今日は9月1日。高校時代の9月1日と言えば、まっさきに二学期の始まりの日となるところですが、今日は日曜日なのでそれはありません。他に、関東大震災の日、防災の日というのもあります。でも、今日取り上げるのは、二百十日です。といっても、毎年9月1日になるわけではありません。、立春を起算日として210日目(立春の209日後の日)で、それが今年は9月1日となるのです。
阿蘇山の噴火口を見に行くという話なのですが、何ともとぼけた話で、高校時代に図書室で読んで以来、この時期になると、ふと思い出します。今は著作権も切れているので、青空文庫で無料で読むこともできます。(夏目漱石 『二百十日』 青空文庫)400字詰め原稿用紙に換算して80枚程度の長さなので、暇つぶし感覚でも読めると思います。
何がとぼけているかと言えば、人を食ったような問答が続くのです。それもオウム返しのように、遅々と進まぬ会話も多く、きっとイラッとくる人も多いと思います。ところが、不意にぴょんぴょんと話が飛びます。飛ぶと言っても、例えるならレコードの針がぷいっと溝を数本飛ぶような感じ(ん~、古い例えですが)で、まあ、話が見えなくなるわけではありません。
五場面で構成され、メインは四場面。それまでにも、くすくすと可笑しい場面もあるのですが、メインに入ると図書室で読んでいるのにもかかわらず、いや、図書館だからこそ、笑いが引かないのです。声を出して笑うわけにもいかず、息を押し殺して笑うと、腹筋に余分に力が入ります。それでも収まらず、鼻から、ふっふっふふふふーん!と鼻息で笑ってしまいます。
真面目に話を読んでこれだけ笑いを押し殺したのは、生まれて初めてかもというくらい。今も読み返すと、可笑しいのは可笑しいのですが、あの時の可笑しさはちょっと異常でした。鼻息で、ふっふっふふふふーんと笑い続けた後も押し殺した笑いが止まらないのに、目で文字を追うのは止めなかったですから。鼻息で笑っても収まらないと、笑いは肺に伝染する感じで、ふふふから、ひっひひ、ひっひひと震えてきます。
お話では、主人公達は悲惨な目に遭うのですが、それでもとぼけた調子は変わりません。一方で、その周りの景色の描写がなかなかに雄大でかつ恐ろしく、そんなに呑気でいていいのかとハラハラします。そのアンバランスさが、登場人物も景色も互いに際立たせているかのよう。
この話、終わってみれば、たかだか二泊三日の行程です。しかも、話としてはとんと進んだ感じが無く、まるで冒頭に出てきた小話のように、また元の木阿弥という感じが続きます。客観的に見れば事態は何一つ進んでないように見えるのに、不思議な達成感、爽快感が得られました。
「どうだい、君、『二百十日』を読んでみないかい。」
「読まないでもないが、そんなに面白いかい。」
「面白いさ。でも、君が読まないことには、僕がどんなに面白いと言ったって、君にはわかりゃしない。」
「そりゃそうさ。君は僕ではないんだから。」
「僕だって君ではないから、わかりっこないが、僕が君ならきっと面白いと思うだろうよ。」
「そんなに面白いかい。」
「ああ、僕が君なら、そう思うさ。僕がそう思うんだから、君だって面白いはずさ。」
「そうかい。じゃあ、僕が君なら面白いと思うかどうか、読んでみるか。」
「ああ、だから是非、読んでみたまえ。」
「うん、読もう。」
こんな感じの会話で話が進んでいきます。
このゆるさが、また良いんです。
読み返してみると、日付にして、9月1日の夕方から、9月3日の朝にかけての話でした。その真ん中の9月2日がどうやら二百十日に当たるようです。図書館で読んだのは2学期始まってすぐの頃だったはず。
今日、明日、明後日が旬のお話と言えるでしょう。