tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

授業29.『レモン哀歌』レモンという選択肢

先日、高校時代の現代国語の教科書を実家の倉庫で見つけたことを記事にしました。

それ以降、気が向いたときに、気になったところを読んでいます。不思議なもので、教科書の実物を手にすると思い出すこともたくさんあります。すっかり忘れていた授業の様子が鮮明に浮かび上がることも…。

 

それを記事にしてしました。

レモン哀歌

「これは、レモンだから成り立つ詩だと思います。他の果物だったら、こんな感じにはならないですよ。」

若い女先生がそんな話をしたのは、高村光太郎の詩『智恵子抄』の中に収められた『レモン哀歌』の授業の中でした。この詩は著作権が消失されているので、青空文庫智恵子抄』より全文を載せます。

 

レモン哀歌

 

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとつた一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉のどに嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まつた

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

レモン イメージ

何故レモンなのか

先生は一人、他の果物の場合を自問自答しました。

「う~ん、たとえばリンゴ?そんなにもあなたはリンゴを待っていた…。ん~。お見舞いで果物の差し入れならあるでしょうけど、最期を迎えようとしてる人にしては食欲があり過ぎて、合わないですねぇ。バナナ?そんなにもあなたはバナナを待っていた…くすっ。ん~、ないですね。」

そんな感じで、先生は少し笑っていました。この詩の授業で、笑ってしまったことを不謹慎だと思ったのでしょうか、先生の顔が幾分、赤くなったようでした。

 

この先生の、時折、独り言のように授業を進める感じに、私は好印象がありました。知っている、結論付けていることだけを話す先生が多かった中、生徒と一緒に考えてるような時間は、思いがけない話が出てきそうに思えたのです。

 

智恵子抄』は、高村幸太郎の妻、高村智恵子に寄り添った詩であり、結婚する以前(1912年)から彼女の死後(1941年)の30年間にわたって書かれています。『レモン哀歌』は、智恵子が亡くなる数時間前にレモンをかじる姿を描写しています。

 

レモンを一かじりしたとき、トパアズいろの香気が立ち、一瞬、魔法がかかったかのように、智恵子に生気が戻り、かすかに笑うのです。そして、その後に一つ深呼吸をして亡くなります。

 

かすかに笑ふ

先生自身は微不謹慎だと思ったかも知れませんが、私にはそれが印象に残りました。小難しく、堅苦しい授業が多い中で、思わぬところでかすかな笑い。その人らしさが垣間見えた感じ。その笑いが詩にある

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

を意識したものだったなら、見事な演出と言えるでしょう。そうではなく、不意を突いた笑いだったなら、それは高村光太郎の見た世界に近づけてくれた魔法です。15歳の少年には、先生の遠慮がちに笑った姿が高村智恵子のイメージになりました。

 

その後も幾らか、他の果物のイメージではどうかの話が続いた気がします。

「葡萄」はいいかも。マスカットなら色合いとしても良い感じになりそう。でもそこまで鮮明に生気が戻るかな?

イカは種が…、あ、マスカットにも種があったね。云々。

私はスダチならどうだろうと思いましたが、黙っていました。

 

結局、最後は「やっぱり、レモンという選択肢しか無いですね」と落ち着きました。

 

レモンという選択肢

レモンを選んだのは、詩の作者、高村光太郎ではなかったでしょう。病床で最期を迎えようとしていた智恵子も、自分の意思で選んだというより、たまたま目に止まったレモンが欲しくなったような偶然を感じます。でも、その偶然が、生気を取り戻す魔法を成功させたのでしょう。その魔法はまず、智恵子自身に起き、続いて智恵子を看る光太郎に伝播し、さらに詩になって広く読者の心に響きます。レモンの選択は偶然だったでしょうが、光太郎にとっては必然、詩にしなければならない現象となり、必然、広く読者に伝わったのだと思います。

 

物や言葉には、良い意味であれ、悪い意味であれ、何某かのイメージがついて回るものです。レモンの別名に「クエン」がありますが、この詩が「クエン哀歌」だったなら、心に響きにくかったでしょう。きっと、クエンが智恵子の生気を取り戻したなら、「クエン酸」のイメージから、有機化合物による科学的反応というイメージが伴ったと思います。それだと、魔法は起きず、読者にも伝わらなかった気がします。

 

結果として、レモンが詩の大きな成功を支えていると言えそうです。高校時代には、夏目漱石が『こころ』で鉛を使った表現に強く感心したのですが、

今思えば『レモン哀歌』のレモンもそれに通じる気がします。

 

現代国語の教科書

40年ぶりに手にした現代国語の教科書、そこに載っている活字は、当時の私の記憶を辿るヒントに満ちていました。『レモン哀歌』は別の場面で触れたことがあるはずですが、ここに記したようなことは何一つ思い出させてはくれませんでした。現物の持つ力というか、自分が使っていた物の力というか、それは想像をはるかに超えている気がしました。

 

今後も、時折、現代国語の教科書をネタに記事に書くかも知れません。

 

 

 

今週のお題「最近読んでるもの」

 

 

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