2年目(高校2年)その1
「10年後は、どうしているだろうね。」
「そりゃあ働いてるだろう。20代後半だから、結婚していても不思議じゃない。」
17歳の少年二人の十年先の話なんて、そんな程度だった。どんな仕事とか、どんな相手とか希望はあっても、それを軽々しくは言えなかった。目の前の受験結果抜きに、10年後のことを考えても現実性はあまりに乏しかったからだ。
友人は、私の夢も知っていたはずだが、その実現の可能性には触れない。当時の私の学業成績では、かなり難しいことを知っていたからだろう。
- 2年目(高校2年)その1
- 1年目(高校入学)
- 2年目(高校2年)その2
- 3年目(高校卒業)
- 4年目(予備校時代)
- 5~8年目(大学時代)
- 9~10年目(大学院)
- 高校入学10年で変わったこと・変わらなかったこと
1年目(高校入学)
三者面談
高1(15歳)の初めての三者面談。私、母、学級担任で進路相談をした。将来の夢とともに国公立大学進学の希望を話したら笑われた。一字一句までは憶えていないが「あはは。まあ、夢が大きいのは悪くないですが、大き過ぎる夢は苦しいだけですよ」みたいな話だった。そして「(三流でなければ)合格できる大学は無い」ときっぱり言われ「3年生では、三流大学か、就職かの選択になるでしょう。」とも予言された。
仕事を休んで来てくれた母には、「お子さんの進学を考えるなら、働くより勉強のサポートをした方がいい」みたいな話もあり、面談はわずか数分で終わった。
母によれば私達より順番が早い人達には15分、20分と時間をかけていたらしい。短時間で終わらされたこともかなり悔しかったのだろう、母がこの時のことを憤慨して話すことは幾度かあった。前は前、今は今と割り切ることが多い母にしては珍しいことだった。
実は高校入試の日にインフルエンザにかかった。午後の英語のテストでは、しばらく気を失っていた。不合格も覚悟したが、奇跡的に滑り込んだ。進学校だったが、珍しく定員割れだったからだろう。その時の成績も含めての進路相談だったので、母には、事前に大学進学は難しいと言われるかもしれないとは話していたが、さすがに先生から笑われるとは思わなかった。
ノイローゼみたい
ずっと後になって、母は当時の私がノイローゼになっているみたいに見えたと話したことがある。母の心配をよそに、私は何度も「大丈夫、何とかする。」と繰り返していたが、クラスに友人と呼べそうな人も作れぬまま、どこか浮いた存在になっていた。成績も振るわず、常に誰かに馬鹿にされるんじゃないかとびくびくしていた気がする。
高1のびくびく感は、これまでの記事でも幾らか感じ取れると思う。
今となれば、高校時代を灰色の時代だと感じていたのは、このびくびく感に起因していたと思う。ただ、それでも自分にできることをやっていたことが功を奏した気はしている。
授業でも、
文化祭でも。
というか、そうするしかなかった感じ。
2年目(高校2年)その2
成績は少し上がってきたものの、希望の大学進学はまだまだ遠い目標でしかなかった。模試での判定はDばかりで、いわゆる滑り止め大学でCといった感じ。(ABCDの4段階判定、Dは不可能に近い意味)そんな中での冒頭の会話だった。
「10年後は、どうしているだろうね。」
「そりゃあ働いてるだろう。20代後半だから、結婚していても不思議じゃない。」
なんて、追及を逃れるための精一杯の防波堤だ。幸いにして友人は、私が夢(大学進学~希望の職に就く)をあきらめたわけではないが、希望が叶うことはかなり難しい状況だと察してくれたようだった。
充実した高校生活とまでは言えないと思うが、自分の居場所、自分らしい立ち居振る舞いができるようになった頃だ。
自作の詰将棋を披露したこともある。
クラスの話し合いで、少数側の意見も臆せず述べたこともある。
同じ自分でも、びくびくしていた高1とは違う感覚があった。
2年の時の面接で、担任の先生は私の成績の位置だけでなく、伸びにも触れてくれた。「このまま頑張れば、高望みしないなら希望大学の合格圏に入る可能性はあります」とやんわり言ってくれた。もしかしたら、遠回しに夢をあきらめる助言だったのかも知れない。それでも、夢の糸の端の端に触れることができたと感じられ、救われた気がした。高校受験の際にも、中学の先生から似た言葉を言われたが、受験して高熱で意識を失いながらも合格できたのだ。
まだ、前を向いていていい。それが嬉しかった。
3年目(高校卒業)
高3になる前に、サッカー部はやめた。いろんな事情はあったが、やはり勉強時間の確保が一番の理由だった。
結果、勉強の時間は増えた。遊びの時間も増えた。緩やかではあったが、学習成績も上がっていった。
模試では、志望大学にCが、滑り止めにBやAがつくことが増えた。冬を迎える頃には、志望大学の本命ではない学科でBがついたこともあった。「高望みしないなら希望大学の合格圏に入る可能性」が現実になった瞬間である。
安心できる圏内ではなかったが、3年時の担任の先生は「不安はあるけれど、志望大学に挑戦するのもあり。」という風に言ってくれた。「三流大学か、就職かの選択」ではなかった。
結果、大丈夫だろうと言われた滑り止め大学を含めて、全部不合格で終わった。今となれば、それが良かったのだとも思う。もし、滑り止めに受かって、そこに行っていたならと思うとぞっとする。
進路は決まらなかったが、笑顔で高校を卒業したことを思い出せたのは、このブログを書いていたおかげだ。
ブログを始める前、高校時代は灰色のイメージだった。
自画自賛ながら、上の記事から一部引用しておく。
(高校時代は)まるで人生の綿埃のようだ。綿埃は一見、灰色である。しかし、その絡まった繊維を細かく見ていくと、そのほとんどは何某かの色を帯びている。遠目にはどう見たって灰色でも、それを作り上げている一つ一つは単純な色ではない。
4年目(予備校時代)
予備校時代も良く学びよく遊んだ。
受験の結果だけを書けば、大学の合格通知は一通も手にすることなく終わっている。二浪はしないと決めていたので、かなり落ち込んだ。ただ、本命の第2志望の学科であれば、定員割れが生じた場合に繰り上げ合格の可能性があるとのことだった。
程なくして、繰り上げ合格の電話が鳴った。もちろん、それを受け入れた。というか、受け入れるしかなかった。
ところが、数日後にまた電話が鳴った。淡々と「先日、繰り上げ合格の話をしたのですが…」と切り出され、まさかの合格取り消しかと心臓が止まりそうになったが、結局、第1志望の学科でも定員割れが生じたので切り替えるかという話だった。もちろん受けた。
今でも、あの時の担当者は、故意にあんな話の切り出し方をしたのだと思っている。おかげで天国から地獄、地獄から天国を数分の間に行き来した。
※(追記:2023年10月24日)
この記憶は後に一部訂正されることになる。詳しくはこちら。
5~8年目(大学時代)
補欠の補欠で入学したが、大学時代は人生で一番順風満帆な時代だったと思っている。パズル雑誌も出せたし、(1度きり)
大学の行事(原爆パネル展など)であれこれ奔走したし、
肝心の学業は、卒業アルバムで卒論についてのインタビューも受けた。それなりの恋愛もあったし、充実感のある4年となった。
ただ、試験に弱いのは相変わらずで、就職試験は不採用。
どうしたものかと思っているところに、大学院受験の話があって、そちらは合格。
9~10年目(大学院)
意気揚々と大学院に入ったものの大学時代とは一転、苦難の時代を迎えた。
毎月の仕送りは無しになったので、お金にも苦労した。家賃等を除いて1日500円で生活しなくてはいけないこともあった。1年程、冷蔵庫のない部屋で自炊した。
学業ではとても無事とは言えないギリギリの成績しか残せずに何とか修了はしたものの、25歳になってまだ就職すら決まっていなかった。
高校入学10年で変わったこと・変わらなかったこと
変わったこと
高校入学から10年で大学院を修了した。住む場所も、友人もずいぶん変わった。でも、失ったわけじゃない。学習や体験、人間関係を積み重ね続けているという点ではずっと変わっていないとも思う。
変わらなかったこと
高校入学から10年たっても就職できないままなのは変わらなかった。試験本番にも弱いままだ。でも、それで何も得られなかったわけではない。高校に入学して毎日びくびく過ごしていた自分、受けた試験の中身、ものの見方考え方、ずいぶんと変わったとも思う。
あれから10年
そう言えば冒頭で、高2(17歳)の時の友人との会話を書いた。10年後を聞かれて
「そりゃあ働いてるだろう。20代後半だから、結婚していても不思議じゃない。」
と答えていたことにも触れておこう。
結果、27歳で結婚はできなかったが、高校時代に望んでいた職に就くことはできた。
25年働いて辞めることになったけれどね。
人生谷あり崖あり。
それでも山を目指したいものです。
これから先とこれまでの道を見るために。
はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと」