とにかく、さっぱりダメなのが英語の学習だった。苦手意識の始まりは中学1年の2学期まで遡る。他教科に比べて明らかにテストの点も低かった。
英語のもっともひどい記憶は高校受験。朝の微熱がどんどん上がり、午後の英語の試験では途中で数十分意識がなくなっていた。帰宅後、親に連れられ病院に行くとインフルエンザと診断された。テストでは、未記入やどう答えたか不明な解答欄も多く、翌日の新聞を見ての自己採点で40点に満たない予想。進学校では受かるはずがないと思われたが、定数割れだったからか、奇跡的に合格した。
赤点付近の英語力
高校では、定期試験で赤点を幾度が経験した。ギリギリのところで赤点を回避したこともあった。
ただ確かに、英語には苦しんだのだが、おかげで学んだことも多かった。
赤点を回避するために、「できる限り回答する」として、テストのわからない問題では
不明な英単語はそのまま使って和訳?しました。また、推測した単語は推測理由もテスト答案の裏に書きました。そして、最後には、「赤点にならないために書きました。少しでも点数になれば嬉しいです。ふざけて書いたわけではありません。よろしくお願いします。」といった感じの文章も書き加えました。
もちろん、担当の先生(女性)の人柄なども吟味してのことだった。
結果…。赤点回避に成功です。記憶では42点。「赤点にはなってないから」と一言付け加えて、テストを返してくれました。
この経験は、後の人生にも影響を与えているといっても過言ではない。
英語の授業で学んだこと
別の英語の先生の記憶もある。
そこそこ高齢で厳格な男性であった。自転車で通勤していて、登校する道や時間帯の選択によっては、ご一緒することもあった先生だ。坊主頭?だったかスキンヘッド?だったかで、自転車をこぐ姿が印象に残っている。
多段変速のスポーツタイプの自転車だったと思う。自転車でゆっくり走る生徒を颯爽と追い抜いたり、「そのペースだと(遅刻)ギリギリじゃないか?」、「そこで道を渡ったらいかん!」等、声をかけたりもしていたように思う。
また、表情が豊かな先生でもあった。
入学したばかりの説明会で、厳しい顔で「学食の食券をごまかすな!」「肘をついてうどんを食べるな!」等の話をし、学食を利用する前から怒られているような陰鬱な気分になったのを憶えている。
授業の多くは覚えていないが、ある時、先生がハワイに行った時のことを話してくれた。もとは「生の英語、英会話に接することが大事だ」ということだったが、先生も勇気が必要なことがあるんだぞ、との話辺りから、微妙にずれた。
ハワイの若い女性と話したが、小さい水着のためにほとんど裸で、目のやり場に困ったとかなんとか、ビキニと言われるだけの衝撃があったとかなんとか…。
厳格で正義感が強く真面目と思い込んでいた先生が、話しているうちに頭のてっぺんまで、文字通りゆでだこのように真っ赤になりながら話してくれたのが、可笑しくも愛らしく思えた一瞬だった。
「どうして、恥ずかしいのを我慢して、こんな話をしたかというと、君たちにも、英語で話すようになって欲しいからだ。」
みたいな言葉で締めくくる先生の額には、汗がにじんでいたように思う。
授業での英語はさっぱりわからなかったが(私の力不足であって、先生が原因ではない)、おかげで、英語を話すことや聞くことの大切さはある程度理解できた。
洋画と英語
どの先生の話だったかあいまいだが、「洋画は字幕で見て欲しい」という話もあった。その時、心の中で大きくうなずいた記憶もあるから、1982年11月23日より後のことだと思う。
たとえ同じ意味でも、英語の声で聞くのと、日本語にした声で聞くのとでは、ブレが生じることは経験済みだった。もっとも、英語の会話を理解できる領域には程遠く、声を聞きつつ、字幕を目で追うのに必死だったのだが。
それでも、当時の映画館は、一度入場すれば同じ映画を繰り返し観ることが許されたので、1回目は字幕に、2回目に声と映像に力点を置いて鑑賞することができた。毎回入れ替えのある今の方式にも良さがあるのは認めるが、当時の方式の方が作品をより印象付けられる気がする。もっとも、私の年齢が原因で感受性に衰えが来ていることも否定できない。
英語と日本語の共通性
そんな経緯もありながら、英語の声や英文に接することは増えていった。残念ながら、英語の成績アップにはつながらなかったが、谷川俊太郎さんの訳と和田誠さんのイラストに惹かれて購入した「マザーグース」の本に載っていた英文も、英文ならではの面白さに気づくことができように思う。
なんにせよ、英文を日本語訳した文章こそが、もとの英文を正しく表現しているとは限らないという感覚を持てたのは、大きな大きな収穫になった。
日本語文が人によって微妙に違った意味にとらえられることが珍しくないように、英文も微妙に違う受け取り方があって当然なのだ。正解か間違いかだけにとらわれず、文章に寄り添おうとする思いこそが大切なのだと。
そんな風に思いながらも、英語の成績は上がらぬまま高校を卒業した。
そして英語の苦手意識は変わらぬまま、今を過ごしている。
でも嫌いではなくなった。
わかりづらさはあるが、わかったときの嬉しさも知っている。
英語を使って?受け取り伝える
初めての北信越の列車で、偶然、同じく一人旅をしているカナダ人女性と意思疎通したことがある。会話したとは言えないたどたどしさであったが、目的の山を登るのに、どの駅で降りたら近いかとたずねられたことがきっかけ。一人旅でお喋りしたい気持ちが山となっていたのか、目的の山に行きたい理由、世界のあちこちの山をまわっていること、教員をしていること等を、お互いの平易な英語や片言の日本語、なぞなぞのようなジェスチャーやボディランゲージ、スマホのアプリ等である程度理解ができた。
浅い内容だったにせよ、相手の伝えたいことがわかる、自分の伝わって欲しいことがわかってもらえる爽快感は共有できたように思う。もしかすると「わかってあげたい」、「わかって欲しい」は、人類共通の本能なのかも知れない。
”Remember Pearl Harbor”
そんな英語力しかない私だが、つい最近、長らく不思議に感じていた英文がすとんと胸に落ちた。とてもセンシティブ(受け取り方が微妙)な英文なのだが、
”Remember Pearl Harbor”
である。日本では「真珠湾(パールハーバー)を忘れるな」「真珠湾を思い出せ」と訳されることが多い。第二次世界大戦中に、日本軍がハワイの奇襲攻撃を仕掛け大きな被害が出たことを忘れるなと、アメリカが日本への報復攻撃のスローガンにしていたという。この言葉自体は高校の時に知ったのだが、この訳文には、ずっと違和感があった。
特に”Remember”の訳だ。
「忘れるな」と言われなければならないほど忘れやすい Pearl Harbor ではあるまい。
「思い出せ」と言われなければならないほど思い出しにくい Pearl Harbor でもあるまい。
むしろ、忘れることもなければ、あえて思い出そうとしなくても記憶にとどまり続ける Pearl Harbor であったはずだ。
そんなことを考えながら、結果、私の訳はこうなった。
「憶えているぞ! Pearl Harbor を!」
自分で訳しておきながら、ぞくっと身震いするような迫力を感じる。
群衆となって声を揃え「パールハーバーを忘れるな!」と訴えるのと、「憶えているぞ! パールハーバーを!」と訴えることの違い。
「忘れるな!」と言われたら「そうだ、忘れないぞ!」「ああ、忘れるもんか!」と、記憶にとどめておかないといけないとか、記憶を呼び戻そうと呼びかけている印象。
「憶えているぞ!」だと「ああ、憶えているぞ!」「憶えているとも!」と、消えない記憶が次々に共鳴して、今にも行動を起こすべく、怒りを増幅させている印象。
そんな違いを感じてしまう。
そして、恐らく当時のアメリカ人の思いは後者だったのではないか。
基本的に「英文は動詞が先に来るが日本文は動詞が後」みたいな感覚があったが、日本だって「がんばろう!神戸」など、思いが強ければ動詞が先になることは多い。「神戸、がんばろう!」では思いがうまく伝わらなかったろう。
わたしと英語
はっきり言えば、今だって英語はわからない。
日本語も、胸を張ってわかっているとは断言できない。
だから、上の訳にも確固たる自信はないし、偉そうなことは言えない。
それでも、日本語であれ、英語であれ、何語だろうと相手に何かを伝えるための言語だと思う。意味を伝えたいのか、思いを伝えたいのか、それは状況によって違ってくるとしても、伝えたい何かがあるのは確かだ。
それを含めて、「わかってあげたい」、「わかって欲しい」という思いだけは失わず、言葉に接したいと思う。