tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

関東大震災100年(2)寺田寅彦の視点と大火災 平和と沈黙(2023)

2023年は関東大震災から100年。

高校時代、部屋の壁に100年カレンダーを貼っていましたが、想像もつかない長い長い時間に思えていました。1985年、20歳の誕生日以降、自分が時間を逆向きに生きたとしたらいつに当たるかと考え、終戦がずいぶん身近に感じられるようになりました。50歳になった時、100年は決して途方もない時間ではなく、祖父の子ども時代であり、良くも悪くも今に繋がっていると思いました。

 

この記事は前回の続きです。

地震発生直後 寺田寅彦地震日記』より

ここは寺田寅彦地震日記』から、長い引用をします。寺田寅彦は、物理学者である一方、夏目漱石とも親交があり、文章には定評があります。

1899年(明治32年東京帝国大学理科大学に入学
1916年(大正5年) 東京帝国大理科大学教授に就任(物理学)

(以下、 寺田寅彦 震災日記より 青空文庫

地震直前

九月一日 (土曜)
 朝はしけ模様で時々暴雨が襲って来た。非常な強度で降っていると思うと、まるで断ち切ったようにぱたりと止む、そうかと思うとまた急に降り出す実に珍しい断続的な降り方であった。雑誌『文化生活』への原稿「石油ランプ」を書き上げた。雨が収まったので上野二科会展招待日の見物に行く。会場に入ったのが十時半頃。蒸暑かった。フランス展の影響が著しく眼についた。T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するそのモデルの良人(おっと)からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。

関東大震災の発生は1923年(大正12年)9月1日午前11時58分。

震源地は相模湾北西部、推定マグニチュード7.9。

寺田寅彦は上野の喫茶店にいた時に地震に遭いました。

主要動に思われた初期微動

椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気が付かずに直ちに主要動を感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短週期の振動だと思っているうちにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない異常の大地震であると知った。その瞬間に子供の時から何度となく母上に聞かされていた土佐の安政地震の話がありあり想い出され、丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向(あおむ)いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみし/\みし/\と音を立てながら緩やかに揺れていた。それを見たときこれならこの建物は大丈夫だということが直感されたので恐ろしいという感じはすぐになくなってしまった。そうして、この珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しようと思って骨を折っていた。

さすが、物理学者で文筆家の寺田寅彦です。冷静に地震の瞬間をとらえていました。

初期微動に気づかずに短周期の主要動だと思っていたころに、大きな揺れがあり、経験のない異常な大地震と知ります。同時に、揺れ具合を観察し喫茶店は大丈夫だろうと判断すると、興味深く揺れを観察していたというのです。ただ、冷静と無謀が紙一重だった気もします。

2度目の大きな揺れ

 主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長週期の波ばかりになった。
 同じ食卓にいた人々は大抵最初の最大主要動で吾勝ちに立上がって出口の方へ駆出して行ったが、自分等の筋向いにいた中年の夫婦はその時はまだ立たなかった。しかもその夫人がビフテキを食っていたのが、少なくも見たところ平然と肉片を口に運んでいたのがハッキリ印象に残っている。しかし二度目の最大動が来たときは一人残らず出てしまって場内はがらんとしてしまった。油画の額はゆがんだり、落ちたりしたのもあったが大抵はちゃんとして懸かっているようであった。これで見ても、そうこの建物の震動は激烈なものでなかったことがわかる。あとで考えてみると、これは建物の自己週期が著しく長いことが有利であったのであろうと思われる。震動が衰えてから外の様子を見に出ようと思ったが喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって誰も居ないので勘定をすることが出来ない。それで勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、そこに一団、かしこに一団という風に人間が寄集まって茫然として空を眺めている。この便所口から柵を越えて逃げ出した人々らしい。空はもう半ば晴れていたが千切ちぎれ千切れの綿雲が嵐の時のように飛んでいた。そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する。出口へ出るとそこでは下足番の婆さんがただ一人落ち散らばった履物はきものの整理をしているのを見付けて、預けた蝙蝠傘(こうもりがさ)を出してもらって館の裏手の集団の中からT画伯を捜しあてた。同君の二人の子供も一緒に居た。

揺れがかなり大きく、そして長かったことが伺えます。何にしても、この喫茶店は頑丈な造りのようであったのは幸いでした。一度目の揺れで、殆どの者が逃げ出していたのに、夫人がビフテキを食べていたというのも、動じない人もいるものだと、妙にリアルです。もっとも寺田寅彦はその場に居続けた訳ですが。そして、ボーイが返ってくるのを待って、勘定をすませ、預けていた蝙蝠傘をもらい受けて外へ出ています。

 

関東大震災の当時の基準では、最高震度が6になっていました。そのため、上野を含め広範囲が震度6になっています。しかし、現在の基準に照らし合わせると、これらは震度6弱から震度7相当だとされています。

周囲の様子

その時気のついたのは附近の大木の枯枝の大きなのが折れて墜ちている。地震のために折れ落ちたのかそれとも今朝の暴風雨で折れたのか分らない。T君に別れて東照宮前の方へ歩いて来ると異様な黴臭(かびくさ)い匂が鼻を突いた。空を仰ぐと下谷(したや)の方面からひどい土ほこりが飛んで来るのが見える。これは非常に多数の家屋が倒潰したのだと思った、同時に、これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。東照宮前から境内を覗のぞくと石燈籠は一つ残らず象棋(しょうぎ)倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁(よこげた)が外はずれかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知ったがその時は少しも気が付かなかった。池の方へ下りる坂脇の稲荷の鳥居も、柱が立って桁が落ち砕けていた。坂を下りて見ると不忍弁天(しのばずべんてん)の社務所が池の方へのめるように倒れかかっているのを見て、なるほどこれは大地震だなということがようやくはっきり呑込めて来た。

「異様なかび臭さ」、「下谷の方面からひどい土ほこりが飛んで来る」ことから、非常に多数の家屋が倒潰したと知ります。そして、「これでは東京中が火になるかもしれないと直感された。」とあります。恐らく、同じ東京帝大の今村明恒が書いた「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」も読んでいたのではないでしょうか。

 

寺田寅彦は惨状を見て、昼飯を食べる予定をあきらめ、家の無事を気にし始めますが、電車は停まったままで、歩いて帰ることにしたようです。危険そうな場所を避けて通るのですが、あちこちに激震の傷跡を見ます。帰り着いて安堵したようですが、その後、大学や市中の火事の情報を聞き、縁側から様子を見ました。

 

大火災発生

寺田寅彦地震日記』より

南の空に珍しい積雲が盛り上がっている。それは普通の積雲とは全くちがって、先年桜島大噴火の際の噴雲を写真で見るのと同じように典型的のいわゆるコーリフラワー状のものであった。よほど盛んな火災のために生じたものと直感された。

通常の空と違う様子を、物理学者らしい視点で書いています。ここでいう桜島大噴火とは、それまで桜島大隅半島との接点がなかったのが、このときに陸続きになったものです。それほどの大きな雲が東京の街に見られたのですから、その下は大惨事でした。

 

際立つ火災被害

関東大震災の被害を大きくしたのが、大火災でした。

関東大震災阪神・淡路大震災東日本大震災の被害を表で見ると、

3つの震災の被害

関東大震災では約9割が焼死となっています。

( 引用:「関東大震災100年」 特設ページ : 防災情報のページ - 内閣府 )

また、被害をGDP比で見ると、関東大震災では37%にもなっていることから、その被害の大きさが伺い知れます。

 

火災被害が拡大した理由

NHKスペシャルでその理由を解き明かしていました。

www3.nhk.or.jp

火を使う昼食時であったこと

9月1日は土曜日かつ、火を使う昼食時だったことが災いし、出火地点は134か所に上った。竃(かまど)や七輪など炊事用の火気が出火原因の半数という調査もある。

しかし、すべての出火点のうち、初期消火をすることができたのは57か所にとどまる。残りの77か所の火災は、その後どうなったのか。

最初は出火点周辺で燃えていた火災がみるみるうちに拡大、46時間で東京市の4割を焼失させた。

ただ、その火の広がり方は、出火店から離れた場所でも出火が見られています。

 

大量の火の粉、強風、燃えやすくなった屋根

関東大震災が発生した9月1日午後、東京は台風の影響で10m/s前後の風が吹いていた。

火災によって燃えた木造家屋、そこからまき散らされる大量の火の粉が強風に乗って各地へ運ばれ、家屋の屋根に着火し、新たな火災を引き起こした――「飛び火火災」と言われる現象だ。

飛び火火災が多かったのには、地震によって多くの家屋の屋根瓦が崩れ、瓦の下にある屋根板の杉皮が剝き出しになっていて、そこに風にあおられた火の粉が舞い降りて溜まり、出火したと考えられます。

 

揺れがおさまって安堵する人々

さらに、「関東大震災 記録映像をよみがえらせる カラー化で見えた新事実」では

www3.nhk.or.jp

当時の白黒フィルムを最先端の映像技術で8K高精細化、カラー化、場所と時間の特定といった作業をした結果、地震の揺れが収まった後、安堵する人々の姿も見えてきました。遠くに見えている火事に危機感を感じず、談笑したり、家の片づけをする人の姿も見えました。さらに、背後に火災が迫っているにも関わらず逃げる気配がなく、微笑みを浮かべる人の姿もありました。

 

上述の寺田寅彦のように、後に火事が東京中に広がることになると考えていた人がどれだけいたでしょうか。やがて一面火の海になり、火に取り囲まれることを想像できていれば、もう少し逃げ方も考えられたのではないかと思います。

 

前回の記事で紹介した今村助教授の「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を、社会がきちんと受け止められていたら、幾らかでも被害は小さくできたのではないかと思うのです。

火災が近づいてきたら、反対方向に逃げればいいと多くの人が考えていましたが、このとき東京では134か所の地点で火災が同時多発していました。

 

家財道具を持っての避難

さらに、当時の映像には、布団や風呂敷包みを手に持ったり、大八車に家財を積んで非難する姿が多く見られました。当時は、借家住まいの人が多く、せめてもの財産となるものを持ち運び出したかったのだと思われます。しかし、火の手に囲まれ、いよいよ逃げ場がなくなってきたときに、そうした荷物は人の行き来の障害になり、避難を遅らせ、身動きが取れない状況に追い込まれる一因になりました。

 

特に、火の手に追われて墨田川まで逃げてきた人は、そこから先に行くには橋を渡る必要がありました。しかし、火は既に隅田川の両岸で発生していたため、逃げようと目指した対岸からこちらに向かって逃げてくる集団もあって、橋の上で避難者が逃げ場を失い、人や荷物に押しつぶされた人、橋から転落する人も多かったそうです。そこに橋まで火が到達、橋は燃え尽きてしまいました。橋から川に飛び込んだ人も多く、翌朝には川面にたくさんの溺死体が浮いていたそうです。

 

軍服などを作る「被服廠(ひふくしょう)」工場の跡地にも、大きな揺れがおさまった後、大勢の人たちが避難しました。約6万8000平方メートルある広大な空き地に避難して安堵する人も多かったようです。しかし、時間が経つにつれ、避難する人は増え続け、約4万人に達し、人と荷物で身動きが取れないようになります。既に三方が火に囲まれており、逃げ場がなくなっていたところに、火の粉が舞い降り、家財や荷物が燃え上がると火の竜巻のような火災旋風が起こりました。

火災旋風 イメージ

荷物や家財、人や馬まで、空に巻き上げられ落下します。中には燃えたまま巻き上げられた人もいたそうです。被服厰跡での死者は、約3万8000人。関東大震災の被害者の約3分の1がここで亡くなったことになります。

医療の空白

被服厰跡では、別の課題も浮き彫りになっています。

www3.nhk.or.jp

「焼死者の中には4日ごろまで生き残っていた者がずいぶんありました。やけどを負って歩いておりながら、大抵意識不明で、ただただ無意識に歩くばかりであって、水!水!と連呼しながら倒れて1、2時間後に息を引き取ったような者は4日ごろでもたくさんありました」(『東京市震災衛生救療誌』より)

大火災の中でどうやって生き延びていたのでしょうか。

遺体の下に潜り込んだり、わずかな水たまりに入ったりして、なんとか命を守ったものの、医療の手が届かずに多くの人が犠牲になったというのです。いわば“医療の空白”と言える状況が起きていました。

大震災当時、東京市の6割以上の病院が被災していたことがわかりました。

さらに、被服廠跡に比較的近い規模の大きな病院でも、少なくとも5か所は火災から逃れるため、患者だけでなく医療関係者が避難を余儀なくされ、外部から支援がないまま医療機能を喪失し、新たな患者を救護する余裕が無かったことがわかりました。

この医療の空白は、罹災したがためやむを得ない事情もあったでしょう。しかし、一方で、市民の命を救うことを後回しにしたという指摘もあります。助かる命を守れる医療体制をいかに作るか、それは今なお大きな課題と言えるでしょう。

 

その他の要因

当時の東京ほどの大都市で災害が起きる例はありませんでした。そのため災害発生時の避難場所も決められていませんでした。消火対策が水道栓であり、それが地震で寸断されることも予期できていませんでした。それでも、不忍池の水を使って対応できた例など、都市としての防災のあり方のヒントになった事例もあります。

 

一部を除き、火災のほとんどは、2日後の9月3日10時ごろまでに鎮火したようです。

 

寺田寅彦『天災と国防』より

後に、寺田寅彦は『天災と国防』でこう記しています

(引用 寺田寅彦 天災と国防 青空文庫より)

いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。

文明の進歩が進む程、自然との対立も進むことを忘れがちだという指摘は鋭いと思います。文明が進めば、自然を支配したように思えても、それは錯覚でしかありません。文明が進むということは、これまで自然にはなかったものを生じさせるわけで、それが何をもたらすか不明な世界に踏み込むということに他ならないと思います。

 

さらに、国防と研究についても述べています。

 国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。

そして

 わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇いとまがなかったように見える。誠に遺憾なことである。

とも。これが書かれたのは、昭和九年(1934年)十一月ですが、そのまま今の時代にも通じる指摘ではないでしょうか。

 

 

しかし、この後、関東大震災の被害は、天災とは別の側面も見せていくことになります。

 

 

関東大震災100年(3)集団の安堵と狂気、そして映画『福田村事件』 平和と沈黙(2023)」に続く。

 

 

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