コーヒーが美味しい季節になってきました。
高校時代、喫茶店で一人ブラックコーヒーを飲む楽しみを覚えました。当時、1杯が250円~300円くらいが多かったと思います。
コーヒーだけを楽しむ贅沢
始めの頃は、コーヒーだけ注文するのにどことなく抵抗があって、ケーキやサンドウィッチのセットにしたり、ランチや軽食を食べた後にアフターで注文したりすることが多かったのですが、喫茶店でのんびり過ごすことに慣れ、それが心地よい時間になってくるとコーヒーだけの注文も増えていきました。
気取って言うなら、コーヒーだけを楽しむ心地良さ、贅沢さを知ったのです。
一番よく通った店は、家と学校のほぼ中間あたりにある店でした。
漫画『キャッツ・アイ』(北条司)で描かれた喫茶店のように大きい窓から陽が差し込む喫茶店でした。扉を開けると鐘がチリンと鳴っていたと思います。その音は贅沢な時間の始まりの合図。
ついつい、長居をしてしまって、二杯目のコーヒーを頼むこともありました。『ふるさと』(松山千春)の影響を受けてます。でも三杯目を頼んだことは無かったかな?
夏ならアイスコーヒー。シロップやミルクを混ぜて飲んでいました。何も入れないと苦味が強く感じられて飲めません。今は、アイスもブラックです。
秋も深まり、下校中に寒さが漂うようになると、お金の無い高校生は自販機のあたたか~い缶コーヒーやカップコーヒーで温まるのが定番でした。
黒くて熱く純粋で甘いブラックコーヒー
でも、お金と時間があれば、一人で喫茶店に寄っていました。
「コーヒー、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い」(タレーラン)との言葉を知ったのが先か後か、ブラックで飲むことが増えていました。とりわけ、以前書いたように、一番の馴染みの店ではブラック派で通っていたので、ミルク無しが当たり前でした。
知ったかぶりして飲みながら、苦味の後に残るほのかな甘みを探し、それを感じられると幸せに思えたものです。
後に、この言葉の「甘い」は、砂糖の甘味だったと知るのですが、それでも断言します。美味しいブラックコーヒーには甘味があります。「ある」というより「感じる」が正しいのかも知れません。
抹茶にもそれを感じます。
熱すぎても、冷めすぎても感じにくいのですが、求めたくなる甘さです。それを「恋」とするのも納得です。
え?そう思うのは私だけ?
ファミリーマートのキャンペーン
なんて思っていたのですが、最近ファミリーマートが
「本当においしいブラックコーヒーは、甘い。」
とのキャッチコピーでキャンペーンを展開しています。
正直なところ、なんか、ちょっと嬉しいような、悔しいような気がします。
それこそ、ブラックコーヒーの甘味のようにほのかにですが。
でもね、ブラックコーヒーの甘味は、淹れ方だけでなく、飲み方も大事というのが持論です。どんなに美味しく淹れてくれたコーヒーでも、飲み方一つで甘さを味わえなくなると思うのです。
コーヒー、こだわりの飲み方
注文して出されたばかりのコーヒーはまだ熱くてそのままカップを持てません。
取っ手で持ち上げ、ふー、ふーして、ずずずと吸うのも、温まり方としてはありだと思います。
でもいつしか、そんなに急いで飲まなくてもいいと考えるようになりました。ずずず・・・と吸わないといけない熱さは、落ち着いて味わうのにやや不向きに思えたのです。
取っ手ではなく、カップの胴体を何とか持てるくらいなるまで待つ。
それは、コーヒーの香りを楽しみ、身体や意識がじんわり染まっていく時間。
香りに癒され、味わうウォーミングアップが終わり、飲み頃になったコーヒーをかぷりと口に含む。多過ぎず、少な過ぎず、舌にちょうど載るくらいの量。
それをゆっくり転がして、口の中全体に馴染ませて味わいます。
苦みや酸味、コクなどを確かめてごくんと飲み込みます。
鼻を抜ける香りも楽しんで、コーヒーが口の中から消えると言う瞬間に、ふわっとほのかに甘味を舌に残していくのです。
残り香ならぬ残り甘。
求め続けたくなる甘味を恋とは言い得て妙です。
たとえ、タレーランの意図と違う受け止め方であっても。
つい、「急に寒いやん」と口から出てしまう季節の変化ですが、だからといって急に温まらないといけない訳ではないはず。ゆっくり、じんわり温まっていく中でこそブラックコーヒーの甘味は感じられる気がします。
今週のお題「急に寒いやん」