったと思っていたのですが、検索してもヒットしません。浜田 広介さんの童話に『子ざるのブランコ』があったので、それのようにも思います。残念ながら、ネット検索ではひろすけ童話「子ざるのブランコ」の中身まではわかりませんでした。

 

記憶にあるあらすじを簡単に書くと、

ブランコで遊ぶのが大好きな子ザルが山に住んでいました。ある日、山が火事になり、山の動物たちが逃げ出すのですが、大きな崖の谷があって、そこから先に進めません。そこで子ザルが、ブランコを大きく揺らし、動物を次々向こうの崖に渡して難を切り抜けたのです--。

そんな話だったと思います。 

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『サルのブランコ』? 頼りない記憶からのイメージ

 

先生に見てもらって、長く書いてよく頑張ったのほめ言葉よりも、これは感想文じゃなくてあらすじだと言われたことの方が印象に残っています。感想文に苦手意識を持つきっかけになりました。でも、嫌いになったわけではありません。本で知ったことを書くより、思ったことを書くことの方が大変だと思いました。

  

小学校の読書感想文

小学校では毎年、夏休みの宿題に「絵と文でつづる読書感想文」が出されていました。夏休み明け、宿題がそのままコンクール出品作品になっていたと思います。

課題の図書が何冊かあり、その中から選びました。夏休みの度に1冊新しい本を買うことになりますが、このシステムは嫌いでは無かったです。ただ、課題図書は必須ではなく、好きな本を選んでもよかったはずです。

どの本を何年生の時に選んだのか定かではないですが、記憶に残っている本を3つ紹介します。

 

『友だちになるとき』(タイトル、作者等不明確)

東京から大阪だったか、転校してきた小学生の女の子の話。なかなかクラスに打ち解けらず、友だちが欲しいと思いながら過します。いろんなトラブルがありながらも、それを乗り越えて友だちになっていくお話です。

 

ただ、一番憶えているのは、風雨の強い夜、まだ住み慣れない家の雨音が気になって、あまり寝られなかった場面です。眠れない夜の不安に共感したのだと思います。

 

本のピンク調なカバーが、女の子向けをアピールしているようで買うのが気恥ずかしかったです。何故この本を選んだのかは忘れました。感想文では最後に、主人公に語りかけるように「たくさん、ともだちつくろうね。」みたいな終わり方をして、それを盗み読みした兄に笑われたのを憶えています。感想文にあわせて絵も描いたのですが、どんな絵にしたのかは憶えていません。

 

『むくちのムウ』 吉田とし(作) 鈴木義治(絵・装幀)あかね書房

学年の始まりに先生から名前を呼ばれても返事をせず、「ムウ。」とだけ答えた少年の話です。学校ではしゃべらないので、クラスでは、無口のムウという名で呼ばれるようになります。実は、ちょっとしたきっかけで始めた無口だったのですが、それをクラスに言い出すことができないまま過ごしていたのです。そのことを仲良くなった近所の友だちのおじいさんにだけ話して、少年はある決心をするのでした。

 

誰にも言わずにいる本当の自分を胸に仕舞い込み、周りに合わし続ける辛さ。そんな誰もが経験しているだろうことがお話のベースにあるので、この話がずっと心に残っているのだと思います。私にとっては、とても心に残っている本です。

 

絵には、おじいさんと少年がお話している場面を描きました。ジュースの入ったコップの色を、水彩絵の具でどう塗るか、悩んだのも憶えています。水だけで塗ってみましたが、画用紙が白なので白にしかならず、少し水色をつけた方がコップらしく見えるのに驚きました。 

 

 『霧のむこうのふしぎな町』 著:柏葉 幸子 絵:竹川 功三郎

購入した本の表紙は、霧のかかった森の中に、柄の先にピエロがデザインされた赤い水玉柄の傘が開いたまま落ちています。このデザインも女の子向けのアピールに思えて気恥ずかしかったのですが、むしろ、その絵に魅かれて買いました。

 

夏休みの間、お父さんの勧めで、ピエロがデザインされた赤い水玉模様の傘を持って、女の子がお父さんが過ごした町を探しにでかけます。森の中で迷っていると、風に傘が飛ばされ、追いかけて行くと霧の中にその町を見つけます。その町は、働かなければ食べていけない決まりがある町でした。

 

そんなお話です。後年、有名なアニメ『千と千尋の神隠し』にも影響を与えたとして話題になりますが、前知識無く映画館でアニメを観ながら、このお話を連想したのを覚えています。原作の真似とか、著作権なども話題にったようですが、私は子どもが大人になっていく過程を繊細に描いた両作品がどちらも好きです。そもそも、二つの作品に何らかの繋がりが見つかると、問題視する風潮に疑問を感じます。(もっとも、高校生の頃は私もその一人でしたが)

 

子どもと大人の違いと繋がり、そして、夏休みの非日常の体験、それがぎゅっと詰まった作品です。

学校の長い休みの度、小学校低学年頃まで、兄弟二人で祖父の家に寝泊まりしていた経験と結びついて、どこか親近感のある物語です。 

薪を燃やしての風呂焚き、田畑の手伝い、家畜の世話の手伝い。決して楽ではなかったし、厳しかった祖父宅での宿泊でしたが、今なお、私の大切な体験となっています。 

どんな絵にしたのかは、記憶があやふやです。

 

感想文を書く意味

他に、沖縄でサンゴ礁の海に潜ったお話、オオカミが狩りをする話などで感想文を書いた気がしますが、上記の3作に比べるとかなり印象が薄いです。

 

こうした感想文は、書かされたという印象が強く、あまりいいイメージはなかったのですが、いつ頃からか書いてよかったと思うようになりました。

読んだ本の内容や当時の感じ方を記憶できることもありますが、それよりも自分が思ったことを言葉にする大切さや難しさに気づけることの方がより大きいメリットだと思います。

 

楽しかったことを「楽しい」という言葉を使わずに書けるようになりましょうとは、小学生の頃に先生から言われた言葉です。

 

「楽しかったです」「すごかったです」「嬉しかったです」「悲しいです」等は、感想ではなく、定型文のようにも思います。それを使ってはいけないということではありません。ただ、それらは「あけましておめでとうございます」と同じくらい誰もが言える表現であって、そこには自分がいない気がするのです。

 

一方で、思ったことより、そう思った過程や理由にこそ自分らしさがある。なんて考えてしまって、ついつい長い文章になるのは、多分、自分らしさが曖昧だからなのでしょう。結局のところ、無意味に長い感想文を書いた小学2年生の頃から、自分は成長していないのかも知れないとも思います。私が無味乾燥な感想文から脱却できるのは果たしていつになるのか、まだまだ先は長そうです。

 

 

今週のお題「読書感想文」

tn32.「はじめてのゲリラ」に参りました

先日、森 淳(もりすなお) (id:suna0hi) さん立案の企画「第一期ゲリラブ隊志願者募集(~9/11)」に志願し、参加しました。

s-f.hatenablog.com

 

募集要項を見た瞬間に「参加しない手はないやろ」とTwitterで参加表明。はてブでも毎週、お題が出され記事を募集してますが、それとは明らかに違う楽しさがありました。

私の高校時代の経験に例えるなら、はてブのお題企画は雑誌の記事募集。対して、森さんのゲリラ企画は、文化祭の劇のシナリオ募集に近い感じでしょうか。

はてブのお題や雑誌の記事募集は、応募して何か反応が得られるかどうか反応の有無が焦点という感じですが、文化祭やゲリラ企画は、どんな反応があるのか反応の質が焦点という感じです。

 

文化祭では、当時のクラスメートが対象でした。

劇をやろうと言いつつ、全然具体的なお話作り等が出てこなかったので、クラスが動き出す刺激になればいい

という思いでしたが、今回のゲリラ企画では、誰が対象なのか(もちろん大きくは、はてブの読者ですが、誰が同志なのか)が不明の状態なので、闇に向かって話しかける感じでした。ただ、森さんの企画だったので、闇でも同志はいるという自信はありました。企画が少しでも面白くなればいいなという思いでした。

 

そして、タイトル「はじめてのゲリラ」の記事で、ようやく、今回の企画の全容がわかります。

s-f.hatenablog.com

結果的に私を含め9人の応募があったとのこと。企画の森さんを含めると10人。失礼ながら5人で上出来、7人なら大成功という感じでいたので、2桁には驚きました。

もし、この企画が続いて、ブログ界の旋風となれば、サッカーのJリーグ開催時に参加10クラブが「オリジナル10」と言われたように、ゲリラ企画参加の10人もネーミングされのかしらん。

 

いや、そんなことより、ここに記したかったのは、自身のブログに9つの記事の評をさらりと載せた森さんの手際よさです。淡々でもなく、濃過ぎでもなくのバランスがさすが。そして、9人分の評が、定型に合わせたものではなく、ゲリラ記事を自分の思い出と繋げたり、作者を思いやったり、素直な感想から入ったり、突拍子もないようなことから上手く着地させたりと、評の書き方の引きだしの多いのにも脱帽です。

 

私の記事への評が将棋の話から始まったのは、私の将棋好きを知ってのことだったのでしょうか。これにもびっくりでした。続いて

悔しいけれど今回は、私が「負けました」と言わざるを得ない。このお題を決めたとき、このテーマで一番くだらないことを書いてやる!と心に炎を燃やしたというのに(以下略)

も、私の下書き段階を見ていたかのよう。私の買い物の心得をあれこれ書いた「多々買わない作戦」をボツにしたのは、もっとどうでもいいことを書こうと心変わりしたからです。

 

等々、あんまり裏事情を書くのも無粋と思いつつ、改めて淡々でもなく、濃過ぎでもないバランスのとれた評の難しさを痛感させられます。

 

森さんは、記事のくだらなさで「負けました」と言わざるを得ないとのことでしたが、森さんの第一回ゲリラ企画の見事な締め方に、私の方こそ「参りました」と認めざるを得ないのでした。

 

楽しい企画をありがとうございました。

 

 

もし、また宝探しのような楽しい企画があれば、十分な働きは難しくても、一番下っ端な戦力としてくらいなら役に立ちたいです。ふっふっふ。

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歩的な笑い

 

今回のゲリラ企画の応募記事