高校時代にリリースされた卒業ソングとして思い出すのは、『春なのに』(柏原芳恵)と『想い出がいっぱい』(H2O)の2曲。ここでは、『春なのに』について書くことにします。
『春なのに』は1983年1月11日に発売され、シングル売上は61万枚だそうです。作詞・作曲が中島みゆきだと知ったのはずっと後になってからのこと。
印象にのこっている歌詞に
記念にください ボタンをひとつ
青い空に 捨てます
がありました。高校時代、卒業式の後、思いを寄せる男性から学生服の第2ボタンをもらうことが話題を呼んだことがありましたが、この歌がきっかけだったのかどうかは知りません。
それにしても、何故、第2ボタンなのか?
あやふやな記憶では、第1ボタンを千切ると胸があくからその次のボタンだとか、1番のボタンは持ち主の物だから2番目をもらうとか、心臓に一番近いボタンだからとか。
気になって、今回改めて、検索してみました。
1960年公開の映画で「予科練物語 紺碧の空遠く」(井上和男監督松竹)で、特攻隊として赴く予科練生が第二ボタンを女性に渡すシーンがあったそうです。
そして、映画の監督によれば第2ボタンの理由は「だって心臓に一番近いボタンでしょ。山川(主人公)のハートですよ」ということらしいです。
参照URL ●卒業式の第二ボタンの起源とは?: ボタン百物語
もとになる実話があったかどうかは知りませんが、予科練で思い出すのは『若鷲の歌』という軍歌です。その冒頭の歌詞が
若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨(いかり)
です。いつどこで聞いた歌なのかあいまいですが、この部分の歌詞は憶えています。予科練と言えば、大日本帝国海軍の航空兵を目指す人達です。
第二次大戦中、日本には空軍はなく、大日本帝国海軍航空隊は花形の部隊で、憧れの的。その養成機関、予科練の「桜と錨」のボタンは、一つのステータスだったのかも知れません。
しかし、過酷な戦闘の下で次々と命を落とす部隊となり、いつしか特攻隊の養成所となっていくのは、皮肉でした。戦況が悪化する中で、戦闘機にも乗れず、人間魚雷回天に配属されて命を落とす人もいたのです。
今更ながらですが、中島みゆきはこれらのエピソードを知っていたのか、ちょっと気になりました。
「記念にください ボタンをひとつ 青い空に 捨てます」
歌の出た当時は知る由も無かった、第2ボタンの意味。
でも、そのボタンの元が、予科練生のボタンだとしたら、青い空に捨てるとしたのには何か意味があるのではないか、そんな風にも思えてきます。
気になってさらに調べてみると、今時の中高生にも第2ボタンへの憧れがあるらしいです。また、そのきっかけになったのが『春なのに』とする文章も見かけました。
この記事を手掛ける前なら、「ああ、やっぱり、そうなんだ。」と思ったのでしょうが、今は何だか、別の意味があるように思えてなりません。
青い空に捨てるためにもらうボタン。
何だか、謎めいてしまいました。
歌が出てから37年。また、桜の時期を迎えようとしているのに
春なのに 春なのに
ため息 またひとつ
という感じなのです。
今週のお題「卒業」