tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

もしも英語が使えたら、Another World に行ってみたい

May I help you ? 

高校の頃に思っていた。いつか、この言葉を気軽に使えるようになりたいと。それは私が英語を十分使えている証になるだろうと。

でも、"May I help you?"より“Can I help you?”の方が良いとか、それより"Do you need hepl?"が良いとか、その内「助けて欲しい?」なんて、上から目線で言ってる気もして、結局、May I help you? は、使ったことが無い。

その後、外国人と日本語と英語が混じった会話?ボディランゲージ?スマホ活用?をしたことは幾度かある。思いが十分に伝わったとは言えないが、ある程度は伝わったし、幾らかの助けにもなったと思う。それでも、今の私に英語を使えている実感は皆無だ。

 

 

If I can use English…

もし、私が英語を使えるなら、日本語字幕なしで洋画を観たい。

映画館が一度入場すれば繰り返して映画を観られた頃、1度目を観るときは、字幕を必死で追いかけていた。ヒーロー、ヒロインの会話では意味が分からず、英語のジョークが字幕では意味をなさなかったり、俳優が笑った後に字幕で意味を知ったり、そんな置いてけぼりを何度も味わった。そこにある微妙なズレ。それが歯がゆかった。

2本立ての作品上映が終わっても映画館に居残って2度目を観るときは、字幕より映像に注目した。ただ、おおよその流れはわかっていても、ヒーロー、ヒロインの会話はやはり字幕をチラ見して理解するしかなかった。英語の台詞は聞くものではなく、字幕で読むものだった。

 

Gone with the wind:『風と共に去りぬ

映画『風と共に去りぬ』は、高2だった1983年7月16日にリバイバル上映で観た。

tomorrow is another day.

有名なラストの字幕「明日は明日の風が吹く」に対する英語が "tomorrow is another day ."だと気づいたのは、ずっと後、レンタルDVDで観た時だ。それまでは、字幕でのみ理解していたのである。

日本語字幕で印象操作されていたとは言い過ぎだが、誰かの訳を通して理解するのと、英文をそのまま理解するのとの差。一方で、当時 "tomorrow is another day ."という簡単な英文を聞いて「明日は明日の風が吹く」以上の訳を見つけられたとも思えない。「明日は別の日。」と直訳しただろう。しかしこれでは、別の映画になってしまう。

今改めてこの訳を考えると、『明日があるさ』(坂本九Re:Japan 他)の歌のイメージとつながりそうだ。今日は駄目だったが、駄目じゃない明日がある。そんなイメージ。

"another" and "tomorrow"

こんな風にいろいろ解釈してしまうのは、「日本語」と「英語」で同じ言葉や物でもイメージが違うからだろう。 "tomorrow is another day ."で言えば、"another"のイメージの差ではないか。日本語の「別」には”今より劣る物"というイメージがつきまとう気がする。しかし、英語の"another"は"他のもっと良い物"というイメージがありそうだ。

一方で、日本語の「明日」と英語の"tomorrow"には、あまり違いが無く、共に、明るい日、未来とイメージがありそうに思う。

最近では、"tomorrow is another day"を「明日という日もある」とする訳もあるらしい。でも、私には違和感がある。少なくとも『風と共に去りぬ』のラストとしては、どこか投げやりに思えてしまう。強引ではあるが、意味合いや気持ちを考えるなら「明日はもっといい日になる」や「今日とは違う明日がある」が近いと思う。

 

The Magnificent Seven:『七人の侍

"The Magnificent Seven"、これはアメリカで1956年に縮小して公開された日本映画『七人の侍』の英字タイトル。Magnificent の訳は「壮大」。壮大な七人。言わんとすることはわからないでもないが、後に全長を使った上映では、″The Seven Samurai″ に改められたそうだ。"Samurai″のイメージがある程度浸透したからだろうか。

そのラストの有名な台詞「勝ったのはあの百姓たちだ。わしたちではない。」の英訳にも違いがあるらしい。ここでは、下のブログを参照した。

issa310.at.webry.info

1956年版の英訳

The winners are those farmers. Not us.

2006年版の英訳

 I mean the victory belongs to those peasants. Not to us.

太字部分の意味

farmerは作物の栽培や家畜の飼育をする人で、農家、農民の意味

peasantは地位の低い小作農の意味

下線部の意味

 winners は勝者

victory belongs to 勝利を得た

 

時代によって使われる日本語が変わるように、英語も変わる。言葉は流動的だ。もし、私が英語を使えるなら、日本映画の英語字幕版を観るのも面白そうに思う。

 

Knife, fork and chopsticks

ここで、ちょっとたとえ話をしよう。

 

フォークとナイフに慣れていなかった頃、まず食べ物を全てナイフで一口大に切り分け、その後はフォークだけを右手に持ち替え突き刺して食べていた。口に食べ物を運ぶのは利き手が楽と思っていたからだろうか。ライスもフォークですくう方が断然食べやすく感じたものだ。

しかし、慣れてくるとフォークの持ち替えが面倒になってくる。食べ物によっては、ナイフを抑えに使って、フォークの腹や背に乗せて食べるようになった。かつて、ライスはフォークの背中に乗せてと言われたものだが、厳密なルールやマナーは無いらしい。

 

調べてみるとこんな動画を発見。

www.youtube.com

ただ、お皿等を手で持ち上げるのはよくないのだとか。でも、そんな境界線もだんだんと薄れてくる気がする。和食でご飯や汁物の入ったお碗を手に持たずに食べるのは至難の業だ。ああでもない、こうでもないと落ち着くところに落ち着くのだと思う。

 

箸で食べる文化に、突然大きな一枚のステーキを持ってきても、箸で切ることは困難。ナイフとフォークを添える、または、あらかじめ一口大に切っておく必要がある。ナイフとフォークで食べる文化に、サンマ一匹の塩焼きを出しても食べるのは困難。箸を添えるか、身をほぐしておく必要があるだろう。

焼き魚にフォークとナイフ、ステーキに箸

焼き魚を食べる際、箸に慣れない人が苦労するのを滑稽で笑ってしまうことはあるかも知れない。それでも、それを小馬鹿にして、嘲笑し続けるのはいけないと思う。

 

"May I help you?"

の出番か?いや、“Can I help you?”か、それとも"Do you need hepl?"か。

いやいや、困っているのは明らかじゃないか。

既に両手に箸を一本ずつ持って、切ろうとしてる。

(待って、待って、待ってください。)

Wait, wait, please wait.

(この魚を食べられるようにします)のつもりで、

I make eat this fish.

と言ったら、その人はちょっと困った風だったが、

OK. thank you.

と返事して、口をあ~~んと開けて待っている。

(いや、いや、いや)

no, no, no.

(この魚を食べやすくします)のつもりで言い直す。

I make eat easy ,this fish.

正しく英語が言えているかどうか自信は全くない。

でも言うより行うが易しと、箸で魚の身をほぐす。

上手くいけば、Oh, great! と誉めてくれるかも知れない--。

 

私の英語力では、必死に頑張っても、きっとこれくらい。

これでは、異文化が共存できる世界に辿り着くのはまだまだ遠そうだ。

 

Another World

タイトルにもある Another World とは、異文化が共存できるもっと良い世界のつもりだが、この言葉の使い方も間違ってる可能性はある。

 

英語が使えるとはどんなイメージだろう。何かを感じて、日本語で言葉にしたものを英語に替えて話すのではなく、英語で感じて英語で話す。そんなイメージだろうか。

故郷では故郷の方言で話し、今住む場所ではその場所の言葉で話す、それに似ているの気もするが、英語が使えるようになった another world は、そんな想像を超えている気がする。知らずにいた言葉と言葉の組み合わせが一気に広がり、一つ一つの物が持つイメージもかなり変わって、知らなかった世界が広がる気がする。

 

日本語的思考と英語的思考を繰り返しながら、一個人の中で言語や文化の枠を超え、その場に応じた言葉を使えるようになりたい。そして、英語に限らず、多様な言語や文化を共有できるようになった時、Another World に辿り着ける気がする。そこは、今より少し、地球に住む人同士で仲良くなれる世界だと思う。

 

 

今週のお題#もしも英語が使えたら