そのスプーンは変わっていた。
高校生のDと10歳も離れた姉は、長い入院生活の中で、毎日のように手に持って眺めていた。
「そのスプーン、よく手にしてるけど、何かあるの?」
と聞くと、姉は
「このスプーンは、母の形見なの。これを見ていると、少し元気になれるのよ。」
と言う。幼い頃に母を亡くしたDは、母の記憶があまりない。姉は見るのに満足したのか、スプーンを木箱に入れ、赤い布をかけて蓋をした。
「もし、私が生きてこの病院を出られなかったら、これをDにもらって欲しいの。私の形見として。」
「嫌よ。そんな縁起でもない話、聞きたくないわ。」
「はいはい。Dは、ちょっとでも暗い話になると不機嫌になるんだから。そうだ、今日は天気もいいし、散歩に付き合ってくれないかな。」
Dは姉が車椅子に移るのを手伝い、病院の庭に出た…。
あれから、もう半年が経った。結局、姉に頼まれた通り、木箱に入ったスプーンはDがもらい受けた。姉が亡くなって以降、気持ちを切り替えられないままに居たが、今日になって、ようやく木箱を開けてスプーンを取り出してみる。スプーンの先の丸く凹んだ部分(姉によると、つぼと呼ぶらしい)はよく磨かれていて、美しい。
「とても奇麗ではあるけど、どう見ても普通のスプーンよね?」と思いつつ、姉から「スプーンを使う時は、箱にある赤い布でスプーンを拭いてね」と言われた通りにした。すると、スプーンのつぼが、輝きを一瞬増した後、そこに姉の顔が映った。
Dは息を飲んだ。病院で姉がスプーンを見ている時に覗き込んだことがあるが、逆さになった姉の顔が映っていただけだ。なのにどうして、スプーンを持っている人と違う人の顔が、それも逆さにならず映っているのだろう。
「へぇ~、このスプーン、鏡にもなるんだ。面白いね。」とすぐ背後から兄の声。
「鏡?何言ってるの。スプーンに映ってるのは…」
「そりゃあ、スプーンは凹んでるんだから、逆さに映るのは当たり前だよ。ロングの髪だって鼻の穴が大きいのだって、Dそのままじゃん。」
「失礼ね。鼻の穴が大きいのは、兄さんも一緒でしょ。お母さんがどうだったかは知らないけど、父さんを含めて家族みんな大きいんだから。」
と不機嫌を装ったものの、兄の目には、逆さになったDがスプーンに見えているらしい。嘘や冗談を言っている風にも思えなかった。
その後、Dは、毎日のようにスプーンに映る姉の姿を見るようになった。無理もなかった。早くに母を亡くしたDにとって、姉が母代わりだったのだ。今なら姉がこのスプーンを何度も見ていた理由も想像できる。きっと、姉には母の姿が見えていたのだろう。母の記憶に乏しいDには、姉が少し羨ましく思えた。
ある日、いつものようにスプーンを布で丁寧に拭いて覗き込むと、姉ではない顔が映った。予想外のことに少し、頭が混乱したが、すぐ誰だか見当がついた。母だ。つい可笑しくなってしまったのは、母も鼻の穴が大きいと分かったからだ。
「お母さん…」
思わず、声と涙が出た。次の瞬間、更に予想外のことが起きた。
「あらあら、また泣いてるの、D。」
「え?!」
スプーンから声が聞こえた気がした。
「でも、私の出番が来たってことは、Dも一つ、気持ちに区切りをつけられたのかしらね。」
どうやら、その言葉は声ではなく、直接Dの頭に響いているようだ。
「それならもう、このスプーンは別の人に渡して欲しいの。姉さんがいなくなってから、ずっと寂しい思いをしている別の人にね。」
思い当たる人が居た。姉より5歳年下の彼氏だ。今も何度となく姉の遺影を拝みに来ている。でも、見せてあげるだけならまだしも、このスプーンを渡してしまうとなると、もう一度姉を失うような気がして辛かった。
だから、姉の彼氏が訪れた時に、スプーンを貸してあげるようにした。そして、再び来た時に返してもらうのだ。そんな風にして、1年が過ぎようとしていた。
この頃になると、Dが覗き込んだスプーンに、姉と母が一緒に映ることも珍しくなくなった。Dの頭の中で3人の会話を楽しめるようにもなった。Dが姉に彼氏の様子を伝えると、母も一緒になって、話が盛り上がる。母は直接には姉の彼氏を知らないので、興味津々のようだ。
「姉さんの彼、すいぶんと明るくなったみたいよ。いつまでも落ち込んでいたら、姉さんに心配かけるだけだって。」
「あの人、傷つきやすいのが欠点だったけど、意外と立ち直るのも早いのね。でも、もうそろそろ、私じゃない人を見つけていいのに。」
「あら、あなた、彼と会ってる時には、そんな話をしないの。」と母。
もちろん、彼と姉が会ってる時とは、彼とスプーンを通して会うという意味だ。
「話すこともあるのよ。でも、あんまり言うと、また落ち込みそうだから、控えめにしてるの。とは言っても、スプーン映るだけの私と付き合い続けるって訳にもいかないでしょ。だから、一緒に出掛けたいって言う時なんか、私の代わりに、妹を連れて行ってあげてって言うの。そしたら、女子高校生とデートしたら捕まりそうだから嫌だって。内気というか律儀というか、ま、そこも彼らしいんだけどね。」
「そのくらい律儀な人の方が信用できるのよ。良い人じゃない。Dの兄さんより、しっかりしてるわ。」
「え?あんなぐうたらな兄と比べたら誰だって…」
もうすぐ、新しい春が来る。そうなれば、Dもいよいよ高校を卒業する。実は、最近、スプーンには姉や母ではなく、姉の元彼が映ることがある。どうやらこのスプーンは、スプーンを拭いた人の、今、大切な人を映してくれるようだ。
姉の元彼も、スプーンにDが映ることがあると話してくれる。彼が持つスプーンに母が映るのも、それほど遠い話ではないだろう。
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