tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn15.今年の9月1日は、二百十日なので『二百十日』(夏目漱石)を読み返してみました。

今日は9月1日。高校時代の9月1日と言えば、まっさきに二学期の始まりの日となるところですが、今日は日曜日なのでそれはありません。他に、関東大震災の日、防災の日というのもあります。でも、今日取り上げるのは、二百十日です。といっても、毎年9月1日になるわけではありません。、立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)で、それが今年は9月1日となるのです。

 

夏目漱石の『二百十日』という短編小説を知っていますか?

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阿蘇山の噴火口を見に行くという話なのですが、何ともとぼけた話で、高校時代に図書室で読んで以来、この時期になると、ふと思い出します。今は著作権も切れているので、青空文庫で無料で読むこともできます。(夏目漱石 『二百十日』 青空文庫)400字詰め原稿用紙に換算して80枚程度の長さなので、暇つぶし感覚でも読めると思います。

 

何がとぼけているかと言えば、人を食ったような問答が続くのです。それもオウム返しのように、遅々と進まぬ会話も多く、きっとイラッとくる人も多いと思います。ところが、不意にぴょんぴょんと話が飛びます。飛ぶと言っても、例えるならレコードの針がぷいっと溝を数本飛ぶような感じ(ん~、古い例えですが)で、まあ、話が見えなくなるわけではありません。

 

五場面で構成され、メインは四場面。それまでにも、くすくすと可笑しい場面もあるのですが、メインに入ると図書室で読んでいるのにもかかわらず、いや、図書館だからこそ、笑いが引かないのです。声を出して笑うわけにもいかず、息を押し殺して笑うと、腹筋に余分に力が入ります。それでも収まらず、鼻から、ふっふっふふふふーん!と鼻息で笑ってしまいます。

 

真面目に話を読んでこれだけ笑いを押し殺したのは、生まれて初めてかもというくらい。今も読み返すと、可笑しいのは可笑しいのですが、あの時の可笑しさはちょっと異常でした。鼻息で、ふっふっふふふふーんと笑い続けた後も押し殺した笑いが止まらないのに、目で文字を追うのは止めなかったですから。鼻息で笑っても収まらないと、笑いは肺に伝染する感じで、ふふふから、ひっひひ、ひっひひと震えてきます。

 

お話では、主人公達は悲惨な目に遭うのですが、それでもとぼけた調子は変わりません。一方で、その周りの景色の描写がなかなかに雄大でかつ恐ろしく、そんなに呑気でいていいのかとハラハラします。そのアンバランスさが、登場人物も景色も互いに際立たせているかのよう。

 

この話、終わってみれば、たかだか二泊三日の行程です。しかも、話としてはとんと進んだ感じが無く、まるで冒頭に出てきた小話のように、また元の木阿弥という感じが続きます。客観的に見れば事態は何一つ進んでないように見えるのに、不思議な達成感、爽快感が得られました。

 

「どうだい、君、『二百十日』を読んでみないかい。」

「読まないでもないが、そんなに面白いかい。」

「面白いさ。でも、君が読まないことには、僕がどんなに面白いと言ったって、君にはわかりゃしない。」

「そりゃそうさ。君は僕ではないんだから。」

「僕だって君ではないから、わかりっこないが、僕が君ならきっと面白いと思うだろうよ。」

「そんなに面白いかい。」

「ああ、僕が君なら、そう思うさ。僕がそう思うんだから、君だって面白いはずさ。」

「そうかい。じゃあ、僕が君なら面白いと思うかどうか、読んでみるか。」

「ああ、だから是非、読んでみたまえ。」

「うん、読もう。」

 

こんな感じの会話で話が進んでいきます。

このゆるさが、また良いんです。

 

読み返してみると、日付にして、9月1日の夕方から、9月3日の朝にかけての話でした。その真ん中の9月2日がどうやら二百十日に当たるようです。図書館で読んだのは2学期始まってすぐの頃だったはず。

 

今日、明日、明後日が旬のお話と言えるでしょう。

映画11.『時をかける少女』と『転校生』と『君の名は。』

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大林監督作品『時をかける少女』(1983年)は『転校生』(1982年)より後の作品ですが、私の見た順序は『時をかける少女』が先だったはずです。『転校生』は高校卒業後にテレビ放映を観たように思います。

 

時をかける少女』は、映画デビューにして主演となった原田知世の角川作品。映画館で観たのは1983年8月24日でした。後年知ったことですが、映画の企画段階で、プロデューサーの角川春樹は「彼女(原田)に1本だけ映画をプレゼントして引退させようと思う」と大林宣彦監督に伝えたそうです。また、原田知世は『転校生』の大林監督がお気に入りだったそうで、「尾道で原田の映画を撮って欲しい」と願い出たとのこと。

 

それが功を奏したのでしょう、いろんな意味で、印象に残る作品になったと思います。

 

作品は、尾道市を舞台にして、不思議な経験に悩む少女と謎めいた少年を中心に話が進みます。少女は地震やぼや火事、テストの問題など、過去に経験したはずのことが繰り返し起きるのを不思議に思います。翌朝、それらが夢だったと思うのですが、夢で見た地震や火事が実際に起きていきます。混乱する少女は、不思議な経験を少年に話しますが、少年の答えや手の傷等、つじつまが合わないことは多く、謎は深まるばかり。やがて少年から本当の話を聞くことになりーー。

 

同時上映は、同じ角川映画で生まれたアイドル、薬師丸ひろ子主演の『探偵物語』。上映前は、原田知世薬師丸ひろ子の二番煎じ、『狙われた学園』と同じSF学園物で新鮮味が無いなどと言われていました。

  

しかし、SFと言いつつ、レトロな尾道市の雰囲気や、印象的な振り子時計、白黒とカラーを効果的に組み合わせた映像、「桃栗三年柿八年」を古い歌として使ったりした演出、活発な少女が流行していた中での控えめな原田知世の起用等が成功し、独自性のある作品になったと思います。

 

探偵物語』との二本立てで、配給収入が28億円。1983年の邦画興行成績2位でした。原田知世は、第7回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。また主題歌「時をかける少女」のレコードは、セールス累計58.7万枚のヒット曲に。一部に批判もありましたが、映画も女優も歌も一気に売り出す角川映画の手法が大当たりした感じです。公開当初、『探偵物語』目当ての観客の方が多かったかもしれませんが、鑑賞後、印象に残ったのは『時をかける少女』とした人も多かったように思います。

 

中学3年生の男女が入れ替わる『転校生』を尾道で撮影した大林監督は、二度と尾道では撮らないと考えていたそうですが、角川春樹からの提案で「よし『転校生』で撮った尾道の海と明るさは撮らず、山と暗さだけを撮ろうと決めました。」と考えを変え、結果「この映画と知世は天の配剤めいていた」と言わしめたのです。(ウィキペディアより)原田知世尾道の組み合わせは一つの奇跡であるとは納得できる話でした。その後『さびしんぼう』を撮影し、尾道三部作となりました。

 

 

さて、その翌年テレビで観た『転校生』は、中学生の男女の人格が入れ替わるという作品。入れ替わった後の小林聡美の演技には驚きました。水着のブラを忘れたままおどけるシーン、本人はかなり嫌だったそうですが、それをみじんも感じさせず、本当に少年が演じているように思えました。ただ、恥ずかしがらず大胆かつコミカルに演じたのは、彼女にとって諸刃の剣となったように思います。

 

コミカルな演技が強烈に光っていたため、一気に名前が知れ渡った反面、小林聡美本来のシリアスな部分に注目が集まらず、しばらく喜劇的な配役を回され、彼女の良さが隠されてしまったと思うのです。でも、私は『転校生』の演技の中で一番印象に残っているのは、元に戻った二人が離れ離れになったときの「さよなら、あたし」と言うラストシーンです。 撮影の順序がどうだったのかは知りません。でも、離れ離れになる寂しさを残しつつも、これでよかったのだと弾むような感じ、それらがとてもよく伝わってきて、一本の映画を演じきった満足感もあったのではと思いました。

 

『転校生』は尾道の海と明るさを撮ったと大林監督は語っていましたが、それは小林聡美の見事な演技によってできた気がします。それは彼女のコミカルな明るさ満載というより、本来のシリアスさを見事に封印したからと思っています。

 

 

大林監督のそうした『転校生』の明るさと『時をかける少女』の暗さとを見事に融合、昇華させたと思う映画があります。既に一部で言い尽くされた感がありますが、新海誠監督の『君の名は。』です。もちろん、パクリ等とは思っていません。それを言っていたら、「タイム・マシン」が出てくる作品『ドラえもん』や『バック・トゥ・ザフィーチャー』は、H.G.ウェルズのパクリになってしまいます。これらは、過去の作品のオマージュだったり、過去に発見された食材を使った新しい料理といった風に考えるべきでしょう。

 

言いたいのはそこではなく、ヒロインの共通性です。『君の名は。』の宮水三葉は、大林監督の言う『転校生』斉藤一美の明るさ(ちょっとややこしいですが、ここでの斎藤一美は、中身が斎藤和夫になった状態と元に戻った後の明るさの両方)と『時をかける少女』芳山和子の暗さの両方を併せ持った感じがします。つまり、都会に憧れてはしゃぐ部分と、糸守町の伝統をしっかりと受け継ぐ部分。この両方を観られる、いや、両方に魅せられる贅沢さは、こんな手法があったか!と衝撃でした。

 

また、入れ替わった立花瀧の恋の応援や手助けをしたり、糸守町の危機に勇気をもって立ち向かったりの部分は、大林監督の2作品では弱かったので、痛快に思えました。もっとも、『転校生』は中学生の男女の入れ替わりで、『時をかける少女』は時空を超えていたのだという話でした。1980年代は、男女が入れ替わること、時空を超えること、それぞれが、観客に伝わるかどうかの大いなる挑戦のはずですから、あの時代に、二つをくっつけた作品に挑むのは厳しかったでしょう。もっとも、撮影技術、作画技術も追いつかなかったと思います。

 

加えて言うと、『君の名は。』では、都会や田舎の細部への描写も成功していました。街の細部に至る再現は角川アニメ『幻魔大戦』(1983年)から始まったように思います。1980年代はまだ、アニメで現実感にこだわる描写には批判的な声が強くありました。それは、セルアニメが中心で、色のグラディエーションや立体感を含めた表現したい絵と表現できる技術に乖離があったことも影響していた気がします。また同じように細部の描写について、高畑勲ジブリ作品『おもひでぽろぽろ』(1991年)でも少し話題になったと記憶していますが。その時もまだ、どちらかと言えばもっとアニメらしいのびのびしたデザインがいいのではという声が強かったよう思います。

 

 

あら?あれこれ書いている内に、何をメインを書こうとしていたのかあやふやになってきてました。

 

 書きたかったのは、『君の名は。』が、『時をかける少女』と『転校生』を単にストーリーやスタイルの部分を足し算しただけではないということです。また、『君の名は。』が成功したのは、二作品の影響は大きかったとしても、独自のスタイルが確立されていたからということ。『時をかける少女』と『転校生』と『君の名は。』は、それぞれが輝きのある作品だったからこそ、互いに引き立てあっていると思うのです。

 

ネットの一部で見かけた、『君の名は。』が『時をかける少女』と『転校生』のパクリとの表現には賛同できません。むしろ、私は『時をかける少女』と『転校生』に思い入れがあるだけに、『君の名は。』が一層、素晴らしく感じられました。この三作品を時代に応じて、しっかり観られたことを嬉しく思います。

授業11.考える時の「の」の威力

授業を受けていて、クラスで自分だけがわからないままにいることを経験したことはありますか?私も幾度か経験がありますが、これは高校の数学Ⅰに出てきた問題での話です。

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つまずいたのは、ー(ー1^2)とー(-1)^2 の違い。

どうやら、他の人はすんなり通過できたようで、わかっていないのは私だけのようでした。どうしても書き方が違うだけで、値としては同じ-1に見えてしまうのです。こんな時に、左の場合は1、右はー1と暗記すれば良さそうなものですが、それでは理解したことにならないと、もやもやしてしまいます。もちろん、( )の中は先に計算するのは知っていてのことです。正確に区別して言葉にするなら「ひく カッコ開くマイナスイチの2乗カッコ閉じる」と「ひく カッコ開くマイナスイチカッコ閉じるの2乗」となるところでしょうか。

 

わかってる人からすれば「全然違うじゃん。」「何を2乗するかの問題だよ。」という話です。でも、私からすると、「どちらもマイナスイチを2乗するのはわかってるよ。」となります。「いや、左は1の2乗で、右は-1の2乗。」と説明してくれても、「いや、左もー1の2乗だろ?」というふうに返します。別に、くってかかっているわけではありません。わかりやすいよう、仮に-1を記号aで表せば、ー(a^2)と-(a)^2なのですから、同じはずだという理由も持っていました。

 

友人の説明では、どうしても納得がいかず、意を決して授業中に質問しました。今習っている単元の締めくくりで、次の時間には別の単元に入るというタイミングでした。「みんなわかったようだから…」という感じの話の後だったと思います。きっとクラスで私一人わかっておらず、まずいぞという焦りがあったのでしょう、手を挙げた瞬間は、周りで参観している先生のことはすっかり視界の外でした。そう、その日は、公開授業でたくさんの先生が見に来ていたのです。

 

「質問があります。」と手を挙げた瞬間、担当の先生のちょっと硬直した表情を覚えています。指名されて。立ち上がった時に初めて(あ、他の先生もいたんだ)と気がつきました。意識した後、急に緊張して、足が震えてきたのも憶えています。でも、もっと驚いていたのは先生のはず。もう少しでスムーズに授業が終わると安心しかけていたのではないでしょうか。後になって先生の顔はそんな風に思えました。

 

 内心(しまった)と思いつつ、ここで何も言わずに座る方が、ざわついた雰囲気をさらに険悪な空気にしてしまいそうで、混乱しながらも自分なりに理由を述べて質問してから座りました。ただ、上手く理由が言えたかどうかは覚えていません。授業の残り時間も少なかったはずです。先生は、きっと丁寧に話してくれたのでしょうが、既に私の頭の中は真っ白になっていて、話が全然入ってきません。もう、「はい。」、「はい。」と答えるだけ。最後に「わかったかな?」と聞かれたとき、嘘でも「はい」とは言えず、「もう少し考えてみます。」と答えたと思うのですが、これは度々ある勝手な記憶の上書きのような感じもしています。

 

後日、数学の授業中に、私の質問が話題になりました。詳しくは覚えていないのですが、「他の先生も大勢いる中で、きちんと理由を言って質問できた」ことを誉められたのだけは覚えています。下手すれば先生の顔に泥を塗るところだったので、ホッとしました。もっとも、私一人だけのために単元を遅らせるわけにもいかないのは致し方ないこと。授業は次の単元の学習に入りました。

 

ただ、一人だけわかっていない私は、どうしても何とかしないといけない状態でした。公開授業で質問してしまったので、何だか多くの先生から注目されているように思い込んでしまったのです。これは結構プレッシャーでしたが、一度開き直ったせいもあるのか、ある瞬間に、す~~っと謎が解けた感じで、理解できました。

 

問題の「 ー(ー1^2)とー(-1)^2の違い」を「-1を記号aで表せば、ー(a^2)と-(a)^2だから同じ」と考えたのが落とし穴だったのです。

-1^2は、「マイナスの(1)^2」であって「(マイナス1)の^2」とは別物。もう、あっさりというか、なんで引っかかっていたんだろうっていう感じですよね。

でも、このおかげで、「-1とは、1という数字にどんな1かを示す記号「ー」がくっついたのであって、-1という数字ではない。」こと、2乗されるのは、( )があれば( )で仕切られた数式、なければ直前の数字または代数であること、など整理できました。加えて、普段つかっている自然数(1,2,3,4,5…)も、本来はどんな数字かを示す記号「+」がくっつた数字(+1、+2、+3、+4、+5…)とするところですが、日常で特に意識することがないので省略しているだけだとわかりました。

 

何より、一番の収穫は「マイナスの(1)^2」と「(マイナス1)の^2」を明確に区別してくれた「の」の威力です。助詞とはよく言ったもので、本当に思考を助けてくれる「の」でした。注意すべきは、人から言われたのを思考せずに受け入れると、助詞として機能しない場合がある点。上で友人に「左は1の2乗で、右は-1の2乗。」と教わった時には、区別ができなかったですから不注意そのものです。人から聞いた言葉がすぐにわからずとも、自分に合った表現方法で噛み砕いて考えることは、理解するのは良い方法だと思います。