tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画22.『風の谷のナウシカ』(1984)まんがには無いアニメの表現領域

「動きが持つ表現力」

アニメ映画『風の谷のナウシカ』(1984年)で宮崎駿が描きかったことの一つが「動きが持つ表現力」だと思っています。もちろん、自然と文明の対立と共存といったテーマはNHKアニメ『未来少年コナン』から続いているし、後の『もののけ姫』にも繋がっていますが、そのテーマは既に多くの場で語られているので、ここでは触れません。

 

 

世はアニメブーム

映画館で観たのは1984年3月25日。受験も卒業式も終えた解放感に包まれていました。

 

1970年代前半、子ども向け「まんがまつり」の中の小品という感じだったアニメ映画は、1970年代後半~1980年代前半にかけ、大きく花開き定着します。『ルパン三世』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』、『機動戦士ガンダム』、『うる星やつら』等のシリーズ作品や、単発の『幻魔大戦』、『少年ケニヤ』などの作品もありました。『風の谷のナウシカ』も後者の部類。それぞれの作品で、新たな挑戦があって、劇場アニメを一つのジャンルに押し上げた頃です。

 

映画『ナウシカ』の挑戦

ここでは3点、「1本完結」、「王蟲を動かす手法」、「空と雲の表現」について書くことにします。

 

1.1本の作品でストーリーを完結させる

未来少年コナン』の二の舞にはしない

NHKのTVアニメ『未来少年コナン』には、2本の劇場版がありました。『総集編 未来少年コナン』と『未来少年コナン 特別編 巨大機ギガントの復活』。私にはこれが酷かったと思えてなりません。TVの26話分を切り刻んだ上、ラストを改変してしまった総集編。総集編でカットされたギガントの部分だけで作った特別編。

 

これを宮崎駿がどう感じたかは知りませんが、むしろ「何も言いたくない」という思いだったのではと想像しています。そして、アニメ映画にするなら、アニメ映画への仕方があると、1本完結の『風の谷のナウシカ』にしたのだろうと思うのです。

 

奇しくも、『風の谷のナウシカ』の封切り日1984年3月11日です。これは、『未来少年コナン 特別編 巨大機ギガントの復活』(『超人ロック』との2本立て)の封切り日と同じ。なんだか、無茶苦茶にされた『未来少年コナン 特別編』を覆い隠したかったのかも?と思えました。

 

原作にこだわらず1本の作品にする思い

当時『風の谷のナウシカ』は、漫画として月間アニメ雑誌アニメージュ』に連載中でストーリーは完結していませんでした。それでも映画にするというのですから、その調整をどうするのかと気になっていました。

 

原作も映画も観た人の感想は主に2つあったように思います。どちらも「ストーリーを完結させた映画には、漫画と違う魅力がある」とした上で、「原作漫画の奥深さがカットされたのは残念」とするものと「ストーリーが明確でわかりやすくてよかった」とするものです。とりわけ、重要な登場人物クシャナの設定に大きな違いがあって、それへの評価が分かれたようです。

 

原作には、政治的な駆け引きや登場人物の葛藤も描かれ、物語の進行に説得力があったと思います。クシャナの人物像も映画とはかなり違ってきます。ただ、これを2時間程のアニメにそのまま描くことは困難でしょう。そこで、アニメ映画は、わかりやすい勧善懲悪的な仕立てにしたのだと思います。

 

個人的には、アニメ映画はあれで完結させて正解だったと考えています。複雑な人間関係や思惑はさておき、自然と文明の関係をシンプルに描き出したことで、テーマは観客に伝わりやすくなりました。自然の営みの大きさや意味がストレートに伝わってきます。人を追い詰める自然の脅威の裏に、自然の自己再生力を認め、人は自然と対立ではなく協調すべきとのメッセージが鮮明になったと思うのです。個人的には、『ナウシカ』はそのために作られたと思っています。

 

続編を作る話

もし、『ナウシカ』を原作に忠実に描くとなると、『ガンダム』のように三部作にする等の手法が必要だったでしょう。でも、当時、肝心の原作の展開も不明な状況でその決断をするのは無謀だった気がします。あるとすれば、『スターウォーズ』のように、第一話は、一話として完結。観客の反応を見て、続きの2話、3話を制作する方法でしょうか。

 

実は、そういう話もちらっとあったそうです。『エヴァンゲリオン』を世に放った庵野秀明は、映画『ナウシカ』で巨神兵を担当していました。その後、原作漫画『風の谷のナウシカ』の最終7巻に強く惹かれたそうです。それも踏まえ『ナウシカ2』を作ってみたいと持ち出して、宮崎駿を激怒させたとか。1本の作品に仕上げたナウシカを、いじられたくなかったのでしょう。その逸話を知って、『コナン』のブツ切り映画に対する怒りはかなり大きかったのだろうと勝手に想像しています。

 

とは言え、宮崎駿も他者の原作を好き勝手に手を加えてアニメにしてきた経緯があります。その後、庵野秀明に続編を任せてもいい、好きに使っていいなんて言うようになったとか。詳しい事実関係は知りませんが、思い出したように話題になってる気がします。

 

2.王蟲などの独自の動かし方

二つ目のこだわりは、アニメならではの動きです。

ユーモアとしての動き

未来少年コナン』や『ルパン三世カリオストロの城』では、ユーモアたっぷりで意表を突く動きを効果的に散りばめて盛り上げるシーンがありました。とんでもなく高いビルから飛び降りたり、足のつま先で棒をつかんで落下を防いだり、屋根を駆け下り一気にジャンプして塔にしがみついたり。

 

ナウシカ』では、そうした部分はぐんと減り、理に沿ってダイナミックに見せるシーンが多かった印象です。特に、王蟲の動きには驚かされました。

王蟲の動き

映画のパンフレットで読んだ気がしますが、王蟲の動きはゴムの伸び縮みを利用したとか。ダンゴムシのような姿形が動く際、身体の伸び縮みがないと単に物が動くだけに見えてしまい、生き物らしさが無くなるとの話だったと思います。

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王蟲メーヴェ

記憶を頼りに検索すると、こんな記事を発見。

originalnews.nico

これを読めば、私の説明なんていらないですね。

 

3.空と雲の表現

これも私の勝手な見解です。『未来少年コナン』には、空を飛ぶシーンが幾つかあります。戦闘機やフライングマシンに乗って雲の間を抜けるシーン、空飛ぶ要塞ギガントの翼の上を雲が横切るシーン、ラナが海にいるだろうコナンを探すためテキィと重なって空を飛ぶシーン等々。そこでは、雲が単なる白い塊のようだったり、雲と体が交錯したり、雲の重なりや間を縫うように飛んだり。アニメの再放送を見て、宮崎駿は空と雲に特別な思いがあると感じていました。

 

ナウシカ』では、空と雲の表現が『コナン』に比べてずいぶん進化していると思いました。一人で滑空できるメーヴェガンシップ等の飛行機、空を飛ぶ軍艦、翅蟲 (はむし)等、空を飛ぶ方法が多様で、雲の扱いも変わります。一番驚いたのは、空中での戦闘シーン。軍艦が雲に隠れたり、敵の位置を見抜いて雲から抜け出たり、相手の機を雲に押し込もうとしたり。

 

小さい頃から雲を見るのが好きで、高校時代「雲のかくれんぼ」を楽しんでいた私。

でも、多様な雲の合間を縫うように飛ぶことを想像したことはなかったです。まだ飛行機に乗ったことも無かった頃で、表面、雲の内側、雲の上の影等々、想像できなかった雲の景色を見た気がしました。

 

後に、初めて飛行機に乗った時、同行の先輩に外側の席を変わってもらい、小さな窓に映る空や雲に見入っていました。霧のような雲の中、雲を抜ける際の境界線、雲の波の影が鮮明に見えたことなど、とても印象に残っています。

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飛行機の窓から見た空と雲

先輩には「お前、はしゃぎすぎ。」と言われてしまいましたが、「それだけ喜べるのは羨ましい。」とも。その声にも、顔を窓にくっつけたまま返事していたので、実際どんな表情だったかは不明です。ただ、『ナウシカ』を見てなかったら、そこまではしゃぐことはなかった気はします。

 

ナウシカ』その後

アニメ映画に込める思い

宮崎駿の自然と文明のテーマは13年後『もののけ姫』に受け継がれます。ただ、そのメッセージは、身勝手な人間にさらに厳しい警告だったと思います。最後通告というイメージもあります。『もののけ姫』以降、鮮明な自然と文明のテーマは影を潜めましたが、その他のアニメ映画の一作一作には、別のテーマで鬼気迫るような思いを感じました。

 

空と雲、そして知識と技術

空と雲の表現については、『天空の城ラピュタ』でもいかんなく発揮されました。『風立ちぬ』では、飛行機のねじ一本にも注目し、そうした技術があって初めてあの表現が成り立っていると教えてもらった気がします。無秩序な文明の発達や戦争批判をする一方で、一つ一つの知識や技術に敬意を払う姿勢は、宮崎駿の魅力。いろんな作品で産業や労働、機械が細やかに描写されているのも、そこに起因していると思います。

 

アニメの表現力

アニメとしての表現力は、時代に応じてずいぶん変わっていきました。特にCGの活用、3Dアニメの登場は、アニメ制作にも大きな影響を与えました。手描きのこだわりは、『かぐや姫の物語』で一つ区切りを迎えた気がします。街や風景の精緻な描写は『君の名は。』で現実を越えた気がします。引退を宣言した宮崎駿が、再び創作意欲を強く持ったのはきっと『君の名は。』の影響でしょう。その後も表現方法の挑戦は止まず、息子の吾郎にも揺さぶりをかけ、『アーヤと魔女』を企画し作品にしました。飽くなき追求は、どんな次回作を完成させるのでしょう。楽しみです。

 

まんがには無いアニメの表現領域

ネット回線が高速化、大容量化されて、動画のアップロードや視聴が日常になりました。カメラも進化し、写真では伝えにくいことを動画で伝えることも一般的になってきています。また、肉眼で確認するのが難しい物も、ドローンや超高速撮影で視ることが可能になりました。そんな今だからこそ、動画の利便性に納得できますが、『ナウシカ』が公開された頃は、アニメをまんがと呼ぶ人も珍しくなかったです。

 

まんが日本昔ばなし』は、それを象徴するようなタイトル。小5の図工でアニメーションを作るという授業がありました。でも、前のコマを少しずつ変化させてお話を作るとは説明されたものの、実際は4コマ漫画でした。動く映像をイメージする難しさ、面白さには気づきにくかったです。その後、教科書の隅に落書きしてパラパラ漫画を描くようになって、ちょっとイメージできた感じ。

 

そんな時代に、静止画や漫画では表現できないアニメの面白さを教えてくれたのが宮崎駿でした。当時はあまりわかっていなかったですが、今なら少しはわかる気がします。

 

絵を動かすのでも、動くものを撮影するのでもなく、動く映像を創る。漫画を動かすのとは次元の違うアニメでこそ表現できるものがあります。最近はCGをフル活用した3Dアニメが増えていますが、「対象をどう動かして思いを表現するか」という根っこの部分は変わっていないと思うのです。

 

この着想から、目に映る物の動きを想像して楽しむことが増えました。四季の移ろいによる自然の変化、手から落ちた10円玉の行き先、車にこびりついた鳥の糞はどうやってそこに辿り着いたのか、笑った時の気持ちが伝わる眉の動き等々。私にそれを表現する力はないですが、想像するのは楽しいです。

 

「いや、そんなのアニメとは何の関係もないんだよ。アニメは表現なんだから。」と一蹴されそうですが、いいのです。宮崎アニメから得たものは本当にたくさんあったと思えることが、嬉しいのです。次回作は、2023年頃予定『君たちはどう生きるか』とのこと。楽しみです。