美術展へ
「今日は絵を見に行こう。」と父。
市の美術展に知人が出品しているとのこと。私も美術展に行くのは好きなので、一緒に行きました。
写真コーナー
写真の才能がない私ですが、一枚の写真から撮影者の思いを想像するのが好きです。何故その瞬間を選んだのか、それを撮影するために必要だった労力や哲学、アイデア、時間、技術等々。作品を「偶然に撮れた奇跡の一枚」的に片づけてしまう人もいますが、その偶然に出会えるための様々な条件をクリアしなければ撮れません。そう思うと一枚の写真に惹かれる要素はたくさんあると思います。
絵画コーナー
今回の美術展では洋画日本画ともに写実的な絵画が多かったです。地元の風景を描いたとわかる作品がある辺り、自分の出身地の美術展らしさを感じます。どういう基準で出品作品が選ばれているのかは不明ですが、素人目にも拙く思える作品もありました。それでも、大きなサイズに描き切るのは簡単ではありません。絵画がどんな思いで描いていたのかと考えるのも一興です。
父の作品評
父はもっぱら写実主義的作品が好みで、誉め言葉として「写真みたいだ」との言葉を何気なく使うことがあります。父に「写真で表せないことを絵にしているって発想はないの?」と意見したこともありますが「絵には絵にしかない良さがある」と返され「絵にしかない良さって何?」と突っ込むと「絵の良さは、言葉にできないから絵の良さなんだ」となり、話が進みません。
また、「この作品で〇〇賞をとれているのに、こっちの作品が賞を取れてないのはおかしい。」といった賞の評価も私は苦手です。作品を見に来たのか、受賞の有無を見に来たのかと問い質したくなります。父からすれば、その両方なのでしょうが、私は適当に聞き流します。私なりの見方で楽しめられたらそれでいいというか、そうしたいのです。
そんな理由もあって、時に意識的に父と並んで鑑賞しないようにします。もっとも展示場内を行ったり来たりして、同じ作品の話をすることはあります。
書道コーナー
写真、洋画、日本画、書道等、約160点の表示。書道のコーナーまで来ると、昨日の紅葉狩りの疲れもあったのか、父は椅子に座り込み「書道はわからん」等と言った後、声を発しての大あくび。飽きてきたのでしょうか。さすがにそれはマナー違反だと思い「わからんと言って座ってあくびしても、わかるはずがない。作品に失礼。」と注意。少しは反省したらしく、立ち上がって作品を観た後、静かに座っていました。
正直、私も書道はよくわかりません。幸い、作品の横に楷書にした文章が表示されていたので、丁寧に見れば、どの文字がどう書かれているかある程度わかります。そうなるとタイポグラフィー(文章を読みやすく見せるデザインや、文字で1つのデザインを作る等の意味)的にも見えてきます。
マス枠があるかのように文字が整然と並ぶ作品、墨が跡を残さないくらいまで書いて墨をつけ直したタイミングが見て取れる作品、文字の並びがぐにゃぐにゃで真白な空間がぽかりと目立つ作品。自分勝手な解釈で見るようになったのは今世紀になってからです。
私が見ていると父が近寄ってきて、「書道もわかるのか?」と聞いてきたので、「わかるかどうかはわからん。」と言いつつ、私なりの見方を説明。楷書の字と作品の字を見比べ、「このすき間にも意味があるとは思うけど、なんだろうね。」と聞くと「さあなぁ。」と離れていきました。
他の展示
華道や茶道などの展示や実演もありました。でも、私も父も疲れてきたし、関心も弱かったので、ほとんど歩き流すだけ。主催側からしたら、それなら入ってこなくてもと思われたかも知れません。でも、華道、茶道を目に入れるのと、入れないのとでは違いがある気がして、せっかく来たのだからと歩きました。
また、会場にはずっと展示している馴染みの作品もあります。以前、ある絵の前で父とああだ、こうだと話していたら、見知らぬ人から声を掛けられました。騒がしいと注意されるかと思いきや、絵の作者と縁のある人でした。失礼なことを言ったかと冷や冷やしましたが、奇譚のない話で興味深かったとのこと。結局、30分程あれやこれやと話しました。
ただ黙って観るのと、ある種の評をしながら観るのと、どちらが良いとはなかなか結論付けられないでしょう。マナーを自覚しつつ、騒がしくない程度に評するのが一番のように思います。
高校時代、美術展にも何度か行きました。
いつか、そのことも記事にしたいと思います。
あと、10記事。