tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画15.『卒業』(1967年)で卒業したこと

 『卒業』(1967年)をテレビ放映で観たのは高校時代だったと思います。ラストシーンが有名で、名画との評判も知っていた上、主役がダスティン・ホフマン、テーマ曲が「サウンド・オブ・サイレンス」。俄然、大きな期待をして観ていたのですが、結論から言えば、私の評価は世間一般の評価よりやや低めになった感じがありました。 

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『卒業』ポスターのイラスト

ダスティン・ホフマンの出演作では、『クレイマー・クレイマー』(1980年 アカデミー主演男優賞)をリバイバル上映で観ていました。突然の離婚に追い込まれた主人公が、5歳の子どもと悪戦苦闘しながら生活を続け、生活が軌道に乗ってきた矢先、子どもの怪我、それで仕事がおろそかとなり失職します。そんな状態で、今度は元妻と子どもの養育権を裁判で争うというストーリーです。自分勝手が招いた離婚とは言え、困難に屈せず、不器用ながらも父親として奮闘する姿が印象的でした。

 

それ故、『卒業』への期待も大きかったのですが、主人公の煮え切らない態度に少なからずいら立ちを覚えてしまいました。どうにも、ストーリーに馴染めなず、有名なラストシーンも(おいおい、それでいいのか?)と思ったのを憶えています。当時の私には、くらくらしそうな男女間のどろどろした関係、その揺れ動き、駆け引き、絡み具合、溺れ具合に抵抗を感じたのです。それが作品の狙いだったのでしょうが、高校生だった私にはその不誠実さを受け止められなかったようです。ただもし、主役がダスティン・ホフマンでなかったなら、ここまでの拒否感は生じなかったかも知れません。

 

鑑賞後の、それでいいのか?感は、『小さな恋のメロディ』(1971年)とも似ていました。でも、『小さな…』の方がファンタジー的でまだ救いがあった気がします。精一杯大人に抵抗しての逃避行でも、その後、どこかで大人と許しあい、認め合い、納得できるんじゃないかという楽観した未来が想像できました。思春期の導入としての他愛ない行動として許される感じがあったのです。

 

対して、『卒業』は遅すぎる思春期の卒業とも言えそうな作品。それは、大学進学が一般的になり始めた時代に、社会人としての責任を猶予される「モラトリアム」期間でもあり、そこからの卒業という意味も含まれていたはずです。倫理社会の授業で習って間もないこの言葉を、『卒業』に当てて理解していた気がします。当時の私には、なりたくない未来の姿に思えました。(でも、どこか重なる部分を感じることにもなりました。)

 

そんな訳で、私には反面教師(この言葉もあまり使われなくなりました)的な映画です。でも、時間をかけてじわ~っと別の収穫があった映画です。

 

それは、俳優への勝手なイメージでそのまま出演作品をイメージしてはいけないということです。

うろ覚えな記憶ですが、テレビドラマ『3年B組 金八先生』で主演していた武田鉄矢が、「金八先生のイメージでずっと見られるのがつらい」というような話をした時、『男はつらいよ』シリーズに出演していた渥美清に「役者が役のイメージを持たれて、お客さんに憶えてもらうことは大事なこと」と諭され、目が覚めたそうです。その真意は、自分の立つ位置や超えたい壁、目指したい姿がはっきりしている役者は幸せだということだったと思います。

 

その点、ダスティン・ホフマンは『卒業』で初主演した後、あっさりモラトリアム青年のイメージから卒業していました。むしろ『クレイマー・クレイマー』を先に観ただけで役者のイメージを固定してしまった私が、観客として未熟だったと気づきます。更に後、既に見ていた『パピヨン』(1974年)や『マラソンマン』(1974年)にも出演していたことに気づき、驚きます。

 

役者は、どこか自分に合った作品を選んでいるという印象があったのです。実際そういう役者は少なからずいるようですし、その中で自分を極めていくという選択肢もあって良いとは思います。でも、常に新しいイメージに挑戦して幅を広げる役者の方が、私としては好み。その役者を観ていれば、いろんな世界が次々広がるというのは、俳優の大きな魅力でしょう。

 

鑑賞直後に感じた「それでいいのか?感」は、時を経て、「そんな観方で良いのか?感」へと変わっていきました。それはいつしか、映画の観方は、映画の数だけ、映画を観る人の数だけ、映画を観る機会の数だけあるという持論に行き着くようになります。

 

その点で『卒業』は、俳優や予告編、評判だけで勝手なイメージを作りあげ、観ても無い作品に安易にダメだししたり、期待を膨らませ過ぎたりする映画の独り善がりな観方から卒業するきっかけになった作品とも言えます。(もっとも、その後も鑑賞前に過大な期待をしてしまったことは幾度もあります)また、映画の主人公やストーリーを追うだけでなく、演じる役者を観る、演技を観る、監督や時代のメッセージを考えるきっかけにもなったようです。

 

もし、『クレイマー、クレイマー』より先に『卒業』を観ていたら、ダスティン・ホフマンを優柔不断で自分勝手と思い込み、後の彼の作品に興味を持てなかったかも知れません。またすぐ後に、『トッツィー』(1982年)でも驚かされるのですが、それは別の話。でも、これが彼を観た最初の作品でなくて良かったと思ったのも確かな話です。

 

 

今週のお題「卒業」