tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

特別お題「私がブログにハマる10の理由」

旧ブログと現ブログ

あとひと月ほどで、この高校時代blogを始めて3年になります。

ちなみに1周年の記事がこれ。

こんなことを書いていました。

実は、このブログ開設の前に「tn1984_03s blog」を数ヶ月書いていたのですが、ブログの方向性が曖昧になり一時休止。でも私個人の高校時代のブログは続けたくて、一時的な「tn1984_03s テスト blog」として開始させました。当初は旧ブログを編集して再開するつもりでしたが、こちらの方がすっきりしているので、2019年1月31日にメインブログとしたのです。

どちらも主に高校時代のことを記事にしていたのですが、「tn1984_03s blog」は数カ月しか続かず、「tn198403s 高校時代blog」では3年近く続いています。二つの違いはどこにあったのでしょう。

 

ぼんやりと気になっていたけれど、最近気がつきました。

私は「ブログ」にハマったのではなく、「高校時代blog」にハマった。

そういうことだと思います。

 

えーっと、今さらでアレなんですが、記事のタイトル変えてもいいですか?

「私が高校時代blogにハマる10の理由」

にさせてください。

※ 引用文は、3回連続10cm (id:sankairenzoku10cm)さんの記事より

何だよそれという人も、ここは一つぐっとこらえて読んでいただければと思います。自身のブログに行き詰まりを感じている人には、それを乗り越えるきっかけになるかも知れません。かつて、私もそうだったように。

 

 

先にこちら。

旧ブログにハマれなかった理由

高校時代ネタでブログに書き始めたのは、同窓会の話が出た時に、そういえばどんな高校時代だったっけと思ったのがきっかけでした。

 

「tn1984_03s blog」は、自分の高校時代を中心に、こんなことやあんなことがあったと懐かしむ感じでした。書けるネタはたくさんありました。また、今の高校生のニュースを拾ってきて応援したり、時代は変わったなぁなんて思ったり。

 

でもやがて、物足りなさを感じ始めます。特に現代の高校生について表面的な考察なんて、高校時代の私も「余計なお世話」って思うだろうなと考え至りました。さらに、ブログを書き始めた頃の自分は、高校時代を灰色の時代と思っていたので、灰色の画面を灰色に塗り直すような空しさも感じていました。書けるネタはたくさんあったけれど、もういいかな?という感じになってきたのです。

 

ブログとは

そんな時にブログの意味を再度調べました。もともと「Web log」(ホームページの履歴の意味)から派生した言葉だそうです(諸説あり)。IT用語としての logは、履歴や情報の記録になります。web 上に残る log  。だから、web上に書き残しているなら、ある意味どんなことでもブログでしょう。そんなことにどれだけ意味があるのだろう?もう止めようかとも考えました。

 

ただ、高校時代を新たに問い直すような記事は、何かを得たような感じもあって消すには惜しいと思いました。意味のないブログもあるだろうけれど、意味のあるブログだってあるはず。読者が意味を感じるかどうかはともかく、自分で意味を感じられるブログに挑戦してみたい--。

結果的にはこの思いが、「私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログ」として高校時代blogの基礎になっています。

 

web log から we blog へ。「web 上の記録」から「私たちはblogする」へ。

そんなイメージ。え?余計にわかりづらいですか?

 

では、改めて

私が高校時代blogにハマる10の理由

について。<記事を書くまで>と<記事を書いた後>の二部構成です。

 

<記事を書くまで>

1.二つの視点で観る

いろんなことを、もし高校時代だったなら…と考えるのが習慣になりました。今の視点だけで見ると当たり前のようでも、かつてはそうでなかった。何故、今こうなっているんだろう?これからどうなるんだろう?そう考えるようになると、同じ世界でも違って見えてくるのが面白いです。

 

2.思い出す快感

思い出したことを懐かしむ、または後悔する。これはよくあることです。それを今一度どうしてあの時ああしたのだろう等と検証すると、思い出とは違う新たな記憶の発見に繋がることがあります。それまで霧がかかったような記憶も、色鮮やかにくっきり浮かび上がることもあります。自分の行動の理由や一途さに気づいて、自分を褒めたくなることもあります。

 

もちろん、嫌なことまで思い出すこともあります。でも、それさえも今の自分だからこそ慈しむことができたり、許せたりすることもあります。それをブログ記事にして、それわかる!と言われたときの、孤独からの解放感や救われたような安堵ーー。

高校時代blogを書く中で、何度もそんな感覚を味わえました。

 

映画手帳に残るメモのような日記も、丁寧に読んでいると忘れていた自分、気づかなかった自分を見つける手掛かりになることがあります。

「あぁ、なんだ、お前、ずっとそこにいたんだな。」

文章には表れていなかった自分が、殴り書き文字の裏側にこそっと隠れていたり、何を失敗したのかわからずにいたことが数日前のことだとわかったり。じっくりと自分の過去と向き合って初めて思い出せることは少なくありません。

 

指に刺さった目に見えないくらいに小さな棘。それがすっと抜ける感じ。

耳の奥に入り込んだ水滴がふっと流れて聞こえが良くなる感じ。

それらに似た快感を味わうため、高校時代blogを続けている気がします。

 

3.記憶の目次と中身と事実

記憶は、戸棚に並ぶ本の背表紙に近いイメージがあります。本のタイトルを見て印象に残っていることを思い出す。時には、目次を見て気になるところだけ読む。そんな感じに思えます。

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ブログの本棚

記憶の本棚にある全ての本の全文を読み返す機会は、まずありません。

でも、自分以外に自分の記憶の目次や中身、事実を確かめることはできないでしょう。

それらの一部をブログ記事に書いても、読む人に十分に伝わるかも難しいでしょう。

それでも、記憶を元にブログの本棚にしていくことで、誰かに何かを感じ取ってもらえるなら、無意味に思えた高校時代が少しは意味があったと言えそうな気がするのです。

 

4.記憶が事実と違う

上手くいくことばかりではありません。自分の記憶と手帳に書いてある事実、或いは推察できる事実が全然違うこともあります。何故違っているのだろう?いつもそれが解決するわけでもなく、むしろわからないまま後回し(下書きのまま)になることも多いです。

 

でも、何かの拍子で高校時代blogの記事にできることがあります。ニュースや誰かのブログ記事で思い出すこと、今週のお題で記事にしやすい環境が整う等のチャンスが訪れることもあるからです。

 

事実関係がわからないままでも、今なお謎ですとUPするときもあります。後から、記憶と事実が違うとがわかって訂正したこともあります。それもこれも高校時代blogを書いていたからこその失敗というより成果だと思うのです。

 

5.記憶違いの理由

これがわかるのも、高校時代blogならではの魅力です。結果、残念な記憶違いということもありましたが、今のところ、わからないままの方が良かったと思ったことはありません。

 

気になって調べるのはほとんどがネットの検索からですが、父や兄、友人との話で明らかになることもあります。疑問をネットや周囲の人と共有していたことがわかると、気になっていたのは自分だけではなかったと安堵できます。

 

そんな安堵が積み重なり、私の場合、今後も知らないままの方が良かったと思うことはないのではないか、そんな風にも思います。

 

<記事を書いた後>

6.書いた達成感

記事を更新すれば達成感は得られますが、旧ブログと現ブログの違いを考えてみると、書きたかった内容に近いかどうかで大きな差があったと思います。

 

「書きたいことを書く」という点では同じでも、現ブログでは記事を書いている途中で「書きたかったこと」が明確になる手ごたえがあります。その辺、旧ブログではとりあえず更新した感が強く、現ブログでは一つ何かを得た感が強い理由かも知れません。

 

文章的には圧倒的に現ブログが長いです。書いている途中で、新たにあれこれ思い出したり、調べたくなったりの連続になるからです。長ければいいというのではないですが、書きたいことがどんどん増えていく一方で、どこかを削った方が良いと悩むことも多いです。適当な文字数におさめることは以前からの課題になっています。

 

7.違いや変化が伝わる

一つの記事を書き始めた当初と書き終えた時とで、書きたかったことが違ってくることも多いです。高校時代の感覚と今の感覚の違いや変化に気づくこともあります。

 

また、コメントなどをいただいた時、他の人の考えと、今の自分、高校時代の自分、それぞれの共通点や相違点が見えてくるのも面白いところ。こればかりは、実際に記事にしない限り見えてこないですね。

 

8.読み直して気づくこと

私は書いた記事を読み直すことが多い方だと思います。齢のせいか、書いたことを忘れてしまうこと、間違って記憶していることが増えました。

 

高校時代のメモ書きと同じで、読み直して初めて気づくこともあります。それは、時によって、記事の内容をより深めたものであったり、疑問が浮かび上がったり、あらためて書いたことに感動したり、自己陶酔してたのか?と思うほど思いあがった表現だったり、酔っていたのかと稚拙な表現であったり…。

 

まあ、それもこれも50代半ばのはみ出し者の感性だと思うことにしています。

 

9.書き直すより次を書きたい

読んで赤面するような記事もあります。もう少し書き方を工夫すればいいのにと愚痴を言いたくなるような記事もあります。書きたかったことがあまりかけていないと不満に思うこともあります。

 

間違いの訂正、新たに知ったことの加筆などはしますが、今のところ、一度もリライトはしたことがありません。

 

「書き直すより次のことを書きたい」気持ちが強いです。当初からこのblogで書こうと思っていたことも書けないままの物もまだまだあります。でも、他のブログやニュース等で書きたいと思うことも次々出てきて、何だか嬉しい悲鳴状態。

 

きっと、今は「書きたいこと」の思いや量が適度になっていて、書くプレッシャーと書いて得られるリラックスのバランスが良いんだと思います。時折に1週間を超えてサボったり、意欲のチャージをしたり、リアルの忙しさに身動きできなくなることもありますが、モチベーションの維持はできている感じです。

 

10.記憶していない記憶

記憶していない記憶にどれだけの意味があるかはわかりません。意味がないから忘れていることがかなり多いはずです。

 

でも、いい意味でも悪い意味でも全力で駆け抜けた高校時代。あの時は意味を見出せなかったけれど、今思い出してブログにする過程で、決して無意味なわけではなかったと思うことも多いです。

 

高校時代blogでそれを全部拾い上げるのは無理でしょう。でも以前、灰色に思えた高校時代は、今や金山のようにお宝が埋まっている時代に思えます。そこに眠る金の全部を掘りつくせなくてもいいのです。例えば、手軽に川砂利をざっくり拾い集めて、皿の上で少しずつ余分な物を選っていく内に見つけた小さい金の一粒。

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見つけた小さい金の一粒

値段にすれば千円にもならないような一粒でも、私が高校時代に残した一粒だと思えば、これから先の長い人生を変える価値もありそうに思います。

 

私にとって高校時代blogは、そんな輝きを追い求めたくなる場所です。そんなブログにできたのも、はてなブログの場があり、読んでいただける人がいればこそ。

 

はてなブログ10周年、おめでとうございます。

そしてこの場の提供、ありがとうございます。

そこに集う人にも感謝です。

今後もよろしくお願いします。

 

 

はてなブログ10周年特別お題「私が◯◯にハマる10の理由