tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画23.『風と共に去りぬ』で知った映画のメッセージ

※ <閲覧注意>この記事は多くのネタバレを含んでいます。

一番の記憶

風と共に去りぬ』ついて、こんな解説がありました。

「(南部が戦争に負けようとする頃)スカーレットは出産間近なメラニーのために、お医者さんを呼びに行きます。そこでは、たくさんの傷病兵が寝かされているんですね。その間をスカーレットが歩いていきます。それをカメラが追いかけながら、すーっと引いて行くんですが、どこまでも負傷した人、人、人。こんなにたくさんいるのかと息を飲んでしまいます。あぁ、その恐ろしいこと。こんなシーン、この監督でなければ撮れません。ここに強いメッセージが込められているのです。」

一字一句は不明ですが、今なお私の映画の観方に大きな影響を与えている解説です。

 

調べると1979年10月3日と10月10日(中学2年時)の「水曜ロードショー」と思われますが、記憶の中では「日曜洋画劇場」の淀川長治さんの解説になっていて、つじつまが合いません。「水曜ロードショー」なら水野晴郎さんのはずですけどね。まぁ、今回、そこは不問にしておきます。

 

一本の映画の中にも、ここという思いの込められたシーンがあります。もちろん、それが1つとは限りませんし、観客の思い違いや気づかない場合だってあるでしょう。でも、そのシーンを見つけることができれば、それは素晴らしい映画と出会えた証。そんなイメージです。読書で、心に残る一文に出会えたらそれは素敵な本との出会いというのと似ている気がします。

 

 

映画館で観た高校時代

風と共に去りぬ』は、高3だった1983年7月16日にリバイバル上映でも観ました。テレビで観た作品を映画館でも観た一番の理由は「ここに強いメッセージが込められている」シーンをスクリーンギリギリで視界に収めて観たいと考えたからです。この頃には、映画館の前の方の席に座って観るスタイルになっていました。(最近は、動きに目がついていけず少し下がった席で観ることもあります。)

 

映画手帳にはごく簡単な感想しか書いていません。

壮大!テレビと格が違う。あのクラークといい、ビビアン・リーといい凄い!

採点は90点。当時の最高評価です。

 

「壮大!」に多くの意味を込めたと思います。画面の大きさはもちろんですが、物語の時間軸、登場人物の多様性等々。中学生時とは違う感性も育っていたのでしょう。スペクタクルなシーンにばかり注目していた頃と違って、少女から大人になっていくスカーレット役のビビアン・リーの演技にも目を見張りました。

風と共に去りぬ イメージ

スカーレットの、男を虜にする台詞や声色、本音を覆い隠す言葉や仕草で、かわいさ、ずる賢さ、意地悪さ、優しさ、冷たさ、それらが違和感なく同居する存在感。加えて周囲の反発や蔑みにも動じない芯の強さがある一方で、孤独に弱く寂しがり屋な一面もあります。

一方で、バトラーのおどけ方、冷徹さ、泰然なふるまい、計算高さ、時に人を見下すような側面がある一方で、ここぞという場面で頼りになるなど、多様な面が同居する存在感。

二つの強烈な個性が絡まり、時に小気味よく、ユーモラスで、時に反発しあい、それでもスカーレットの成長ぶりに惹かれていくバトラー、そんな駆引きにも似た感情の機微も魅力に思えました。

 

もちろん、負傷兵で埋め尽くされたシーンにも息を飲んだのですが、観終わった時に一番強く印象に残ったのはスカーレットとバトラーのやりとりでした。テレビの吹き替え版とはほんのちょっとした違い、あるいは思い込みや観た時の年齢差だったかも知れません。

 

それにしても、テレビで一度観た作品を映画館で観るメリットや、2度、3度と観て初めてわかること、吹き替え版ではわからないことがあると高校時代に感じていたのは本当に幸運だったと思います。

おかげで、1本の映画に込められたメッセージが単純ではなく、複雑な要素を絡めながら出されていることを知った気がするのです。

 

作品と時代

今回、記事を書くにあたり、Amazon Prime Video でもう一度観ました。

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観たのは数十年ぶり。5、6回目でしょうか。中学時代、高校時代、就職後に加えて、今回観て新たな収穫もありました。多彩な脇役、メラニー、マミー、アシュレー、ベル他が二人を引き立てていることや、演出の効果にも気づけました。撮影された1939年、当時としてはかなり大掛かりな演出だったと思います。

 

時代の違い

前回の記事『 もしも英語が使えたら、Another World に行ってみたい 』で、映画『風と共に去りぬ』の話も少し書いたので、その勢いで、高校時代の映画記事としても完成させることにしました。でも実は、『風と共に去りぬ』の記事作成は長らく中断していました。高校時代の映画を書こうとするときに、今との感覚の違いに悩むのですが、『風と共に去りぬ』は他の要因も絡んでいました。もう一度観て、その辺が整理できた気がします。

 

人種差別

2020年、白人警官による暴行で黒人が窒息死した事件からBLM(ブラック・ライヴズ・マター:Black Lives Matter)運動が大きく広がり、根強い黒人差別が問題視されました。その中で、『風と共に去りぬ』が黒人差別を助長していると批判を浴びた業者が、2020年5月に一時的にネット配信を停止しました。後に本編に解説動画を加えて配信を再会しました。

 

風と共に去りぬ』が人種差別的表現を含んでいるかと問われれば、含んでいるとなるでしょう。アメリカでは奴隷制をめぐって南北戦争が起き、奴隷制維持を主張するアメリカ南部を古き良き時代として描いているのです。加えて、主を慕う良き黒人が描かれています。また、ステレオタイプ的な演出も多いです。

 

スカーレットの乳母でもある女性黒人奴隷マミーが目を丸くして白黒させるシーンがあります。有名なジャズトランペット奏者 ルイ・アームストロングサッチモ)のレコードジャケットにもみられる表情です。昔のカルピスのキャラクターやダッコちゃん人形とも共通した黒人のデフォルメと言われています。

 

風と共に去りぬ』は1939年の映画。1940年のアカデミー賞ではオスカー8部門受賞でした。その中でハティ・マクダニエル(マミー役)が黒人初のオスカー(助演女優賞)を獲得しています。しかし、授賞式で彼女は共演者と同じテーブルに座ることを許されませんでした。授賞式の会場に使われていたアンバサダー・ホテルは「黒人お断り」でした。オスカー受賞で考慮してもらった結果、なんとか彼女はオスカー像を置いておくための裏部屋への入室を許されたそうです。

 

この辺を考慮すれば、『風と共に去りぬ』は人種差別の影を落としていると同時に、黒人俳優に光を当てた作品とも言えそうです。個人的には「一部に差別的な表現はあるものの、差別を助長させる意図は無かったし、むしろ、歴史的価値の大きい作品」と考えています。一方で、「差別を助長させる意図が無かったとしても、現実に差別を助長させる可能性があるなら何らかの手立ては必要」とも思います。「表現の自由」と「公共の福祉」のバランスは難しいですが、現在の着地点が解説動画付きの配信なのでしょう。

 

感性の変化

人種差別だけでなく、男性観や女性観、映画文化としてのイメージにも変化があると思います。数年で大きく変わったり、何十年かして気づいたり、変わらないままであったりもします。

 

例えば

では、時代とともに「わかいい」の意味が変化していることを書きました。

 

今回、ネットで観た時に、スカーレットの「かわいさ」も少し違った感じがありました。作品が変わるわけではないので、変わったのは私の感性でしょう。

 

スカーレットを通した全体の女性観が気になっていたのです。公開当時は自立する新しい女性観を広めたと思いつつ、根底に男性を頼ってしまう女性観もあったと思いました。3度の結婚と離婚を繰り返しながら世間の噂に怯まなかった一方で、アシュレーへの想いを引きずり、周囲に不幸を招いてしまいます。製材所での手腕は過小評価され、恋愛に翻弄される姿に焦点が当たります。そもそもが壮大なラブストーリーなのですから、恋愛に焦点が当たるのは当たり前ですけど。

 

一方で、今回、メラニーを通した女性観に好感を持ちました。女性を信頼する女性を最期まで貫きます。聡明な彼女が、スカーレットのアシュレーへの想いに気づかなかった訳ではないでしょう。また、売春宿を経営するベルにも誠意をもって対応しています。

 

今回観直すまで、時代の先端を行くスカーレット、保守的なメラニーというイメージでした。でも、保守的なのはスカーレットの姉妹で、メラニーもまたスカーレットとは別のタイプながら、時代の先端を行く女性だと思い直しました。つまり、周囲を気に留めず天真爛漫に生きるスカーレットと周囲の噂に惑わされない芯の強さを持つメラニーというイメージです。スカーレットはメラニーへの嫉妬を隠しませんが、メラニーはスカーレットの嫉妬に揺るがぬ自分、アシュレーへの絶対的な想いを持っています。そう考えると二人の関係性が、これまでと全く違って感じられ、映画が面白く観えました。

 

私の勘違いかも知れません。作品のメッセージではなかったかも知れません。

でも、これも時代を超えた楽しみ方のように思うのです。

 

補足

ちなみに『風と共に去りぬ』は当時400万ドル前後の製作費をかけ、全編で3時間42分という大長編映画でした。インフレを調整した歴代の興行収入では、2020年現在で『風と共に去りぬ』が1位だそうです。その意味でも時代を超越した作品と言えそうです。

引用:風と共に去りぬ - Wikipedia

 

映画の観方

観方はいろいろあっていい

映画の観方に決まりはありません。観る人の数だけ、観る機会の数だけ観方があっていいと思っています。

 

初見の際は、とにかくネタバレには触れないようにしている私です。観終えたら、いろんなネタバレ話に触れるのも好きです。雑誌やネットで自分の持っていなかった視点に触れた後、もう一度観るのも面白いです。

 

単館上映の頃は、一度入館してそのまま12時間程居続けて、3本立てを2回通り見たこともあります。間を置かずに見ると、ストーリーの流れを憶えているので、細かな部分まで観られ、一回目に気づかなかったことを発見するのも楽しいです。逆に、シネコンで入場料を払って2回目を観ていて眠ってしまったこともあります。それはそれで悔しくて、自分の観方の甘さを痛感しました。

 

過去にテレビで一度観た作品、映画館で観た作品をリバイバル上映で観るのも新しい発見があります。感情移入の仕方に変化が起きることがあり、同じシーンでも以前観た時とは全く別の感情を抱いて驚くこともあります。むしろ、同じ作品を観て、同じ感想を持つことはまずありません。そもそも、同じ作品を観ようと思う時、それなりに観たい理由があって、同じ観方はできないものです。

 

映画館で観客が私一人だけということもありました。居残って2回目も観たかったのですが、結局、別の観客が誰も来ず、入場料が入らないのにもう一度上映するのは勘弁くださいと断られました。旅先で、不意に時間が余って映画館に訪れたことも。作品よりも寂れた映画館の佇まいの方が印象に残っていることもあります。

 

レンタルビデオやDVD、ネット配信で観る場合は、心構えや関心事、周囲への配慮、視聴できる時間等、どうしても映画館とは違う観方になります。飲食やケータイの通知等が邪魔になることもあれば、トイレの行き忘れで一時停止やどうしてもさっきのシーンをリプレイしたくなる等、機器に甘えてしまうことも。でも、それはそれで、観方の一つ。映画館では、声が上手く聞きとれないことや、背景にあるポスターが気になりつつ確かめらないなんてことも良くある話。でも、できれば映画館で観たいとの思いは変わりません。作品の多くは、映画館の鑑賞を想定していると思うからです。

以前、こんな記事も書いています。

 

映画のメッセージ

そんなわけで、気負って見るのも気楽に観るのもありです。パンフレットや予告編で知り得た情報を過信するのも、疑ってかかるのもあり。映画のテーマについてあれこれ聞いて観方が変わったり、人に語る内に気づくことがあったり。難しく考えず、BGMのように流して楽しむのもありでしょう。映画を観て、受け取るメッセージもそれぞれ違っていいと思います。

 

ただ、「作品への向き合い方一つで、受け取るメッセージも違ってくる」と理解していれば、必然、いろんな向き合い方になると思います。

 

観るたび違って、観るたび面白い。

今回、改めて観た『風と共に去りぬ』も、それを教えてくれた気がします。