tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn54.(訂)「平和を知らない子供たち」でいいですか? 平和と沈黙(2021)

 1951年、14歳で母に会う

誕生日の度、生まれた1965年から時代を逆に生きていたらと考えるようになって、ある時、母や父に会えないだろうかと思いました。同じ年齢になった時にだけ会えるというルールを決めてイメージしました。ちなみに母は1937年(昭和12年)生まれです。盧溝橋事件から日中戦争が中国全土に広がっていく頃でした。

 

計算してみると、1951年に母が14歳、私も時代を逆に進んで14歳で会えるようです。14歳と言えば、中学の卒業を控えその後の進路を考える頃。もちろん、実際に会えるわけではなく、イメージを深めるための手段です。

 

 この記事は前回の続きです。

tn53.「終戦直後を知らない子供たち」でいいですか? 平和と沈黙(2021)

 

記事の大きな訂正(2021.8.28追記)

この前、父と話していて、私の記憶違いが判明しました。

------------------------------------------------

母の中学時代の話(訂正分)

母の高校進学は、父(私の祖父)に反対されて行けなかったと記憶していたのですが、父は高校進学を勧めていたのに、母は友達も進学しないからという理由で進学しなかったようです。

「女が進学なんて」と考えていたのも「借金をしてまで行きたくなかった」のも、母自身がそう思っていたのでしょう。

 

また、父に厳しく育てられ学校より家の仕事優先だったのは、母(私の祖母)が体調がよくなかったため人手が足らず、むしろ自分から手伝っていたのだと聞きました。当時は心配した学校の先生が仕事をしている母のところまできて、作業のキリの良いところで学校に来るように声をかけていたそうです。

 

後に妹が進学したのを見て「父の言う通り、進学していればよかった」とずっと後悔していたようだと、私の父が教えてくれました。

 

※私の記憶違いの証を残すため、記憶違いの部分をうすい灰色文字に替えました。

 

-----------------------------------------------

母の中学時代の話(訂正前)

幾らかの母の中学時代の話を憶えています。

中学校の成績が結構良く、高校に進学することを学校の先生から勧められたそうです。そこで高校に行きたいと父(私の祖父)に話したものの相手にされず、学校の先生と一緒に話をしても受け入れてもらえなかったという話でした。当時は、田舎の農家の娘が高校に行くなんて話は珍しく、教育費用を出すこともできないし、そもそも女に進学の必要はないと言われたそうです。

 

母は祖父に厳しく育てられたと聞きます。農繁期(田植えや稲刈りなど農作業の忙しい時期)は、学校より家の仕事優先。日曜日も休みなく働かされていました。ただ、それだけに、祖父に褒められたことや、優しさを感じた時は印象に残っているのだとか。何かの時に祖父が迎えに来てくれたのは忘れられないと言っていました。

 

うっすらと、母の高校進学のためにお金は借りられるし、働くようになって返せばいいという話もあったように憶えていますが、借金に強い拒絶感を持っていた父は受け入れてくれませんでした。その後、同級生で進学した子を見て、羨ましさと悔しさを感じたと言ってました。

 

今、思い出してみれば、母の成績は結構良いという程度じゃなくて、かなり良かったんじゃないか、それで奨学金制度の話まで出たんじゃないかなんて思いますが、祖父も母も既に亡くなっており、確かめようはありません。

 

1980年、私が中学3年の時に、志望高校の合格は厳しいと先生から言われました。どうしたものかと思案していた時に、母が「行きたい高校をあきらめると後で強く後悔する」と話してくれたのを憶えています。当時は、母が14歳だった時の事情なんて知らずにいましたが、あの戦争前後のことを考える内、戦後6年に母が見た夢とその理由が少しわかった気がします。

  

「平和を知らない子供たち」

日本国憲法の発布まで

下記リンクの「兵事係・平澤善吉の日記」で1945年8月15日の玉音放送から1946年11月3日に日本国憲法が発布(施行は翌年5月)されるまで村の記録を見ると、この間の出来事がよくわかります。

www.nhk.or.jp

 戦争の深い傷跡を残した南向村の戦後がつぶさに綴られているのが、村の兵事係・平澤善吉(大正元年生まれ)の日記。家々に召集令状を届けるなど、戦争遂行に深く関わった平澤善吉は、敗戦の知らせに大きな衝撃を受けながら、その後に起きた村の出来事を日記に書きとめ続けた。戦前・戦後を通じて農村の変化を記した一級の資料。

とのこと。ページでは短文にまとめられていて、当時の様子がわかりやすいです。

 

個人的には、日本国憲法が決まってから、日本は初めて平和への道を歩み始めたと思っています。

 

『あたらしい憲法のはなし』

新しい日本国憲法は平和の象徴です。当初、日本は懇切丁寧に広くこれを知らしめました。当時の文部省は、1947年8月2日に新制中学校1年生用社会科の教科書『あたらしい憲法のはなし』を発行します。憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行されて、3カ月で教科書を発行したのです。このスピード感にも、日本国憲法への思いが表れているように思います。

f:id:tn198403s:20210818124425p:plain

文部省 『あたらしい憲法のはなし』 表紙と扉絵

『あたらしい憲法のはなし』の存在を知ったのは高校時代でしたが、具体的な中身を知ったのは大学に入ってからです。ここでは「六 戰爭の放棄」の文章を引用します。

 

六 戰爭の放棄

 みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとう/\おかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろ/\考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。

f:id:tn198403s:20210816172444p:plain

戦争の放棄 挿絵

 そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
 もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
 みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。

 

前半の戦災に遭った子どもに親身に語りかけるような文章が好きです。戦争で大きく傷ついた心を包む優しい文章です。

挿絵は軍艦や戦車、爆弾などの武器を大きな炉に溶かし込み、列車や船、車が生産される様子を描いています。戦争放棄が平和と繁栄に繋がるという意味でしょう。

後半の「戰力の放棄」についても端的でわかりやすいです。中でも「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」の文章が、子どもの心を力強く支えたのではないでしょうか。

 

『あたらしい憲法のはなし』の著作権は旧文部省にありますが、保護期限を過ぎパブリックドメインとなっているため、引用などに制限はありません。青空文庫でも全文が挿絵つきで公開されています。

www.aozora.gr.jp

ここでの平和主義の考え方は、シンプルでスマートに理想となる平和を描いています。しかし、この教科書は1950年に副読本にされ、1951年から使われなくなりました。朝鮮戦争を期に米国の方針が変わり、日本の再軍備が進められるようになったからです。

 

 母と平和

 母と直接、憲法や人権の話をした記憶はありません。話しかけたことはあるのですが、「さあ」とか「どうだろうね」とか、曖昧な返事ばかりでした。どこかで聞きかじったような話をしたがる父とは対象的でした。

 

両親が選挙の投票に行くとき、母は、誰に投票するかについて「言わない」、「自分で決める」と言っていました。父の手前、政治についてあまり話さなかったのかも知れません。一方で「昔は女の人がもっとたくさん当選していた」と言っていたのを憶えています。きっと1946年(昭和21年)の衆議院選挙のことでしょう。母がまだ小学生の頃のことを、その当時に記憶したのか、後に知ったのか、どちらにせよ、世の動きに関心を寄せていたのだろうと思います。

 

以前、こんな記事で

田中角栄が書いた『自伝 わたくしの少年時代』という本を、父から渡されたのが小学2年か3年の時でした。

と書きましたが、先日久しぶりにこの本の話を父にすると、母が買って来た本だと言ってました。でも、どうにも嘘っぽいです。誰だったかの後援会の名簿に父が勝手に家族の名前を書き、全員で入会したことになってしまい、父と母が大げんかになったような記憶があります。投票については自分で決めると言い、誰に投票するかを言わなかった母が、私に田中角栄の本を勧めてくるとは考えづらいです。

 

ただ 一度だけ、母が応援している陣営を話したことがあります。土井たか子さんを先頭にマドンナ旋風が起きた頃のことです。「女が進学なんて」、「女が政治なんて」と言われた時代を黙って生きた母でした。保育園児だった私が言った「女って損やね」の返事を、私が高校生になってから聞くほどに寡黙な母でした。 長い共働き生活の中で、きっといろんなことを思っただろうと思います。

 

戦争のあった時代に比べれば、母の生きた時代は平和だったと言えるでしょう。でも母の苦労や我慢を思えば、簡単に平和だったと言っていいのか疑問は残ります。

 

母と『あたらしい憲法のはなし』

ここからは勝手な想像ですが、母は中学時代、『あたらしい憲法のはなし』に感銘を受けたのではないでしょうか。母が中学になったのは1949年のはず。1950年に副読本にされる前ですから、特に丁寧に教えてもらったのだと思います。

 

「七 基本的人権」の項にこんな件があります。

またわれわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。

また「八 國会」に項にはこうあります。

とにかく男女人種の区別もなく、宗教や財産の上の区別もなく、みんながひとしく選挙権をもっているのです。

今回、記事作成の為に読み直していて気がつき、涙が出そうになりました。母は教科書で学んでいたからこそ、進学できなかったを選ばなかったことや、父に投票先を指示されたことが悔しかったのではないでしょうか。

 

そう言えば、兄弟間のことで「平等じゃない」と言った時、母はよく怒ったように反論しました。兄には小・中・高で三台の自転車を買っていました。私は小学校の時に自転車が壊れて、ママチャリに買い替えたから、中学校はその自転車を使い、高校になってから新しく良い物を買って合計で三台という話でした。

上の記事では

実は、中学校に入学した時、親と約束をしていました。

と書きましたが、中学入学前、兄には自転車を買ったのに私に買ってくれないのは平等じゃないと文句を言ったのを思い出しました。結局、母の説明に納得して約束したのでした。高校生になった兄にステレオを買っていたから、私にも買ってくれたのでしょう。きっと「平等」を意識していたのだと思います。

 

「積極的平和主義」

全国戦没者追悼式の総理大臣式辞の話です。令和2年(2020年)の安倍総理の式辞で突然復活した「積極的平和主義」なる言葉。令和元年にはなかった言葉です。ずっと気になっていましたが、今年の菅総理の式辞にも登場しました。

 

今回の記事タイトルはここに理由があります。大学時代に私も「積極的平和主義」なる言葉を使ったことがあります。個人的な見解で、「何もせずに平和になるのを待つ」のが「消極的平和」、「平和を実現するために行動する」のが「積極的平和」として、大学で原爆パネル展の企画等に積極的に参加したのです。平和学的、政治学的な根拠も調べずに使っていました。

終戦70周年談話

2015年の終戦70周年に安倍談話がありました。その中でこういう件があります。

満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。

(中略)

私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。

まず、あの侵略戦争を挑戦だと言うのかと驚きました。国際的にも注目されていた談話でのこの表現は滑稽な言葉遊びにしか思えませんでした。さらに、「積極的平和主義」の言葉もありましたが、この時はまだ、「挑戦」同様の言葉遊び、また私と同様の個人的見解という風に感じていました。

 

ただ、彼には従軍慰安婦問題で、強要があったと認めつつ「いわゆる(官憲が家に押し入って行って、人さらいのごとく連れていく)強制連行は無かった」と言って「従軍慰安婦問題は捏造」論の下地を作った経緯もあります。今後、どう使われていくのかと気にはなっていました。

戦没者追悼式の式辞

去年の戦没者追悼式で、それまでの式辞では使われなかった「積極的平和主義」が入り込みます。

戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えながら、世界が直面している様々な課題の解決に、これまで以上に役割を果たす決意です。

ただ、国会答弁でも「募っているけど募集はしていない」と言うほど自己解釈が好きな人ですから、また言葉遊びかと、怒りとともに呆れるばかりでした。

 

ところが、今年の終戦記念日にも菅首相

戦争の惨禍を二度と繰り返さない、この信念をこれからも貫いてまいります。わが国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面するさまざまな課題の解決に、全力で取り組んでまいります。

と、踏襲しているのを聞いて、ようやく国の方針として「積極的平和主義」が組み込まれていると知ったのです。「従軍慰安婦」と同様、いつのまにか下地を固めていたことに気づきます。

安倍内閣から用いられている「積極的平和主義」

積極的平和主義 - Wikipedia によると、1977年から使われていた言葉のようです。「何々をしない、という受動的、消極的な平和主義」から、「国際の安定と平和の創出のために何かするという、能動的、積極的平和主義」への転換を主張していました。

しかし、第2次安倍内閣時代から度々用いられている「積極的平和主義」はそれとも少し違っているようです。具体的な内容は「国家安全保障戦略」(PDF/422KB)に明示されています。

 

そこでは、「国際協調主義に基づく積極的平和主義を我が国の国家安全保障の基本理念」とするとし、3つの目標が掲げられています。その第1の目標が、

我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために、必要な抑止力を強化し、我が国に直接脅威が及ぶことを防止するとともに、万が一脅威が及ぶ場合には、これを排除し、かつ被害を最小化することである。

です。「必要な抑止力」がいわゆる防衛力、他国から見れば軍事力です。その一方、別の個所では

我が国は、戦後一貫して平和国家としての道を歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず非核三原則を守るとの基本方針を堅持してきた。

とも記されています。「必要な抑止力を強化し」ながら、「脅威を与えるような軍事大国とはならず」とは、かなり微妙な境界線です。「脅威」にならないものが「抑止」になるのか?との疑問も付きまといます。また、どの視点から「脅威」を判断するかでも大きく違ってきます。

イージスアショア計画

 2017年に秋田県秋田市新屋町にある自衛隊演習場にイージスアショア(Aegis Ashore)と呼ばれる弾道ミサイル防衛システムの配備計画が示され準備を進めていましたが、山口県の計画と合わせて、2020年6月に白紙撤回されました。

当初は北朝鮮の実験ミサイル乱発の脅威への対応するための配備でしたが、この計画では、別の「脅威」も見え隠れしました。

 

秋田市の配備計画はJR秋田駅からわずか6kmの場所でした。市民生活のすぐ近くでの配備は、敵からの攻撃目標にもなるため避けることが多いのですが、それも止む無しとの判断されたのです。市民の生活より防衛が優先される「脅威」を感じた人も多かったでしょう。反対運動も強まりました。

 

また、付近の他の候補地では、レーダーが出す電波を遮る山の仰角を調べて、不適と判断していました。しかしこのデータには大きな誤りがありました。地図の縮尺を誤った計算ミスというのです。初歩の初歩のミスです。さすがに驚きました。自衛隊で調査の杜撰さがあったというのは、ある意味「脅威」です。候補地に適当とされた秋田市で、市街地に近すぎる不適要素の見落としがあったのではないかとも思えてきます。 

f:id:tn198403s:20210822223143p:plain

地上イージスアショア調査の誤りの例(イメージ)

※画像は東京新聞防衛省、縮尺異なる地図で計算 地上イージス調査ミス」のスクリーンショット

 

さらに、白紙撤回の理由が、反対世論や調査ミスには言及せず、「迎撃ミサイルのブースターを演習場敷地内に落とす」ことがシステム的、予算的に困難であったからとされました。

f:id:tn198403s:20210822144023j:plain

地対空誘導弾ナイキJのブースター部分(写真は wikipedia より)

どの程度の困難なのかは不明ですが、当初から十分に練られた計画だったのか疑問が生じるのも「脅威」です。また、戦時中の大本営発表のごとく、都合の悪い事実は隠したままに別の説明をする姿勢からきているものなら、さらに次元の違う「脅威」に思えます。

 

それともーー。

「国家安全保障戦略」にある通り、他国にさえ脅威を与えなければ、自国民に脅威を与えるのは問題なしと考えているのではないか。そんな風にも思えてきます。

ヨハン・ガルトゥングの積極的平和(Positive Peace)

ヨハン・ガルトゥング博士が1958年に提唱した概念にPositive Peace(積極的平和)があります。貧困・差別・搾取・抑圧など、紛争や戦争の原因になるもの(構造的暴力)を「積極的」に排除することと定義されています。

 

国際的な概念から言えば、安倍内閣が提唱した「積極的平和主義」(Proactive Contribution to Peace)は、ヨハン・ガルトゥングの積極的平和(Positive Peace)と逆の立場です。また、「積極的平和主義」は軍事的均衡で単に戦争のない状態を維持するだけの「消極的平和」に近いとの指摘や、「戦争は平和である」式のダブル・シンク(二重思考)との指摘もあります。

提唱者ヨハン・ガルトゥング自身 「私が1958年に考えだした『積極的平和(ポジティブピース)』の盗用で、本来の意味とは真逆だ」と主張しています。

 

世界の「積極的平和」の流れには耳を傾けず、独自の「積極的平和主義」を声高に主張する姿勢は、安倍首相自身が戦後70周年談話で触れた国際秩序への挑戦者として、再び戦争に突き進む始まりなのではないか、そう思えて怖くなります。

 

 「平和を知らない子ども」

もう一度『あたらしい憲法のはなし』を引用させてください。

こんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。

 この理想が難しいことは誰もが感じていることと思います。それでも、

日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。

として、理想を掲げたのです。ただ、現実的にはなかなかそうはいきません。アメリカも方針転換して、日本に武力の保持を要求してきました。当初警察予備隊だったものが保安隊、そして自衛隊へとなっていきました。

防衛費1%枠

それでも、長年、専守防衛を守り、ぎりぎりのぎりぎりまで、戦闘への不参加を続けてきました。他国からすれば軍事費にあたる防衛費も、1976年に三木内閣がGNP1%枠を設定して、歯止めをかけました。1986年に中曽根内閣が撤廃を决めた直後こそ、1987年度から3年度連続でGNP比1%を超えましたが、その数値は1.004%、1.013%、1.006%と僅かな超過にとどまっています。その後はリーマン・ショックの影響が大きかった2010年度を除き、GDP1%未満を維持しています。 

https://article-image-ix.nikkei.com/https%3A%2F%2Fimgix-proxy.n8s.jp%2FDSXZQO0628387021052021000000-1.jpg?w=638&h=395&auto=format%2Ccompress&ch=Width%2CDPR&q=45&fit=crop&bg=FFFFFF&ixlib=js-1.4.1&s=62ffe2ecdb18f5d4414d52225e044367

※ グラフは日経新聞(2021年5月20日

防衛費とは 歴代内閣はGDP比ほぼ1%以内に」より

 

憲法に防衛費1%が明記されているわけでも、法律があるわけでもありません。それでも「防衛」しながら「脅威」を与えない具体的な数値として認識されているのだと思います。防衛費1%枠を守っても、理想の平和には及ばず、軍事費は世界9位の多さですが、それでも防衛費1%枠は大きな意味を持っていると思います。

news.yahoo.co.jp

によれば、軍事費の上位10国の内、対GDP比が一番低いのは日本になっています。胸張って大声で言えるかどうかは微妙ながら、平和憲法の効果とみることは可能だと思います。

 

21世紀に入って、中国や韓国や北朝鮮との関係は冷え込みました。以前にはなかった「脅威」も感じます。そうした中でも、防衛費1%を維持していることはヨハン・ガルトゥング博士が提唱したPositive Peace(積極的平和)にあたると思います。紛争や戦争の原因になるもの(構造的暴力)を「積極的」に排除することに思えるからです。近隣諸国に「脅威」を感じつつも、日本の軍事力が新たな脅威とならぬように抑え続けることは、完全な排除ではなくても「積極的」な排除と言えると思うのです。

 

完全な武力の放棄でなくとも、仮に1%枠が他の国にも広がれば、ある程度の構造的暴力の排除にはつながるはずです。目指すべきは「脅威」の排除ではなく、構造的暴力の排除です。構造的暴力の排除が「脅威」の排除に繋がるのです。その意味で、「日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。」と新しい憲法が掲げた理想は、今なお受け継がれていると思います。

 

ただし、油断はできません。安倍内閣の提唱した「積極的平和主義」は武力による武力の排除を示唆しています。これは構造的暴力の拡大再生産でしかありません。この方向に積極的に挑戦して、世界中が悲劇を見たのが先の大戦ではなかったでしょうか。

理想を放棄してはいけない

武力の放棄という理想にはほど遠い現状でも、理想の放棄は見逃せないです。

平和の中にこそ、母が望んだであろう、誰もが進学できて、誰もが政治に参加できる社会があるのだと思います。それは恐らく誰もが持つ願いだと思います。

 

武力による武力の排除の旗の下では、その国の平和も民主主義も根付きません。

いかに武力を減らしてあるいは抑えて平和と民主主義を育むか、日本はその理想を捨てずに歩んでいると思います。正直、かなりふらふらした歩みのようですが。

 

たとえ日本の女性差別がまだまだ根強いとしても、出入国在留管理局収容の外国人が亡くなるほど人権意識が低い国であっても、理想の平和を放棄してはいけないと思います。

 

私は「戦争を知らない子ども」であり「終戦直後を知らない子ども」でした。でも「平和を知らない子ども」にはなりたくないです。

今はまだ平和だからと沈黙することで、安倍内閣の提唱した「積極的平和主義」を容認したくはありません。

事実を知らずに、或いは知っていても他人事のように思ってしまう圧倒的多数の沈黙に加担したくはありません。

現状や被害を詳しく知っていても、世の偏見や差別等に潰される少数者の沈黙を見過ごしたくもありません。

 

このままでは「平和を知らない子ども」になってしまいそう。

平和を語り継げないままに終わってしまうかも知れない。

そんな危機感から書き始めた記事でした。

 

ずいぶんと長く、まとまりのない文章でしたが、

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。