tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

関東大震災100年(1)二人の地震学者と社会 平和と沈黙(2023)

2023年は関東大震災から100年。

この1年、関東大震災について知らずにいたことが数多くあるとわかり、そのイメージが大きく変わりました。

 

地震に限らず、予想を超える事態が迫る時、それを見抜く力と、それを受け入れる強い意志と柔軟な対応が大事なのだろうと思いました。そして、それを個人や家族単位だけではなく、集団として機能させる難しさ、一方で、それが事態の改善や悪化に大きく影響するとも思いました。

 

何回かに分けて記事にする予定です。

地震発生前

二人の学者

関東大震災が発生する前に、東京で大地震が起きることを予測した学者が二人いました。関東大地震を「予知できなかった男」と言われた東京帝国大学地震学教室教授・大森房吉(おおもり ふさきち)と、「予知した男」と呼ばれた同助教授・今村明恒(いまむら あきつね)。この世の評価は、研究の上辺だけしか見ていないことを象徴している気がします。

 

大森と今村は東京帝国大学理科大学の3年違いの先輩・後輩の関係でした。大森は1896年(明治29年)に帝国大学地震学教授に就き、その地震学講座に今村は大学院生として入り、そのまま助教授になっています。そして1923年(大正12年)の大震災後に大森が病気で亡くなるまで、教授と助教授の関係は続きました。二人は幾度かの論争で知られるように、対立もあったでしょうが、20年を超える信頼もあっただろうと思います。

 

大森房吉

大森房吉は日本における地震学の創始者の一人。「日本地震学の父」とも呼ばれています。1899年には地震で初期微動継続時間から、観測地点から震源までの距離を求める式を大森公式として発表。また、大森式地震計を考案し、地震や火山に備えて観測所の必要性も訴えていました。

 

日本人の悲願である地震予知。百年前の関東大震災でこの難題に挑んだのが、東京帝国大学地震学教授の大森房吉である。今日使われる「震度」や「震源」のなど地震科学の基礎となる基準を世界に先駆けて確立した研究者だ。大森は関東大震災の3年前に、次の震源地を正確に予測していた。しかしそれを世の中に公表するのをためらい震災の後、忽然と姿を消した。

(引用:幻の地震予知 〜大森房吉と関東大震災〜 - 英雄たちの選択 - NHK )

 

また、

1905年(明治38年)に同じ講座の助教授であった今村明恒が、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞に煽情的に報じられたため社会問題となった。房吉は震災対策の必要性には理解を示していたが、そのために社会に混乱を起こすことを恐れていた。そのため、その記事を根拠の無い説として退ける立場をとった。

(引用元:大森房吉 - Wikipedia )

とも。関東大震災が発生した時、大森はオーストラリアにいて、地震を知ってすぐ帰国します。しかし、オーストラリア滞在中に脳腫瘍の病状が悪化。帰国後は直ちに東大病院に入院しますが、一ヶ月後に死去したそうです。

 

今村明恒

先に述べておきます。今村明恒は、大震災後に亡くなった大森の後を継いで、地震学講座の教授に昇進しています。大森との対立や対比が注目されがちですが、今村が大森の活躍を支えていたのは事実ですし、大森は今村の批判はすれども、追い出さ無かったのも事実です。

 

今村が地震学に進んだのには、1891年の濃尾大地震(死者・行方不明7273人)の惨状を知ってとのことだそうです。東京大学助教授ではありましたが、給与を得られる枠には入れず23年間無給でした。そのため、陸軍士官学校の教授を兼ねながら生活を支え、研究を続けていました。

 

1896年の明治三陸地震を経て、1899年に津波が海底の地殻変動を原因とする説を提唱しています。今では当たり前とされる説ですが、当時は世にほとんど受け入れられませんでした。大森も全く別の説を唱え、ここから二人の論争は始まっているようです。

 

そんな彼は更に

震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録(歴史地震)から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想。1905年(明治38年)に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された

( 引用:今村明恒 - Wikipedia

とのこと。

今村式2倍強震計の記録 イラスト

しかし、1923年に関東大震災が発生すると、世の評価はがらりと変わり「地震の神様」といわれるようになりました。

 

二人と社会の関係

二人の関係

二人について、私はほとんど何も知りませんでした。今も、名前と略歴を知った程度です。文献をきちんと読んだわけでもありません。それでも、同じ大学の教室に籍を置いていたのに、一人で東京での大地震を予測して損害を軽減する方法まで公表した今村。それが社会問題になって、今村を批判した上司大森ですが、自身も東京の大地震を予測しながら社会の混乱を恐れて公表しなかったとも聞きます。震災後には、大森の後を継いだ今村。実際、二人はどんな関係だったのか、興味があります。

 

マスコミと社会の関心

一方で、今村の地震予測の記事をセンセーショナルに取り上げたマスコミと、その報道に大きく揺れた大衆社会も見てみました。

 

今村の地震の警告と対策を述べた記事には、大地震は「(記事を発表した1905年の)今後50年の間には」と書かれているのに、1906年1月16日の『東京二六新聞』には、1906年が丙午(ひのえうま)に当たることから、丙午の年には火災が多い、天災も多い、地震もあり津波も押し寄せた、名士の死亡も多いとして、「学理より大地震の襲来を予言、今年より50年内には酸鼻の大地震に遭遇するべきは明かなり、10万以上20万の死者を出すべし」と報じたそうです。(出典、引用:関東大地震をめぐる大森・今村論争から学ぶべきもの pdf 画像ファイル)まるで、丙午の今年(1906年)から大災害が始まると言わんばかりです。

 

丙午と言えば1966年(昭和41年)に異常なほど出生数が減ったグラフを思い出します。こうした記事がどれだけ社会を動揺させたか、私の予想を超えているでしょう。恐らく、かなりの動揺が社会を覆ったと思われます。

 

運悪く、1906年1月21日に比較的強い地震が東京に起きて騒ぎになったそうです。そのため『萬(よろず)日報』に騒ぎを鎮める主旨の記事の掲載を依頼、大森も補足意見を出し、特集が組まれます。記事は1月24日に出版され、タイトルが「大地震襲来は浮説」でした。

 

しかし、1月24日には更に大きい東京湾西部の地震が発生。(M6クラス、最大震度5)また、前日には房総半島沖でM6.3の地震が発生していたとのこと。(出典: 1906年 東京湾西部の地震|地震インフォ )この時には「気象台が大地震の警報を出した」とのデマが流れ、官憲が乗り出す事態にまでなりました。

 

翌日に各新聞が一斉に「警報は悪質なデマ」と報道して、騒ぎが終息に向かったそうです。当時はまだラジオも普及しておらず、新聞だけが世の情報を得る手段でした。『萬日報』一社では、十分に情報が回らなかった上、実際に強い地震が起きた事も影響したのでしょう。

 

結果、皮肉にも、今村の地震予測そのものがデマとされ「ホラ吹きの今村」と呼ばれるようになってしまいます。このことが今村を苦しめたことは容易に想像できます。その主任である大森にも厳しい目が向けられたでしょう。

 

1906年3月、大森は、論文「東京都大地震の浮説」を発表。今村の論文を完全に否定しました。同じ教室で研究しながら「浮説」としたのは、恐らく、今村の論文が大きく歪められたまま広がり社会に動揺を与えていること、既に「大地震襲来は浮説」とつけた記事が出ていたこともあったのでしょう。

 

論点としては、過去の不完全な統計によって出された説であり、将来の出来事を予知できるものではないこと。地震の間隔を平均年数で出しただけで学理上の価値はないこと。それによって、人心を動揺させたこと等でした。

 

しかし、今村が最も世に伝えたかったことは、地震が起きる可能性も含まれますが、それ以上に防災意識の欠如だったと思われます。そこに東京都大地震自体が浮説とされたなら、防災意識が芽生えることに繋がりようがありません。

 

ともかく、こうしたことから一旦、社会的な動揺は収まりますが、その後も1915年の房総半島群発地震でも、マスコミは「地震の前兆かどうか」を問います。今村も、慎重に「今回は心配に当たらない」と答えたものの、あまりに執拗に問われて「まず、今のところ九分九厘までは安全と思うが、しかし精々注意を加え、火の元は用心しておくに越した事はない」と心構えを答えると、それが騒ぎに発展します。この事態に大森が反論を出し、それで沈静化されます。そして、今村にはまた「ホラ吹き」「人騒がせ」のレッテルが張られてしまいます。

 

こうした経過もあってか、関東大震災の前年1922年6月17日の新聞に大森の講演内容として「すべての研究から観察して当分東京には大地震が無いと断定し得る」と報じられたそうです。当時の地震学の最高権威として、この発言をしてしまった大森は、オーストラリアで関東大震災の報を知って、忸怩たる思いだったでしょう。

 

歴史年表

ここで、明治~大正時代を振り返っておきます。大森房吉は1868年10月30日生、今村明恒は1870年6月14日生です。二人に直接関係する事柄は太文字、関東大震災に大きな影響を与えたと思う事柄を太赤字にしました。

 

1868年    明治元年明治維新戊辰戦争(~1869年)・大森房吉誕生

1869年    明治2年 ・東京が首都に

1870年 明治3年 ・今村明恒誕生

1871年    明治4年 ・廃藩置県

1872年    明治5年 ・学制公布(義務教育開始)・沖縄を琉球藩

1873年    明治6年 ・太陽暦採用・徴兵令公布

1877年    明治10年西南戦争 ・東京大学設立

1879年    明治12年琉球処分沖縄県を設置

1881年    明治14年明治天皇、国会開設の詔→1890年国会開設の公約

1885年    明治18年 ・内閣制度が発足

1889年    明治22年大日本帝国憲法発布

1890年    明治23年 ・第一回衆議院議員総選挙実施

1891年    明治24年足尾銅山鉱毒事件

1894年    明治27年日清戦争

1895年    明治28年下関条約締結 →三国干渉により、遼東半島を諦める

1896年 明治29年大森、帝国大学地震学教授に就任

1901年    明治34年八幡製鉄所を建設 →清からの賠償金で建設

1902年    明治35年日英同盟締結

1904年    明治37年日露戦争

1905年    明治38年 ・(9/4)ポーツマス条約・今村『太陽』9月号に東京大地震の記事

1906年 明治39年(1/24)東京湾西部の地震・(3月)大森「大地震襲来は浮説」

1909年    明治42年伊藤博文、ハルピンで安重根に殺害される

1910年    明治43年日韓併合条約締結

1911年    明治44年幸徳事件(大逆事件社会主義者無政府主義者の検挙・処刑

1912年    明治45年 ・[7月29日] 明治天皇崩御

1912年    大正元年 ・[7月30日] 大正に改元

1914年    大正3年 ・第一次世界大戦開戦

1915年    大正4年   ・中国に二十一か条の要求・房総半島群発地震、今村大森の論争

1917年    大正6年 ・ロシア革命

1918年    大正7年 米騒動・シベリア出兵(~1922)・スペイン風邪流行(~1920)

1919年    大正8年 ・朝鮮で三一独立運動

1920年    大正9年 ・第一回メーデー開催(上野公園)

1921年    大正10年 ・中華民国中国共産党結成原敬暗殺事件

1922年    大正11年全国水平社結成ソビエト社会主義共和国連邦が誕生

1923年    大正12年関東大震災(M8.1) 死者10万人超 ・大森房吉没

1925年    大正14年NHK放送開始(ラジオ)・治安維持法制定 ・普通選挙法制定

1926年    大正15年 ・[12月25日] 大正天皇崩御

 

年表を載せたのは、関東大震災の発生した時代背景を考えるのに、世情を知っておく必要があると思うからです。また、何故、二人の地震学者の評価が二分した揚げ句、がらりと変わってしまったのか、何故その予測がかき消されたのか、その辺りも気になっています。

 

初めて聞いた話の中で、気になることを検索した程度のことしかわかりませんが、それでも「歴史は繰り返す」との言葉が頭に浮かんできます。関東大震災100年関連のテレビ番組や新聞記事、映画『福田村事件』等を観て、わからないなりに自分の考えをまとめてみようと思いました。

 

関東大震災100年(2)寺田寅彦の視点と大火災 平和と沈黙(2023)」に続く。

 

 

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