tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画14.祖父母が亡くなったのに涙が出ない私と『東京物語』

母が亡くなった時のことを少しずつでも書き残しておきたいと思っているのですが、なかなか書けないでいます。書こうとすると、それ以外のことが次から次へと思い出されて、まとまりません。

 

そこで先に、大切な人が亡くなった時のことを書いておくことにします。

 

目次

 

父方の祖母

父方の祖母は、彼岸やお花見等で、よくぼた餅を手作りしてくれました。氷砂糖が好きで、遊びに行ったときには、必ずと言っていいほど「これ、食べや。」と分けてくれました。ずいぶん背が小さかったように思いますが、それは背中が丸まっていた上、座っていることが多かったからかも知れません。

祖母が亡くなったのは、確か私が小学2年生の時のことです。風呂場で倒れて、その後亡くなったように記憶しています。当時、転んだだけで死んでしまうというのがよく理解できず、しばらくの間、転ぶのが怖かったのも憶えています。

 

その頃はよくあったことですが、お葬式は父の実家で行い、近所の人もたくさん集まりました。ずっとすすり泣いている人もいました。お葬式がどういうものなのかわからないでいる私に、母は「もう、おばあちゃんには会えないんだよ。ぼた餅もつくってもらえないんだよ。悲しいね。」と涙ながらに教えてくれました。

式の流れなどは憶えていませんが、人が亡くなった時泣くのが当たり前なのだと感じました。でも、悲しみはあるのに、どうしても涙が流れないのです。母から「悲しくないの?」と言われてるような気がして、泣かないといけないと勝手に思い込み、目を固くつぶったり、目頭を指で押さえたりして、涙を出そうとしました。1滴くらいは出た気もしますが、泣いたというには程遠く、内心「僕は、おばあちゃんが亡くなっても泣けない人間かも知れない」と思うようになりました。そして、それを誰かに知られることを恐れるようにもなりました。

 

血縁に無い人

また、その後いつかははっきりしませんが、よく知らない人の葬儀に、親に連れられて、参加したことがあります。その中の何かのタイミングで4、5歳の男の子が突然大声で泣き出し、棺から離れようとしなくなりました。

「まだ死んでない。死んだら爆発するのに、まだ爆発してないもん。だから、生きてる!」

と。そんな風に叫ぶのです。その子の父親らしき人は、仮面ライダーウルトラマンなどが好きでよく見てるから、死んだら爆発すると思い込んでるのだろうと言ってました。

その考えは、ある意味、正しいのでしょう。でも、ある意味、違っていると思いました。

爆発しないから死んでないと決め込んでいるのではなく、死んでいることも、元に戻らないことも分かっているけれど、棺から離れるのが嫌で精一杯考えた理由のようにも思われたのです。

何より、私より小さい子がわんわん泣きながら別れを悲しむ姿に、かわいそうという気持ちと一緒に、羨ましくも思ったことを憶えています。

 

小学5年の時だったと思うのですが、クラスメイトのお母さんが亡くなり、クラスの代表として、葬儀に参列したことがあります。葬儀のことはあまり覚えていないのですが、しばらく後で、何の配慮も無くお母さんを亡くしたクラスメイトに母の話題を振ってしまい、泣かせてしまったことを憶えています。自分は泣けず、大事な人を亡くした人の気持ちもわからずいる自分を責めました。

 

母方の祖父母

高校になると、大好きだった母方の祖父が長く入院します。

見舞いに行くと、それまで強くて大きく見えていた祖父が、身体に何本かの管を通され、小さく痩せ細り力なく見えて、何とも悲しくなりました。もともと必要なこと以外は無口な人でしたが、声を出すのも大変そう。身体を起こせなくなった頃から、最期が近いことを覚悟するようになり、その後、亡くなりました。

側で看取ることはできませんでしたが、思い入れが強かった分、悲しみも大きかったので、葬儀ではきっと涙は出るだろうと思っていました。

 

それまでに映画を観て涙がこぼれた経験もあったので、その時のようになるはずーーと。

しかし、結局泣けないままでした。

 

このことは、さすがに自分でもかなりショックでした。感受性の強い頃でしたから、なおさらのこと。いよいよ、大切な人が亡くなっても泣かない自分をとても冷たい人間じゃないかと疑い、責めるようになりました。母方の祖母が、祖父を追うようにして亡くなった時も、やはり涙は出ません。この頃には、葬儀に参列することが怖くなっていました。

 

涙が出ないことへの嫌悪

大学に入学した後、同級生が亡くなった時も、地元で仲の良かった友人が亡くなった時も同じでした。働きだして、同僚の親御さんが亡くなった時もーー。

似た立場で泣く人がいたにもかかわらず、私は涙が出ませんでした。そのことに誰かが気づくことをひどく恐れて、泣くふりをしたこともあったと思います。そして、そんな自分がさらに嫌でした。

いつか、もしかしたら、自分の親が亡くなった時も泣かないんじゃないか、その時自分が心底嫌な人間に思えるんじゃないかと恐れるようになっていったのです。

 

東京物語』に出会う

それが、一本の映画に救われます。もう30歳半ばになろうとしていた頃に観た『東京物語』(小津安二郎 監督 1953年)です。

有名なので観た人も多いでしょうが、あらすじを紹介します。(あらすじはラストまでに及びます。知りたくない人は、『 』内を飛ばしてください。) 

f:id:tn198403s:20200303233440p:plain

東京物語 タイトル画面のイラスト

東京物語』あらすじ

『 広島の尾道に住む夫の周吉とその妻のとみが、東京で暮らす子どもたちを訪れることにしました。でも医師の長男幸一も、美容院を営む長女志げも仕事が忙しくあまり両親にかまえません。寂しい思いをする両親に対して、戦死した次男の妻紀子は一人暮らしの中、会社の仕事を何とか休み、つつましいながらも東京観光に連れて行ったり、狭い部屋ながらとみを泊めてあげたりするのでした。

尾道に帰る途中、とみが体調を崩して大阪に住む三男の敬三にも会えました。それなりに満足して尾道に帰った夫婦でしたが、数日後、とみが危篤になります。知らせを聞いた子どもたちが東京から実家に帰りついた翌朝、とみは亡くなります。

とみが亡くなる前から泣き続けていた志げですが、亡くなると不意に紀子や地元の教員である末娘京子の喪服を心配します。遅れて帰って来た敬三を見て京子が泣き出します。そして、敬三がとみに向かい、白布をとったとき、志げは一際、大きな声で泣くのです。

葬儀の後、長女志げは形見のことを口にし、長男幸一の同意を得ると、すぐに幸一と東京に帰ると言い始める一方で、紀子には残って欲しい旨を告げます。紀子が残ると知った敬三も、一転帰ると言い出し、切符の手配を引き受けました。他の兄弟が先に帰って数日後、紀子が東京に帰る直前になって、周吉は世話になった礼を伝えます。紀子はそこで号泣するのでした。』

 

 大切な人が亡くなった時に、涙が出るかどうかにこだわっていた私は、目からウロコが落ち、続いて、涙があふれました。

ようやく気がついたのです。その人を大切にしていたかどうかは、亡くなった時の涙や泣き声で決まるものではない。生きていた時にどれだけのことをし、亡くなった後どれだけのことをするか、それこそが大事なのだろうと。

 

東京物語』は高校時代に観た映画ではないですが、高校時代に感じていた嫌な自分、大事な人が亡くなっても涙が出ないことを責めていた私を許してくれた映画となっています。

 この映画には、他にもいろんな影響を私に与えてくれましたが、それはまた別の話。

 

 

 ------------------------------------------------

<余談「東京物語」のエピソード>

この冬、阪神・淡路大震災発生時、自ら被災しながらも、他の被災者の心のケアに奔走した若き精神科医の実話を元にしたNHK土曜ドラマ『心をいやすということ』が放送されました。

このドラマの中で、『東京物語』の1場面がとりあげられます。

周吉と妻とみが、周吉の戦死した次男の妻紀子の狭い部屋に泊まることになります。

その時の、とみと紀子の会話のシーンです。

 ( 東京物語 - Tokyo Story - 参照 )

少しネタバレになりますが、 

とみ・・・「あんたには、今まで苦労のさせ通しで
    このままじゃ わたしゃすまんすまん思うて……」
紀子・・・「いいの お母さま わたし勝手にこうしてますの」
とみ・・・「でもあんた それじゃあ、あんまりのう……」
紀子・・・「いいえ いいんですの あたし このほうが気楽なんですの」
とみ・・・「でもあんた 今はそうでも だんだん年でもとってくると
    やっぱり一人じゃ 寂しいけえのう」

紀子・・・「いいんです・・・

の後の紀子の台詞が良いのです。うっかり見ていると何気ない会話として流してしまいそうですが、派手さもなく慎ましいけれど深みのある映画にぴったりの台詞なのです。

ドラマを観るまですっかり忘れていました。そして、それをとりあげたドラマにすっかり引き込まれました。ただ、全4話の最終話を見逃してしまったのがとても残念。

いつか機会があれば観たいと思っています。