tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

お茶と水と清涼飲料水。そしてペットボトル(1)

清涼飲料水って何?

「清涼飲料水」を度々、誤解していました。

 

この言葉は、小学校の家庭科の授業で知りました。最初、店や自動販売機で売られているジュースやコーヒー等の清涼飲料水には、砂糖がたくさん含まれている、色のついたジュースには着色料が多く含まれている等を習い、どこか怖い飲み物として記憶しています。それでも、しばらくするとまた飲むようにはなりました。

 

※この記事は『tn40.ネタ帳20210115 5つの話題宣言』の中の「3.ウーロン茶や水など無糖飲料の話」に当たる記事です。

 

 

ただ「セイリョウインリョウスイ」の言葉は何か怖い呪文の様にも聞こえて、よくわからずにいました。炭酸飲料は、シュワ~~と弾ける炭酸をそのまま飲んで、スカッとする清涼感があるから「清涼」飲料水だと聞いた気もします。コーラの王冠などにも「炭酸飲料」と書かれていましたが、炭酸と書いてある方が売れるからそう書いてあるんだろうと思っていました。当時よく飲んでいたUCCコーヒーはミルクがたくさん使われているから乳飲料で、ミルクが少なければコーヒー飲料。そんな印象でした。

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コカ・コーラの王冠、UCCコーヒーの表示

とにかく、高校の頃までは清涼飲料水なんて名前は漠然としてわかりにくく、嫌われそうな名前だから、多くの飲み物が清涼飲料水ということを隠している。少しでも売れやすくするために、炭酸飲料、コーヒー飲料など勝手に名前をつけているのだと思っていました。

 

ポカリスエットの登場

ところが、そんなイメージをポカリスエットが完全に覆しました。「清涼飲料水」と、はっきり書いて売り出された商品を初めて見たと思います。単にそれまで気づけなかっただけかも知れません。軽く衝撃を受けた私は、何人かの友だちにそのことを話ましたが誰も気に留めてくれませんでした。それでも私のイメージの中で、ポカリスエット前と後では販売する飲料水の歴史が変わったような気がしたものです。発売は1980年でした。

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清涼飲料水 ポカリスエット

何故、一部で怖い飲料と思われていた「清涼飲料水」の名を使ったのでしょう。勝手な想像で、いろんな成分を含みつつも「水」を売るというのを明確にしたのだと思っていました。ジュースやコーヒーのように味を楽しむのではなく、ゴクゴク飲める水であることが大事なのだと。

 

今回、下調べしたところ、飲む点滴液という発想からだと知りました。

pocarisweat.jp

私の発想と違っていたのは少し残念ですが、汗をかいた後の水分補給というコンセプトの下で売り出されたのですから「水」へのこだわりはあったと自己弁護しておきます。

 

当時は、炭酸の泡の無い透明感がとても新鮮に思えました。スプライトの炭酸抜きなんて揶揄も耳にしましたが、全然違うと思いました。甘味があるのは共通するものの、炭酸が無いのでゴクゴクと一気に飲めること、疲れた体がすぐ水分を吸収できている気がすること、そんな実感もあって、たくさん汗をかいたときにはぴったりの飲み物というイメージでした。

 

「イオン飲料、アルカリ性」の言葉もありますが、「清涼飲料水」の補足説明をしているイメージです。他の自販機の飲み物が100円だった時代。ちょっと高い値段設定だったものの、自転車で遠乗りをしたとき、サッカークラブの帰り等、汗をかいて疲労感の強い時に奮発して買った記憶があります。ただ、ポカリスエットの自販機をあまり見かけなかったことも記憶に残っています。

 

後に、アクエリアスが登場し価格競争もあって苦戦しますが、個人的にはポカリスエットが開拓した市場を、アクエリアスが低価格にして露骨に奪いに来たイメージでした。でも、アクエリアスの方が自販機も多かったですからね。買うこともよくありました。

 

お茶系無糖飲料の広がり

烏龍茶の登場

私の中では、水分補給用のポカリスエット(糖分入り)が先にあって、その後にアルコールの飲めない人用に烏龍茶(無糖)が登場したというイメージでいましたが、今回、下調べをしていて烏龍茶がポカリスエットより早い1979年の販売だったと初めて知りました。ただし、缶入り飲料の販売は1980年です。

 

bnl.media

上のサイトに、伊藤園が烏龍茶を販売する経緯が詳しく書かれています。

当時(1979年)はまだ、日本で烏龍茶を飲んだことのある人は稀だった。幸運にも、いち早く味わうことができた八郎(伊藤園の創業者)は、この中国茶に大きな可能性を見出し、茶葉を買い取る契約を交わしたことによって、その後、日本全国に烏龍茶が広まっていくことにつながるのだ。

でも、なかなか思うようには売れませんでした。そんなとき、

当時人気絶頂だったデュオアイドル、ピンク・レディーのふたりが「私たちは烏龍茶を飲んで痩せました」「毎日、烏龍茶を10杯ぐらい飲んでいます」とテレビで発言したことがきっかけとなり、爆発的なヒット商品に生まれ変わったのだ。

とのことです。ピンクレディーのテレビ発言の記憶はありませんが、烏龍茶の名称は広く伝わったと言えそうです。

 

この後、新市場に乗り込むため、各社からいろんな烏龍茶が販売されました。しかし、味に劣る製品も多く、また、新たに市場開拓されたときには、しばらくすると消費者に飽きられるというジンクスもあったのでしょう、烏龍茶全体としてのの売れ行きは一時下がります。

 

そんな中、

1980年に「缶入りウーロン茶」の商品化に成功すると、ウイスキーをウーロン茶で割った「ウーロン茶割り」が居酒屋で流行り、あらゆる場所に烏龍茶が浸透していく。烏龍茶を置いていない飲食店の方が珍しいくらいに、大ヒットを記録する。

味の良さを保ちつつ、缶入り烏龍茶飲料が販売(伊藤園サントリー)され、幾らかの紆余曲折はあれど地道な成長を続け、1984年(昭和59年)に第二次ブームが起きます。淹れる手間が省かれ、缶を買って蓋を開ければすぐ飲めるスタイルが確立し、烏龍茶は缶飲料の定番入りを果たしたのです。

 

当時、水やお茶は無料のサービスという認識でした。お金を払ってまで飲むものではなかったです。店としても、無料のお茶を頻繁に出しても利益は上がらないし、損益になると思われてもおかしくありません。ところが、烏龍茶なら利益になります。そこにピタリはまったのでしょう。私が成人する頃(1985年)には、飲み屋で「お酒が飲めないなら烏龍茶」みたいな雰囲気がありました。お酒があまり強くない私は、飲み会の後半になると、休憩と言って烏龍茶を頼んでいたものです。

 

缶入り無糖飲料の台頭、飲むスタイルの変化

烏龍茶は無糖飲料として爆発的に売れた最初の缶入り飲料ではないでしょうか。無糖飲料という新しい市場の開拓に繋げたのも功績だと思います。もちろん、缶入り烏龍茶以降も、缶飲料やジュースと言えば甘いものとの常識は長らく続きますが、じわりじわりと無糖飲料の売り上げは伸びていきました。後の、お茶やミネラルウォーター、ブラックコーヒー、無糖紅茶等、消費者が受け入れやすい素地を作ったと言えるでしょう。

 

また、缶入り烏龍茶は、お茶を飲むスタイルの新たな潮流を生み出します。

かつて、お茶を「買う」という発想は、極限定的で、せいぜい弁当と一緒に買う程度だのものでした。小6の修学旅行で、船に乗った時、弁当とポリ容器に入ったお茶が配られたのを憶えています。また高校時代の受験旅行の際も駅弁とセットで買いました。こんな商品です。

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駅弁と一緒に買っていたお茶

ポリ容器入り。お茶のパック(イラストには描けていません)が沈めてあって、お茶を飲む時は蓋を湯呑代わりに飲むという感じでした。温かく淹れたて感もたっぷりでした。修学旅行の時、蓋を使わず容器を口に当てて飲もうとすると、「急須の口からお茶を飲むのおかしいだろう。」と先生に注意されたことを憶えています。

 

当時は水筒もキャップをコップ代わりにして飲むことが多く、口に当ててそのまま飲むのは口飲みと言われ、マナー違反とされました。でも、西部劇などでよく見かける湯たんぽを小さくしたような金属の水筒は、キャップが小さいから口飲みOKでした。小学校高学年の時に、その水筒を買ってもらった記憶もあります。

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口飲みがOKだった水筒

あ、キャップが落ちないように鎖でつながれていたのを描き忘れました。

こうした、キャップを湯呑代わりにするという習慣も缶入りのお茶が覆したと思います。ポカリスエットはジュースの延長で缶で飲むことに違和感がなかったのに、烏龍茶やお茶を缶で飲むことにやや違和感があったのは、そのせいでしょう。でも、ほんのわずかな間の話で、すぐ気にならなくなりました。

 

缶入りお茶の登場

1980年に缶入りの烏龍茶が発売されても、缶入りの緑茶はしばらく発売されませんでした。私見ですが、主な理由は二つあったと思います。

  • それまで日本人にあまり馴染みのなかった烏龍茶と違って、お茶は嗜好品として生活に密着していたため、味や香り、色などの好みが多様で、販売に適した缶入りお茶の味の開発が難しかった。
  • 缶入りお茶をそのまま飲む習慣が無かった。急須やティーパックなどで淹れたてのお茶が強く好まれたこともあり、酸化などを防ぐ新たな製法を開発する必要があった。

1985年に缶入りの緑茶がサンガリアから発売できたのも、缶入り烏龍茶がブームになった後だったことと関係していそうです。同時期に伊藤園から缶入りの煎茶も販売されました。日本人の生活により密着したお茶の市場に、缶入り飲料のお茶が参入できるかどうかは新たな挑戦だったに違いありません。先述の二つの問題、味の開発、酸化防止をクリアしての登場でした。

 

缶入りお茶の功績

(1)お茶の消費拡大

ここで見逃せないのは、1975年~1985年頃、日本茶の生産量・消費量ともに減少にあったことです。

図録▽お茶の生産消費・輸出入の長期推移(1868年〜)

からグラフ(赤印は私による)を引用します。

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お茶の生産量・消費量グラフ

そう言えば、中学・高校時代にサッカークラブで試合があった時、弁当持参でしたが、お茶の代わりに炭酸飲料を自販機で買って飲んでいたことがあります。(だからと言って、日本全体の消費量に影響するわけではないです。)家で友人と将棋を指す時によく飲んだのはUCC缶コーヒーでした。(だからと言って、以下同文。)友人宅に行った時に出してくれるのもカップに入れたコーヒーが多かったです。(以下同文。)でも、私個人だけでなく「お茶を淹れて飲む」ということが減っていたと言われても納得してしまうほどだったと思います。

 

ところが、缶入りお茶が出回り始めた1985年のタイミングで、お茶の消費が上向きます。このことから、日本人がお茶を飲まなくなったとか、嫌いになったとかではなく、おそらく、他の飲料が販売量を増やす中、手軽に飲めなかったことがお茶の消費を減少させていたと言えそうです。好き嫌いだけでなく、手軽さにも価値が求められた時代になったとも言えるでしょう。

 

残念ながら、グラフからは缶入りお茶が日本のお茶の生産に寄与したという風には見えません。輸入量の拡大とお茶の消費が連動しているように見えます。それでも、缶入りお茶が日本人のお茶離れを食止めたという功績は認めて良いでしょう。

 

2003年ごろになると、日本の缶やペットボトルのお茶飲料の原料は国産茶が中心となり、一度は国内のお茶の生産は上向き、輸入のお茶は減少しました。お茶飲料に手軽さだけでなく味が求められるようになった証と言えそうです。にもかかわらず、その後、お茶の消費、国内のお茶生産、輸入茶のどれもが下降線を描き、日本からの輸出のみ微増していきます。なぜでしょうか。

 

実は、お茶の消費や生産、輸入茶の減少には、ミネラルウォーターの市場拡大が影響しています。それまで水とお茶が競合関係になると考える人は少なかったでしょう。でも、生活を振り返れば、水とお茶を一緒に飲むというシーンはあまりないですから、当然の帰結とも言えます。

 

一方、輸出茶の微増は、このころ世界を駆け巡った日本食ブームの影響です。

ブームによって売れ行きが大きく変わる飲料業界。日本茶離れを食い止めたお茶飲料でしたが、日本人の水回帰の流れは簡単には止められなかったようです。

 

(長くなったので、次回につづく)

 

今週のお題「好きなお茶」

 

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<余談 好きなお茶飲料の銘柄>

 

今週のお題(何週間前のお題?下書きを始めた時期がわかってしまいそう…)が「好きなお茶」なので、ペットボトルのお茶について少し書いておきます。

 

記憶にある最初の定番となったのは「十六茶」でした。1993年に発売され日本茶飲料のブームが定着した頃だったと思います。小林聡美のCMが好きだったから選んだのかも。でも、当時は缶入りか紙パックで買うのが多かったです。し1.5Lサイズはなかなか飲み切れず、500mlサイズのペットボトルの普及はもうしばらく後のことでした。(詳細は次回、続きの記事で)

 

続いて「爽健美茶」にも興味を持ちます。十六茶の原料のお茶が覚えきれず、「はとむぎ 玄米 月見草 爽健美茶。 どくだみ はぶ茶 プーアール 爽健美茶。」のCMソングに乗せられてしまいました。この頃は「十六茶」と五分五分という感じで選んでいました。

 

でも、爽健美茶十六茶で憶えていた原料「たんぽぽ」CMソングにないのが不満で、一方で、十六茶でせっかく覚えた「月見草」が使われていないのが不満で、いろんな種類のブレンド茶に興醒めしてしてしまいました。

 

その後、伊藤園「玄米茶」にはまります。子どもの頃に飲んだ香りにつられました。でも、いつもいつも玄米茶なのは何か違うと思い、飽きがきました。そして、国内産茶葉原料を前面に押し出したとしたサントリー伊右衛門」へ移行。美味しいお茶へに憧れを見事に体現してくれた気がして、一時は他のメーカーを避ける程でした。

 

でも、やがて「伊右衛門」上品さがどうにも気になってきて、常に飲むお茶としてはどうかと疑問を持つに至り、再び伊藤園に。そんな経緯で現在の定番は「お~いお茶」(普段は緑茶、時折に濃い茶)に落ち着いています。

 

こう振り返ってみると、その時その時、自分で選んだつもりのお茶も、かなり世のブームに左右されていたと再認識した次第です。

 

(意外に長くなりました。)