(一号作戦)
「ひたすらに我慢する」作戦は、はなっから失敗だった。食事中に起きたくしゃみの衝動はそう簡単に我慢できるものではない。口中でご飯とおじゃこと歯が格闘している最中、どんな作戦を立てるべきだったろうか。
口の中の物を噴き出すわけにはいかない。そう思って強引に口を閉じたものの、くしゃみで出される空気の勢いは風速100m程もある。台風なら家も吹き飛ぶ勢いだが、鼻腔の空気量で家を吹き飛ばすことは無い。それでも、ご飯粒とおじゃこくらいは吹き飛ぶわけで、それらは口を閉ざされたゆえに一斉に鼻から外に出ようとした。
被害を最小限にするべく顎を引いていたのが良かったのか、鼻からは何も飛び出しはしなかった。しかし、不幸にして鼻腔に引っかかった奴がいた。しかも絶妙な位置取りだ。
ちくちくする痛みとこしょこしょされるこそばゆさが違和感となって鼻の左側の奥にある。一体全体どうやったら、それを取り除けるだろう。新たな作戦が必要になった。
(二号作戦)
まずは冷静に状況分析から始める。
今、私は食堂に居て一人食事中だ。他の席に何人かが座っている。幸い、私の鼻腔に何者かが潜んでいることには気づいてる様子はない。できるなら、このまま誰にも知られることなくやり過ごしたい。変な行動は慎んだ方が良い。
次に、鼻腔に潜んでいる奴の正体を推理する。鼻を手の平で隠し、もぞもぞと動かしてみて気づいたことがある。タイミングによって、ちくちくの痛みとこしょこしょのこそばゆさが交互に来る。
この違いが気になって実験を試みた。ちょっと強めに鼻から息を吸うと、ちくちく。逆に鼻から息を出すと、こしょこしょ。どうやら同じ物体が、息を吸う時と出す時で違う場所を刺激するらしい。
確信した。曲者の正体はおじゃこだ。それもきっと「へ」の字型をしたやつ。それが揺れる際、両端が鼻腔の微妙に違う場所を刺激して「ちくちく」と「こしょこしょ」になっているのだろう。
問題は、出すべきか吸い込むべきかーー。
答えは決まっていた。吸い込めば痛いし、その後身体のどこに入り込むのかわからないのだ。多少汚くても食道に行ってくれるならまだいい。もし、気管に入れば咳き込んでしまうに違いない。そうしたら、皆から注目を浴びてしまうだろう。それだけは何としても避けたい。
くしゃみの風速100mには及ばなくても、そこそこの勢いで鼻から息を出せるはずだ。中途半端にやって鼻に留めてしまうのはいけない。思いっきりやって外に出す。
作戦は決まった。あとは実行あるのみ。
ちくちくが嫌で、ゆっくり大きく息を吸いこむ。両手で鼻を隠して、一気に空気を押し出した。
「ふーーーーーーん!!」
と、こしょこしょこしょこしょこしょこしょこしょこしょこしょーーーーー!!
思いっきり鼻腔をこそばされて、
「ぎゃははははははは!」
声を出して笑ってしまった。
ほぼ同時に皆の注目を浴びているのがわかる。
しまった!咄嗟に手にスマホを持ち、さも動画を見ていてつい笑ってしまった風を装ったが、誰が見ても変だったはず。それでも、心配して声をかける人がいなくてよかった。返答に困る。いや、むしろ恐くて遠ざかりたかったろう。一人食事をしている口ひげの男が突然大声で笑い出したのだから。
問題はそれだけではなかった。おじゃこは、そのまま同じ場所にとどまっているらしい。何ゆえその場所が気に入っているのか知らないが、傍迷惑この上ない。いや、鼻迷惑か。「鼻でふん!」作戦も大失敗に終わった。
スマホをテーブルに置き、まだ動画を見てる風を装いながら、また、ちくちくとこしょこしょを我慢しながら残りの食事を終え、食堂から出る。恥ずかしさと、忌々しさとで、顔はさぞ赤かったろう。それでも毅然と職場のトイレに向かった。やられたらやり返す、「へ」の字め、許さん!執念にも似た思いで、個室に入りドアを閉めた。
(三号作戦)
誰の視線も気にならない状態で、次の作戦を開始する。
まずは準備運動だ。鼻を刺激しないよう口で深呼吸。首を左右にひねり、続いてぐるりと肩の上で回す。肩を上下してリラックス。軽くジャンプを繰り返して、ぽろっとおじゃこが出てくることを期待したが、あっさり裏切られた。
続いて、指を突っ込んでほじろうとしたが、おじゃこに全然届きそうもない。
ならばと、鼻の上からマッサージしてみるが、これまた微妙に「ちくちく」と「こしょこしょ」が繰り返されるばかりで効果はなかった。いや、別の効果があらわれた。刺激され続けた鼻から、とろ~っと鼻水が流れ出てきたのだ。よし、このまま流れ出てくれたらという期待も叶わなかった。
きっと「へ」の字のおじゃこは鼻の奥で「へへ~ん」と笑っている。
仕方がない。こうなったら失敗した「鼻ふん!」作戦の改良版、リズムをつけて「鼻ふんふんふーん!」作戦だ。
口で息を吸いこみ、ふんふんふーん!ふんふんふーん!それを何度も繰り返す。
しかし、鼻水がびーんと出るばかりで、「へ」の字はへっちゃららしい。
一方で、私がもうヘロヘロだ。
痛みもこそばゆさもあまりわからなくなってきた・・・。
それどころか、頭までくらくらしてくる・・・。
加えて、手足の指先が痺れてる感じもある・・・。
気持ちは凹み、戦意喪失に陥った。
無理もない。人間の体は適度に二酸化炭素が回ってる状態が普通なのだが、大きな呼吸を短い間隔で何度も繰り返したため、過呼吸状態になったのだろう。
トイレの個室で鼻水を垂らし、頭がくらくらした状態で誰かに見つかったら、間違いなく危ない奴だと思われるだろう。このままトイレに倒れ込んでしまう訳にもいかなかった。
(四号作戦)
午後からの仕事に支障を出すわけにはいかない。ことごとく失敗して「へ」の字掃討作戦はあきらめた。違和感はあるが、「へ」の字を鼻腔に残したまま、仕事をするしかない。 「with への字」作戦がスタートした。
ところが、そう決めてかかると、それほど気にならなくなった。こちらがちょっかいを出すとやり返されたが、何もしなければ比較的おとなしくいるようだ。強くなければ鼻で息をしても平気な感じになってきた。
何かの拍子で不意に「へ」の字が存在感を示すこともあったが、「あ、まだ残ってるんだ」という感じでいれば、軽い筋肉痛のように存在を忘れて仕事をしていられた。
そう言えば、こういうことって意外と身近にあるなとも思う。ネットで見かける見知らぬ人の不快な発言などは、その最たるものかも知れない。放置が一番いいとまでは言わないが、見て見ぬふりを貫くのも有効な手段である。
そして、夕食時に「へ」の字の存在感がなくなっていたことに気づく、というより、思い出した。知らぬ間に出てしまったのかも知れないし、感覚がマヒして感じなくなっただけかも知れない。
しかし、もしかすれば、感じなくなっただけでそこに在るのだとしたら、そして、忘れてるだけで他にもこうしたことが幾度もあったのだとしたら、鼻腔には一体どれだけの物が溜まってるのだろうなんて思ってしまう。
それはそれで嫌だなと私の口も「へ」の字になった。
これを「with への字」作戦成功の合図だとしておこう。
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