そのスプーンは変わっていた。
気づいたのは、50年前、Eがまだ小学生だった時だ。テレビで警備隊の隊員が巨大星人を倒そうと、巨大な超人間に変身する際、いつものアイテムと間違ってスプーンを空にかざしたのを見て「これはいいぞ!」と興奮した。
台所で手頃なスプーンを探した。でも、小さかったり、大きくても、くすんでいたりで、ときめくようなスプーンが無い。こんな時、遊びで入ってはいけないと言われている大人の部屋に忍び込んで物色するのが常だった。とはいえ、大人の部屋にスプーンなんて期待薄である。それでも、何か代わりになる良いものがないかと探し続けた。キラッと光る金属の細長い物があればと…
そして、父の机の引き出しに木箱を見つけて、思い出した。たしか、以前、父が10年物の金属でできたスプーンを何かの記念でもらったとか自慢気に言ってたっけ…。そっと蓋を開け、赤い布に覆われているのをめくると、果たしてキラキラ光るスプーンがあった。
「これだ!ばっちりだ。」
スプーンを持って玄関を出る。古いアパートの2階住まいだった。
それほど高い場所ではないが、超人間のつもりで街の景色を見下ろすのがお気に入り。手すりと階段は金属でできている。地面で変身アイテムをかざした後、急いで階段を上り、玄関前に立って変身終了のポーズをとって街を見るのがお決まりだった。階段を上る時に、カンカンカンと音がするのも、音楽が流れているようでいい感じだ。
「よし、やるぞ。」Eは地面に立って「えいっ!」と勢いよくスプーンを頭上にかざす。何も起きない。もう一度「えいっ!」とやるが何も起きない。スプーンを見る。そして、丁寧にはっきりと「これじゃあ駄目だ。畜生!」と声を出し終えてから、スプーンを放り投げた。
「あ!ほんとに投げちゃった!」
スプーンはキラキラと陽の光を反射しながら、階段の手すりまで飛んでいく。それはそれはゆっくり落ちていくように感じられた。しまったと思う時、人の感覚は高性能になるらしい。必死で落ちる先を凝視した。
スプーンが階段の手すりに当たってから不思議なことが起きた。
キンコンカン、キンコンカン、キンコンカンコンキンコンカン♪
スプーンはリズミカルな音を残して地面に落ちた。
「ん?」
どこかで聞いたことがあるようなリズムだった。
「ん~、何のリズムだったっけ?」
と考えながら、拾いに行く。
幸い、傷はついていない様だ。大丈夫なんだ、さすが10年物だなぁと感心すると、Eはまた元の場所に戻り、変身の真似をする。
「あ、また投げちゃった。」
と、今度はわざと階段の上の高くまで放り投げた。
スプーンが階段の手すりに当たると、また不思議なことが起きた。
キーン、コーン、カーン、コーン。キーン、コーン、カーン、コーン。
今度ははっきりと学校のチャイムだと分かった。
もう、超人間の真似はどうでもよかった。階段に向かってスプーンを投げる遊びに熱中した。力任せに階段に投げつけるとリズムも早くなった。
キンコンカンコンキンコンカンコン、キン。コン。カン♪
「歌自慢大会の合格のリズム!」
両親は共働きで、Eに兄弟はいなかった。決して裕福とは言えない暮らしだし、学校から一番遠いこの場所に、友達が遊びに来ることも、遊びに行くこともそうなかった。昼間はアパートの住人もあまりいない。一人ですることと言えば、テレビを見るか、絵を描くか、宿題をするかくらいだ。でも、その日以来、10年物の金属スプーンで遊ぶことが加わった。毎日のように、手すりや階段にスプーンを当てて遊んでいた。
しかし、遂に、スプーンで遊んでいるところを、早く帰宅した父に見つかった。
「ご、ごめんなさい。勝手にスプーンで遊んでしまって。」
Eは素直に先に謝ったが、父は、少し笑みを浮かべながら、聞いてきた。
「どうだ?面白いか?」
どう返事をすればいいのかわからないまま、Eは静かに頷いた。
「あはは。そうか。ならいい。」
許してもらえたと思った時だった。
「ただし!」父は真顔で言った。
「アパートで音を鳴らすのは1日3回までだ。少しは近所の迷惑を考えろ。いいな。」
Eがまたこくりと頷いた。
階段を上る父の後ろから、Eは言った。
「父さん、このスプーン凄いんだよ。物に当てたら曲が鳴るんだよ。」
「ああ。そいつはな、父さんが工場で作ってるのを記念にもらったんだ。」
「父さんが作ってるの?!凄いなあ。それでね、これ、どうしたって傷がつかないんだよ。さすが10年物の金属だね。」
「10年物の金属?なんだそれは?」
「え?父さん、言ってたよ。10年物の金属でできたスプーンを記念にもらったって。」
「あはは。こりゃいい。傑作だ。あのな、10年物の金属じゃなくて、今の工場で10年働いたってことだ。10年勤続。」
家に入ると、父は10年勤続と漢字で書いたメモを渡しながら言った。
「それから、もう一つ。スプーンを箱から出したら、必ず箱の赤い布で拭いてから、箱の中で休ませること。昨日までは父さんがやっていたが、今日からはお前がやれ。約束できるなら、そのスプーンはお前にやる。」
「ほんと?!」
「ああ。約束できるか?」
Eは力強く何度も頷いてから言った。
「うん!約束する。」
あれから50年。スプーンの作り方を父に聞いたことがあるが、既に閉鎖になった工場の機械が必要だという。父と母は、今もあのアパートで細々と暮らしているが、二人とも、もう80歳を超えた。残された時間はそう多くない。変わったスプーンが曲を奏でる物だけではないと知ってから、Eはスプーンの復活を考えている。
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