tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn35.「寒い晩だな、寒い晩です。妻のナグサメとは、正に斯くの如きもの也」(斎藤緑雨)

「寒い」と聞くと不意に思い出すこの言葉。でも、詳しいことは知りません。高校時代にちらちら読んでいた「世界の金言・名言集」(名称は不正確)という小さい本に紹介されていた言葉です。『人間は考える葦である』(パスカル)の言葉もこの本で知ったと思います。

斎藤緑雨については、明治の小説家ということくらいしか知らず、彼の著作も未読ですが、この言葉だけは頭にこびりついています。以下、勝手な想像に想像を膨らませた内容になると思いますが、その辺、ご了承下さい。

 

 

言葉の中の夫婦観

この言葉が、印象に残った理由の一つは、「寒い晩だな、寒い晩です。」が二つの台詞でなのにもかかわらず一つの言葉のように感じられることです。まるで夫の言葉に対する妻の返答がセットになっているかのよう。それを日常的に繰り返すのが妻のつとめというイメージになりました。

 

二つ目は「ナグサメ」という表現。泣いたりすねたりするのを落ち着かせるのが慰めの意味と思っていたので、かなりイメージが広がりました。ねぎらう、すかす、心をいやす・・・。こうしたやり取りも慰めにふくまれると知りました。

 

当時は思いつきませんでしたが、齢を重ねたからでしょうか、この言葉は映画のワンシーンのようにイメージが浮かびます。

 

「寒い晩だな」の台詞で、いつもと違う寒さを感じる晩だとわかります。もしかすると、この季節一番の寒さかも知れません。それは丁度、晩になると予想以上に寒くなる深い秋、つまり今の時期の言葉のようにも思われます。予想外の寒さゆえ、部屋の暖房(といっても、火鉢くらいの物でしょうが)も整っていなかったのでしょう。

 

だから、夫は妻を責めるつもりは無く、単に思わぬ寒さだから仕方ないと丹前の重ね着をする理由も兼ねて「寒い晩だな。」言って立ち上がります。しかし、いち早くそれを察した妻は「寒い晩です。」と答え、夫より先に丹前を取り、夫の肩に掛けるのです。そして、そのまま火鉢に火を起こし始めるーー。

そんな感じ。

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丹前(別名:どてら)部屋での防寒着。

そこまでの明確なイメージはなかったものの、高校生の時点で、明治の夫婦にどこか憧れを感じつつ、どこか違和感も感じていました。とても日本的に思える一方で、それでいいのでしょうか。『こころ』(夏目漱石)の男女観とも通じている気がしていました。男の理屈で日常が決められ動くのはどうなのだろう?という疑問が残ったのです。

これは、幼かった頃の「女って損やね」の言葉ともつながっています。

 

時代の違い

その疑問は、数年後に俵万智のある短歌で再び湧きあがります。

 

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 

きっと斎藤緑雨の言葉を知った上で詠んでいるのでしょう。そう意識して読むと、昭和の終わり頃は、女性から男性に話しかけるのも当たり前の時代とも言えそうです。

 

短歌を知って、斎藤緑雨の言葉が少し冷たく機械的に思えてきました。

隙間風が入り、部屋の暖房もあまり効かなかったろう明治の部屋。寒い以外の答えを考える必要もないくらい寒かったのでしょう。二人して寒さに耐えていたからこその妻の即答にも思えます。

 

対して、昭和の終わりは、部屋の気密性も暖房器具の威力もぐんと上がり、部屋はずいぶん暖かいはず。「寒いね」と言いつつもどこか余裕があるように思われます。短歌は夫婦ではない男女間のやり取りを描いていますが、男性は自分の感覚ではなく女性に共感することを選んだ結果「寒いね」と答えているように思えるのです。

 

共感するしかない環境と、共感することを選べる環境。もしかしたら、この微妙な違いが時代による男女の関係の違いにも影響しているかも知れません。

 

過ごした時間の違い

記事を書きながら、新たな見方を思いつきました。

男女の関係について、斎藤緑雨が古い時代で、俵万智が新しい時代(といっても、もう30年以上前)と決めつけていいのかという見方です。両者では過ごした時間や乗り越えてきたものも違うはずです。

 

「夫婦が文字通り一心同体となれるのには二十五年の歳月がいる。」との言葉があります。斎藤緑雨の言う夫婦はその歳月を共にした感がありますが、俵万智の男女はそこまで到達していない感があります。もし、俵万智の男女が二十五年の歳月を経ていたら、果たしてあの歌を詠めたでしょうか。

 

そんなことを考えている内、夫婦間、男女間を固定的に見る必要はないのではという答えに至りました。

斎藤緑雨俵万智も、その時代のその時点で、自分を含む身近な男女について絶妙な表現をしているとは思います。その感性や表現力には憧れますが、それに縛られて男女の在り方に羨望や失望を感じなくてもいいのでは?なんて気がするのです。

 

はてなブログでも、この夫婦関係が良いなぁとか、そんな恋愛観もありかなとか、感じることは多いです。そして多くの場合、他の人との共通点はありつつも、やはり独自の生活感が滲み出ています。うん、誰かが言ったことに合致するかどうかより、自分らしくいられることの方がきっと大事。

なんだか、最初書こうとしたことと全然違う所に来た気もしますが、多分、そういうことなのでしょう、

 

今の時代

自由恋愛が当たり前の時代になり、離婚が珍しくない時代になりました。

「寒い晩だな、寒い晩です。」のやりとりも、既に当たり前ではなくなっている気がします。

夫婦共働きが多い時代になり、お互いの生活時間を合わせるのが難しい時代です。

「「寒いね」と答える人のいるあたたかさ」を感じにくい世になっているかも知れません。

ブログやtwitter、LINE などが当たり前の時代になり、見知らぬ人から返答をもらえる時代でもあります。

「急に寒いやん」とのお題で斎藤緑雨の言葉や俵万智の短歌を思い出す輩がいてもいいでしょう。

  

そんなことを考えながらの記事でした。

 

 

今週のお題「急に寒いやん」