tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

残暑とは、残った暑さではなかったです。(追記あり)

今週のお題「残暑を乗り切る」。一般に「残暑」とは、立秋後、本格的な秋が到来するまで残る暑さとされるようですが、私にとっては意味が違います。夏を何とか乗り切ったつもりで、ふらふら、ヨレヨレになった私にとどめを刺す、酷なさという感じ。

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ですから、これまで残暑を乗り切ったという自覚はありません。残暑を乗り切った=死ななかったというのなら、もう50回余り乗り切れたのでしょうが、お題の意味は夏バテにならなかった=残暑を乗り切ったの意味だと察します。

 

夏休みの後半お盆過ぎ~9月前半くらいまでは、毎年のように、食欲が激減して、力が出ない、何をするにも意欲が出ない状態になっていたように思います。酷い時には、熱が出て夏風邪と診断され病床に着いたり、それがさらに悪化して入院したこともあります。

 

高校時代は、それなりに対策も取っていました。(1)水分を多めに、でも、摂りすぎない程度にして、十分発汗させる。(2)クーラーのかけ過ぎと、冷えに対して注意する。特に夜寝る時には体の冷やし過ぎにならないよう、お腹にタオルを余分にかける。(3)ビタミン・ミネラル不足の対策、糖分摂り過ぎ注意等。まだ、それほどうなぎも高値ではなく、食べる機会も多かったです。苦手だった紫蘇も克服し、好きな食べ物の仲間になりました。

 

これらの効果もあったのでしょう、高校時代の夏から秋には発熱も寝込むこともが無かったように思います。それでも、不意に吐き気を催したり、授業中急に汗が吹き出してだるくなったりしてましたから、引き分けか、もしくは何とか逃げ切れたという感じでしょうか。とても、夏バテにならなかったとは言えず、どこか余裕があるような乗り切れたと表現はできそうにありません。

 

働きだしてからこれまでも、似た感じが続いています、夏風邪をこじらせたことも数回はありました。今年はどうでしょうね。残暑(とどめを刺す残酷な暑さ)との戦いは、まさにこれからという感じです。

 

なお、近年は私の脳内では9月も夏です。今年は涼しくなるのが早いかも知れませんが、それでも9月からが残暑という感じ。ついでに言えば、5月もGW以降、30℃超えが増えてきているので、夏と認定してもいいのではと思うのは、私くらいでしょうか。

 

※ 以下、追記

この記事を投稿したのは8月24日でしたが、その日から、急に涼しくなった感じです。記録を観てみると、私の住んでいる場所では、最高気温は30℃に届かず、最低気温は25℃を下回っています。「ほうら、全然残酷じゃないだろう?」と言わんばかりの、残酷な厚かましさに思えてきます。

 

tn14.連絡船のうどんは旅情の美味しさ

今週のお題「わたしと乗り物」。

高校時代は四国在住だったため、四国から出るには船が必須でした。本州と橋で行き来できるようになったのは大学時代以降でしたから、船はけっこう身近な乗り物だったのです。

 

国鉄(現在のJR)利用だと、宇高連絡船を使うことになります。高松駅で降りた後、高松港までちょっと長いセメントの通路を通ります。冬であれば、結構冷たい風が吹き抜けていました。船が接岸するのを並んで待つこともあったように思います。列車に乗る際にホームに列を作るのと同じですね。

 

乗船口が開くと、我先にと小走りになって席を求めます。渡航時間は1時間程だったはず。その時間を快適に過ごすため、席の争奪はけっこう熾烈な競争だったような気がします。確か、あまりの混雑でけが人や死者が出たという話もあったような・・・。

 

船に乗って、幾らかの待ち時間の後、船が出港する前には、席・場所の争奪戦は終了してします。船内には幾つかのテレビがありました。エンジンがかかっていれば、映っていたと思います。ただ、映りはあまり良くなくて、ブラウン管の画面では、垂直同期に白い帯が絶え間なく上がっていた印象があります。音も不明瞭で、海の波音のごとく寄せては返すような雑音があったように思います。

 

船の席を確保したら、次に気になるのは連絡船内で売られる「うどん」です。単に美味しいかどうかで言えば、既に茹で上がったうどんを船に乗せ、うどんとして売っている訳ですから、格別の味ということはなかったように思います。でも、出汁は普通に讃岐うどんで使われる物を使っていたので、全然ダメという訳でもないという感じ。ただ、旅情と言う特別な味覚が呼び起こされるのでしょう、やたら美味しく感じられ、宇高連絡船に乗ったら「うどん」は定番でした。映画『UDON』でもそのことにちらっと触れていましたが、「そうそう、わかってるね!」と思ったのを憶えています。

 

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本当は、本州から四国に向かう連絡船のうどんがこそが、ソウルフードだったという話も聞きます。旅情の上に郷愁の味覚もあったのでしょう。ただ、私の感覚からすれば、もう少しで本物のさぬきうどんが食べられるのにそんなに急かなくても・・・という気持ちもあるのですが、それだけ讃岐うどんを待ち切れない思いが強かったのかも知れませんね。 そこは個人の思いを尊重したいです。

 

連絡船が消えた現在、移動する船の甲板で、潮風に当たり、遠ざかる、或いは近づく四国に思いを馳せながら食べる旅情たっぷりのうどんは、もう味わえません。確かに橋は本州と四国の時間的な距離をぐんと縮めてくれました。便利という点ではかなり効果があったと思います。物資の輸送も格段に早くなり、経済的にも後押しになったでしょう。

 

時代とともに古い交通手段が消えていくのは世の常ですから、その交通手段とセットになった食べ物が消えていくのも致し方ないものかも知れません。私は訪れたことがありませんが、かつて宇高連絡船が発着していた高松駅には、「連絡船うどん」なる店があり、一定の人気を得ているのだとか。ただ、それは思い出という美味しさであって、旅情という味とはどこか違う気はします。

 

最近は、特急列車で車内販売も次々に廃止になっています。人件費や駅弁の売れ行きなども影響しているのだとか。一方で観光列車などに特化された話も聞くようになり、庶民にとっての旅情豊かな食べ物はだんだん減ってきているようです。もっとも、高速化がどんどんすすみ、出発地から目的地までをいかに速く安く移動するかの方に関心が集まり、旅情という概念自体が変質してきている気もします。便利になるほどに移動時間の価値や楽しみ、旅情を味わう機会がどんどん減っていくことに、どこか矛盾を感じてしまう私です。

音楽11.『セーラー服と機関銃』(薬師丸ひろ子)と『夢の途中』(来生たかお)の歌詞の謎

薬師丸ひろ子のデビュー曲『セーラー服と機関銃』がヒットした時、少し複雑な思いがありました。

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主な理由は2つ。

映画のヒットに支えられた歌のヒットに、なんかずるいという気がしたのが1つ目の理由。「歌のヒットは、歌の魅力で作るべき」みたいな思い込みがあったのです。角川映画自体は結構好きだったのですが、当時の映画評論家からは批判を浴びることも多く、主演女優に映画の主題歌を歌わせて両方のヒットを狙う手法も批判の的になっていました。そんな批判が私の思い込みを、支持してくれたように感じていた期間があったのは事実。でも、その思い込みはやがて消えました。

映画が歌の魅力を増幅できる力があるとしても、それは歌自体に魅力があってこそ。また、歌が映画の魅力を増幅できたなら、それも映画の魅力だと考えるようになりました。そんな相互作用を仕組めるのも映画会社の力であると、少し大人な観方ができるようになったのは、『セーラー服と機関銃』のおかげのように思うのです。

 

複雑な思いを持った2つ目の理由が、『夢の途中』(来生たかお)のヒットです。

これも勝手な思い込みで、業界の内紛といった黒い部分を垣間見た気がしていました。角川映画側が来生たかおから歌を奪ったのか、来生たかお角川映画に反旗を翻したのかと考えたのです。

特にこの2曲はほぼ同時(実際には来生たかおの方が10日程早い)に出た感じがあったので、きっと何かあったのだろうと思い込む原因にもなりました。

でも、これも後になって、考えが変わります。ほぼ同じ曲を同時期に売出し、その両方がヒットしたのは、珍しい相乗効果であり、成功させた企画や発想が優れていたと思うようになったのです。それまで、カバー曲や映画のリメイクも、なんかずるいという気がしていましたが、それを成功させるのも簡単なことではなく、実力がなければ成功できないことだと気づきました。

 

2曲のレコード売上は『セーラー服と機関銃86.5万枚、『夢の途中』40.6万枚だったそうです。これをどう見るかも意見が分かれるかも知れませんが、「来生は薬師丸の予約枚数を聞いて、自分が大差をつけられたらと不安になったが、2曲ともベストテンに入って安心した」(ウィキペディア)とのことです。結果論ではありますが、自他ともに認める大成功だったと言えそうです。

 

 

ところで、ご存知だとは思いますが『セーラー服と機関銃』と『夢の途中』では一部で歌詞が違っています。その違いが謎として私の印象に残っています。

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  2つの歌詞で違っているのは、1番の歌詞の

aa 夢のいた場所に 未練残しても 心寒いだけさセーラー服と機関銃

bb 現在(いま)を嘆いても 胸を 痛めても ほんの夢の途中(夢の途中)

の部分です。これも、私の勝手な思い込みだとは思うのですが、赤と青の部分を入れ替えているような気がしてなりません。元は違っていたのではないか?

そこで、赤青の部分を差し替えたのが下です。

ab 現在(いま)を嘆いても 胸を 痛めても 心寒いだけさ 

ba 夢のいた場所に 未練残しても ほんの夢の途中

どうでしょうか。 ab だと、「胸」と「心」の関係性が見えてきますし、ba だと、「夢」と「夢」ではっきり繋がってきます。歌詞の意図するメッセージも差し替えた方がストレートに伝わる気がするのです。

 

これは、私の単なる思い込みとして、誰にも言わずにいたことなのですが、もう時効かな?とも思うので書いてみました。当初は業界の内紛と思っていた『セーラー服と機関銃』と『夢の途中』の同時期発売が、そうではなく両者の合意と壮大なチャレンジであったと知ったあとに、この差し替え疑惑に気がつき、もしかしたら、内紛疑惑が大きくなった時に「合意」と「挑戦」だった証拠として、敢えてこういう形にしたのかな?とも考えました。(違うと思います。)

 

私の頼りない情報網には、この謎についての情報は入ってこなかったので、勝手な思い過ごしと封印したまま、30年以上になりました。でも、やはり気にはなっているので、もし、同じように考える人や、このことに詳しい人がいれば、ぜひ教えて欲しいです。

 

 

< 2021年9月6日 追記 >

コメント欄に、 ビビさんから情報をいただきました。

来生えつこによれば、レコーディングのギリギリまで歌詞を書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡しの最中に手違いがあったとされる。

との記述が 来生たかお - Wikipedia にあるとのことで、さっそく確認しました。

 

まず

この2曲は一部歌詞に相違があるが、意図的なものではない。

とありました。ビビさんからの指摘と合わせると、同じ歌詞で発表しようとしたものが意図せずに違うものになったとも言えそうです。

 

一方で、

それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着

との部分が、記事に書いた「両者の合意と壮大なチャレンジ」を肯定してくれているようで納得です。それにしても“競作シングル”とは良いネーミングです。ただ、“競作”の意味が、まったく同じ歌で競うのか、一部が違う似た歌で競うのか辺りは、微妙に思いました。

 

さらに、

ヒットの期待を込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女(来生えつこ)としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた“夢の途中”というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまったことは残念だったが薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は“いけるかも”と思ったという。

ここでは、どの時点で”残念”と“いけるかも”の決着がついたのかが気になるところ。レコーディングでは、幾つかの歌詞が試され、その中で、夢のいた場所に 未練残しても 心寒いだけさ でいけると判断されたのかも。もしかしたら、「現在(いま)を嘆いても 胸を 痛めても 心寒いだけさ 」や「 夢のいた場所に 未練残しても ほんの夢の途中」も試したかも、なんて勝手に想像しています。

 

以上のことから考えると、記事に書いた

> 「合意」と「挑戦」だった証拠として、敢えてこういう形

部分の「敢えて」は間違いで、「結果的に」とする方が正しそうです。

 

それでも、高校時代から気になっていた「夢のいた場所に 未練残しても」と「ほんの夢の途中」は、歌詞が正式に決定するまでは共通のイメージの中にあったとは言えそうでず。「当たらずとも遠からじ」かな?なんて思っています。

 

ビビさん、貴重な情報をありがとうございました。