tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn69.35×16なら、七八56で560。

もう十年以上も前の仕事中の話です。

「35×16っていくらだ?」

と言いながら電卓を探す同僚に反応して、

「七八56で560。」

と即答すると、一瞬固まって、

「嘘を言うな。」

と電卓を見つけて計算。

「あ、本当だ。」

と不思議そうに私を見て、

「計算早いね。得意だったっけ?」

と言われました。

35×16の計算

無理もないです。計算間違いや、冗談(嘘ではない)も多い私なので、すぐ信じてもらえなくても気にしません。偶然、35×16だったので即答できただけです。

 

不思議そうにしているので、逆質問。

「35×2で電卓使う?」と聞くと

「そりゃあ70ってすぐわかる。」との返事。

「70×8は?」と聞くと

「560。」と即答。

「だったら、35×16はすぐ出せるよ。」と言うと

「何で?!」とまた驚かれました。

 

そこで、理屈を説明します。

「35×16は35×2×8の答えと同じ。」

「うん、まあね。」

「それを(35×2)×8にしても答えは同じ。」

「うん…。」

「ってことは、70×8の計算と同じ。」

「あ!なるほどねぇ。」

と納得はされたものの、

「でも、普通はそんな計算しない。」

と言われてしまいました。

 

話を聞いていた他の同僚4人も「しない。」とのこと。

5倍は2で割って10倍、

5で割る時は2倍して10分の1、

もしないそう。

 

 

計算の 順を入れ替え 答え出す

 

 

あと、8記事。

 

※一部分、分かり易くしました。

1ヵ月の記事数と連続更新日数と年間目標(2)

昨日、月間ブログ記事数が30(赤枠)になりました。

青枠はそれ以前の最高記録で2021年7月の16でした。

これまでの月間記事数の一覧

この記事の投稿で10月の記事数が31、連続更新日数も31となります。

一ヵ月に31記事

 

10月最初の投稿時には

年間100記事の目標に対して61記事、残り39記事 でした。さすがにまずいと、毎日残り記事数をカウントダウンすることにして、そこから今日まで毎日更新。どこまで続けられるかな?と始めて、せっかくだから新記録に挑戦となり、その後、まあ、もう少し、もう少しとなって、結局月末まで続いた感じです。

 

全体として振り返ると、そこそこの記事は書けたかなとも思います。

ただ、この30日をメインカテゴリー(記事の一番最初のカテゴリー)別で振り返ると

近況:9  高校時代の生活:7  高校時代の遊び:7

お知らせ・あいさつ:3  tn(徒然なるままに):3

高校時代の音楽:1

と近況がトップ。ついつい、記憶が鮮明で書きやすい記事になりがちです。映画記事の下書きはあっても手をつけられないまま。悩んでいる記事をさらっと書いてしまうのに変な抵抗があって、手を出せませんでした。もう100記事には届きそうですし、来月からは、以前のマイペースに戻すつもり。

 

31は、短歌の意味で三十一(みそひと)文字とも読むので

 

 

三十一の 記事を連ねて 神無月

 

 

あと、9記事。

近況43.芸術の秋に飽きの大あくび

美術展へ

「今日は絵を見に行こう。」と父。

市の美術展に知人が出品しているとのこと。私も美術展に行くのは好きなので、一緒に行きました。

写真コーナー

写真の才能がない私ですが、一枚の写真から撮影者の思いを想像するのが好きです。何故その瞬間を選んだのか、それを撮影するために必要だった労力や哲学、アイデア、時間、技術等々。作品を「偶然に撮れた奇跡の一枚」的に片づけてしまう人もいますが、その偶然に出会えるための様々な条件をクリアしなければ撮れません。そう思うと一枚の写真に惹かれる要素はたくさんあると思います。

絵画コーナー

今回の美術展では洋画日本画ともに写実的な絵画が多かったです。地元の風景を描いたとわかる作品がある辺り、自分の出身地の美術展らしさを感じます。どういう基準で出品作品が選ばれているのかは不明ですが、素人目にも拙く思える作品もありました。それでも、大きなサイズに描き切るのは簡単ではありません。絵画がどんな思いで描いていたのかと考えるのも一興です。

父の作品評

父はもっぱら写実主義的作品が好みで、誉め言葉として「写真みたいだ」との言葉を何気なく使うことがあります。父に「写真で表せないことを絵にしているって発想はないの?」と意見したこともありますが「絵には絵にしかない良さがある」と返され「絵にしかない良さって何?」と突っ込むと「絵の良さは、言葉にできないから絵の良さなんだ」となり、話が進みません。

 

また、「この作品で〇〇賞をとれているのに、こっちの作品が賞を取れてないのはおかしい。」といった賞の評価も私は苦手です。作品を見に来たのか、受賞の有無を見に来たのかと問い質したくなります。父からすれば、その両方なのでしょうが、私は適当に聞き流します。私なりの見方で楽しめられたらそれでいいというか、そうしたいのです。

 

そんな理由もあって、時に意識的に父と並んで鑑賞しないようにします。もっとも展示場内を行ったり来たりして、同じ作品の話をすることはあります。

美術展では少し離れて歩く

書道コーナー

写真、洋画、日本画、書道等、約160点の表示。書道のコーナーまで来ると、昨日の紅葉狩りの疲れもあったのか、父は椅子に座り込み「書道はわからん」等と言った後、声を発しての大あくび。飽きてきたのでしょうか。さすがにそれはマナー違反だと思い「わからんと言って座ってあくびしても、わかるはずがない。作品に失礼。」と注意。少しは反省したらしく、立ち上がって作品を観た後、静かに座っていました。

 

正直、私も書道はよくわかりません。幸い、作品の横に楷書にした文章が表示されていたので、丁寧に見れば、どの文字がどう書かれているかある程度わかります。そうなるとタイポグラフィー(文章を読みやすく見せるデザインや、文字で1つのデザインを作る等の意味)的にも見えてきます。 

 

マス枠があるかのように文字が整然と並ぶ作品、墨が跡を残さないくらいまで書いて墨をつけ直したタイミングが見て取れる作品、文字の並びがぐにゃぐにゃで真白な空間がぽかりと目立つ作品。自分勝手な解釈で見るようになったのは今世紀になってからです。

 

私が見ていると父が近寄ってきて、「書道もわかるのか?」と聞いてきたので、「わかるかどうかはわからん。」と言いつつ、私なりの見方を説明。楷書の字と作品の字を見比べ、「このすき間にも意味があるとは思うけど、なんだろうね。」と聞くと「さあなぁ。」と離れていきました。

 

他の展示

華道や茶道などの展示や実演もありました。でも、私も父も疲れてきたし、関心も弱かったので、ほとんど歩き流すだけ。主催側からしたら、それなら入ってこなくてもと思われたかも知れません。でも、華道、茶道を目に入れるのと、入れないのとでは違いがある気がして、せっかく来たのだからと歩きました。

 

また、会場にはずっと展示している馴染みの作品もあります。以前、ある絵の前で父とああだ、こうだと話していたら、見知らぬ人から声を掛けられました。騒がしいと注意されるかと思いきや、絵の作者と縁のある人でした。失礼なことを言ったかと冷や冷やしましたが、奇譚のない話で興味深かったとのこと。結局、30分程あれやこれやと話しました。

 

ただ黙って観るのと、ある種の評をしながら観るのと、どちらが良いとはなかなか結論付けられないでしょう。マナーを自覚しつつ、騒がしくない程度に評するのが一番のように思います。

 

 

高校時代、美術展にも何度か行きました。

いつか、そのことも記事にしたいと思います。

 

 

あと、10記事。