tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

関東大震災100年(3)集団の安堵と狂気、そして映画『福田村事件』 平和と沈黙(2023)

2023年は関東大震災から100年。

当時の事実を私なりに捉えた上で、映画『福田村事件』を考えてみました。

 

この記事は前回からの続きです。

大火災の原因と経過

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分に、日本の首都東京市一帯を襲った大地震は、10分もの間、大きな揺れを記録。多くの建物を倒壊させ、丁度昼飯時で火を使う家も多くありました。折しもこの日は風速10mの強風を記録し、風向きも南風から西風、北風、再び南風と変わり続けました。火災の発生後、この強風であおられた火の粉が、瓦を失って剥き出しになった屋根板に大量に降り注いで新たな火の元になったことが、大火災の一因と考えられています。

 

一方、当時の東京は、近代化される途上にあり、れんが造りの建物も増え、都市計画による水道を使った消火栓も備えられ、江戸時代のような大火は過去のものになりつつありました。しかし、近代都市を襲った大地震はそれまでに例がなく、同時多発する火災や広域にわたる断水も想定されていませんでした。全出火点は134か所に上り、即時に消火できたのは57カ所。残る77カ所は延焼火災を続けます。当時の防火体制を大きく上回る火災になった結果、市域全面積の43.6%にあたる34.7km2を焼き、多くの犠牲者を出しました。

 

関東大震災による死者は約10万5000人、うち焼死が9割です。4万人が避難した被服廠(ひふくしょう)跡地では火災旋風が起き、3万8000人もの犠牲を出しています。隅田川に架かる橋では両岸から火災に追われた人々と荷物が密集する状態になり、押しつぶされる人、橋の上から飛び降りる人が出る中に火の手が伸び、火事が治まった後の川面で、たくさんの焼死体、溺死体が確認されています。

 

ここまで火災被害が拡大したのは、大地震による同時多発の火災の怖さを人々が知らず油断があったこと、家財や荷物を持ち出したため、逃げ遅れや渋滞に繋がっただけでなく、新たな火災発生源にもなったこと、さらに、防火体制の限界、救急医療の不備や限界等、様々な要因が指摘されています。

 

地震発生から丸1日が経った9月2日のお昼頃には、上野広小路上野駅近辺の線路上では、火の手から逃れてようやく助かったと休む人も多かったようです。しかし、9月2日の午後になってから上野にも猛火が襲いかかります。人々はさらに上野公園へと避難します。上野でも水道栓は使えなかったものの、不忍池がありました。豊富な水を消火に使うことで、上野公園内への延焼を食い止めることができたのです。公園の池が、都市の大規模火災対策に効果的だと示されたのでした。

 

9月3日午前10時頃、上野も鎮火。これで東京の火災はほぼ終息しました。

 

集団の安堵と狂気(1)

大火災が終息して、幾らかの安堵は広がったでしょうが、悲惨な状況が分かってくるにつれ、安堵を追い越して不安が広がっっていったように思われます。

(以下、 寺田寅彦 震災日記より 青空文庫

寺田は、9月2日の周囲の被害の様子も記していました。

御茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。神保から一ツ橋まで来て見ると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎が不思議に残っているのが石垣越しに見える。橋に火がついて燃えているので巡査が張番していて人を通さない。

焦土に焼死体、燃え残っている火、大火災の爪痕は至る所にあったようです。さらに

 帰宅してみたら焼け出された浅草の親戚のものが十三人避難して来ていた。いずれも何一つ持出すひまもなく、昨夜上野公園で露宿していたら巡査が来て○○人の放火者が徘徊はいかいするから注意しろと云ったそうだ。井戸に毒を入れるとか、爆弾を投げるとかさまざまな浮説が聞こえて来る。こんな場末の町へまでも荒して歩くためには一体何千キロの毒薬、何万キロの爆弾が入いるであろうか、そういう目の子勘定だけからでも自分にはその話は信ぜられなかった。

寺田は、浮説を冷静に見抜いていたようです。それでも、これだけの浮説を耳にしたということは、それだけ話す人がいたということです。後にこの浮説を意図的に語る者がいたことや、悲惨な事件も発生したことも明らかになりました。

 

政府の動き

関東大震災で、あまり政府の動きが見えてきません。

「 関東大震災 - Wikipedia 」には

内閣総理大臣加藤友三郎が震災発生8日前の8月24日に急死していたため、外務大臣内田康哉内閣総理大臣を臨時兼任して職務執行内閣を続け、発災翌日の9月2日に山本権兵衛が新総理に就任(大命降下は8月28日)、9月27日に帝都復興院(総裁:内務大臣の後藤新平が兼務)を設置し復興事業に取り組んだ。

とあります。地震発生当日は、外務大臣内閣総理大臣を臨時兼任していたのも、初動が遅れた一因でしょう。

 

首都機能のマヒ

地震と火災によって、首都機能の維持に必要なシステムも数多く失いました。地震発生後、間もない午後2時半頃には、東京の治安の要であった警視庁が炎上。警察機能を失います。大蔵省・文部省・内務省・外務省等も焼失しています。

 

当時、ラジオはまだ普及しておらず、新聞紙が情報収集の要でしたが、

東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失した。唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。

とのこと。東京日々新聞も、どれだけ避難している人の手に届けることができたでしょうか。東京の情報を得ること、伝えること自体が難しい状況でした。

 

見えにくい実情

震災によって東京が甚大な被害を受け、都市の機能が奪われ、避難生活を強いられる中で、不安と緊張が高まることは理解できます。そこに、どこからの情報かも不明な、伝達で入ってくるセンセーショナルな情報。食料確保の困難さや、暴動の噂、誰かの陰謀、不確かで大き過ぎる被害等、つかの間の安堵から一転、疑心暗鬼になってしまう可能性は否定できません。

 

燃える家の中で、缶詰があったなら、大きな音を出して破裂することもあるでしょうし、井戸に灰が降り注げば水が濁るでしょう、完全に消火できていない場所なら再発火することもあり得ると思います。それらを、爆弾の音だと思ったり、井戸に毒を入れられたのではと考えたり、火をつけられたと勘違いしたりすることも、あり得る気はします。

 

それまで、朝鮮人の虐殺は、上述した様な誤解や、そこから派生した激昂によって、起きたものだと思っていました。学校で習った時、何かのきっかけで人間がパニックになると、とんでもない行動を起こしてしまうとも聞きました。思い込みから地震朝鮮人の仕業と決めつけた結果だろうと考え、虐殺の具体的な内容は知らないままにいたのです。

 

しかし、関東大震災100年の報道等で詳しく知った朝鮮人の虐殺は、そうした自然発生的な勘違い等の域を大きく超えていたと思わざるを得ません。甚大な被害の裏で、悪意や憎悪等が意図的、組織的に、しかも強い力を伴って広範囲に増幅されたとしか考えられないのです。きっかけは映画『福田村事件』公開前に得た情報でした。

 

フィクション映画『福田村事件』

観ることにした経緯

福田村事件を初めて知る

7月だったか、映画の紹介をテレビで観るまで、福田村事件を全く知らずにいました。紹介番組を見たあとでも、すぐには信じられずにいました。でも、検索すると、そこで知ったことが私の知識の基礎になり、映画の観方が変わってしまうように思われ、とにかくまず、ほとんど何も知らないままに映画を観てみようと思いました。それでもいつの間にか、その思いは薄れていきました。

見えない朝鮮人虐殺の実態

8月に入ると、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に今年も小池百合子都知事が追悼文を送らないことがニュースになりました。2016年の式典には追悼文を送っていますから、2017年以降、何かの意図があってそうしているのでしょう。都議会で朝鮮人の虐殺の事実認識について問われたとき、知事は「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」と明言を避けています。

 

この時、従軍慰安婦南京虐殺沖縄戦と同じように、歴史が歪められていきそうな嫌な予感がしました。でもまだ、詳しく知ろうとはせず、再び、映画の公開を待とうと考えたのです。

朝鮮人虐殺の新たな証拠と映画の公開日

8月の終わり頃にも、幾つかの番組で関東大震災100年の報道がされます。NHKの『クローズアップ現代』でも朝鮮人虐殺の新たに見つかった証拠を取り上げていました。中でも当時の小学生が震災1年後に書いたという作文は衝撃でした。災害の様子を書いた文章の中に、こんな内容の記述が見つかったのです。

 

「まるで戦地にいるようでした。通る人通る人皆はちまきをして竹やりを持って、中には本当に切れる太刀を持って歩くのでした。」、「橋を渡って一町ほど行くと朝鮮人が日本人に鉄砲で撃たれた。首を切られたのも見た」、「ちょうせんじんがにげたので みんなおとなのひとは てつのぼうをもって ちょうせんせいばつにいきました。てつのぼうでころしたり、ころしたちょうせんを かんごくまえのうみへ ながしました。」

 

凄惨な様子を見た子どもは何を感じたでしょう。大勢の大人が人を殺す準備をしているのを、或いは殺すところを、子どもが目にする。容易には想像し難い状況です。

 

番組は、映画『福田村事件』にも触れます。東京から30kmも離れた千葉県の旧福田村で、朝鮮人に間違われた日本人が、子どもや妊婦を含めて9人も殺されることに至ったか、加害者の変貌ぶりを描いていると知ります。9月1日に合わせて上映が始まることも知りました。

 

番組の後すぐ、上映館と上映日程を検索しました。映画は単館上映形式で、一斉封切の興行映画と違っていました。その時は自宅と実家の両県に上映予定は見つからず、別の県まで出向くことにしました。

 

福田村事件の概要

100年前、関東大震災が発生した5日後の9月6日、千葉県の福田村で、香川県から来た薬売りの行商団が朝鮮人と疑われ、15人の内、子どもや妊婦を含む9人殺害されたのが福田村事件です。

 

当初は予備知識なしで見るつもりでしたが、テレビでも話題になったので、上に記した程度の知識を持って観ることになりました。

 

映画の背景にあった当時の状況

映画を観て、まず、当時の歴史的な背景が、村人の行動に大きく影響していたのだ思いました。大きく3点に分けて整理してみました。

1.戦争経験者、戦没者遺族、出征兵士の居る家族

平和憲法の下、令和の時代では、戦地に赴いた人はほぼ居ません。でも、1923年(大正12年)には、一定数の戦争参加経験、入隊歴のある民間人がいました。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914年)と、10年に一度は戦争があり、その後、ロシア革命の影響を抑えるためのシベリア出兵(1918年)もありました。戦争や入隊が過去のものではなく、進行形だった時代です。

 

地域には軍隊経験を持つ元軍人により、在郷軍人会が結成されている地域もありました。日清、日露戦争で勝利を収め、日本の世界的な地位を高めた名誉ある元軍人として、地域の指揮権の一端を握っていたケースもあったようです。そして、自身の武勇伝を好んで語る者もいたでしょう。退役後も軍の関係機関と繋がりを持つ人もいたようです。

 

一方で、戦没者の遺族もいました。世間からは名誉の戦死とは言われますが、一家の大黒柱を亡くして、その悲しみを口にもできぬまま、生きていくことに辛さを感じていた家族も会ったでしょう。さらに、徴兵されて出征中にある家族の無事を心中で願う家族もありました。

 

小さな村にも、戦争を巡り、家族の在り様は大きな影響を受けていたと思われます。

2.大正デモクラシー韓国併合

戦争勝利によって、日本の経済は活気づいていました。その中で、労働者として、国民としての権利を求める民主主義運動が広がりつつありました。大正デモクラシーです。

 

これに関する事例として、1911年に社会主義者無政府主義者の検挙・処刑が行われた幸徳(こうとく)事件(大逆事件)がありました。明治天皇の暗殺を企てた明科(あかしな)事件を口実に、全国の社会主義者無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や有期刑判決を下した政治的弾圧・冤罪事件です。(参照:幸徳事件 - Wikipedia )つまり、権力者側には、弾圧や冤罪の経験があったということです。

 

1918年には、米騒動が起きています。その背景には、第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)でコメ消費量の増大をもたらした一方で、工業労働者が増加し、農村から都市部へ人口流出がありました。加えてシベリア出兵(1918年)により、さらに生産労働人口が減少しただけでなく、戦争特需の価格高騰を見越した流通業者や投機筋などが投機や売り惜しみを加速させた結果、米価が暴騰。小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し(当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となりました。富山県で起きた、港に押しかけて船に米を積ませず販売させるなどの行動から、全国に広がり、焼き打ち、打ち壊し、更にはダイナマイトを使った爆弾テロなどの暴動になっていきました。炭鉱等の一部では労働争議にも発展しています。暴動は、警官の出動でも治まらず、軍の出動によって鎮圧される場合もありました。(なお、この年の高校野球、甲子園大会は中止となっている。)

 

それより前、1910年に韓国併合がされています。事実上、朝鮮半島の領有です。この影響で日本内地へ多くの朝鮮人が非常に安い労働力として流入したことによって、内地の失業率上昇や治安が悪化しています。一転して、日本政府は朝鮮人を内地へ向かわせないよう、満洲朝鮮半島の開発に力を入れるとともに、内地への移住、旅行を制限するようになりました。また、朝鮮半島から廉価な米が流入したために米価の低下を招き、その影響で東北地方などの生産性の低い地域では農家が困窮する事態も起きています。

 

思うに、この時代の様相は、外国人労働者を安い労働力として利用する一方で、日本人労働者を派遣社員へと追い込み、生活の困窮が起きている今の時代とそっくりだと思いました。

3.朝鮮に対する不安

戦争の好景気は短い期間で終わり、朝鮮からの安い労働力の流入や場当たり的な投機の影響もあって、失業や米価の低下、高騰など社会が不安定になっていました。徴兵や権力による弾圧の影響もあったでしょう。

 

そして、1919年には、併合した朝鮮で三・一独立運動が起きます。大日本帝国からの独立をめざす運動です。あまり日本では触れられていませんが、日本側は憲兵や巡査、軍隊を増強し、一層の鎮圧強化に乗り出しています。そのときの犠牲者や負傷者、逮捕者、焼かれた家屋や教会、学校の数等日本と韓国との主張にはかなりの差があります。この運動の中に、提岩里教会事件がありました。映画でも触れられています。これは、朝鮮人の暴動により、日本人に犠牲者が出たため、暴徒鎮圧の命令を受けた有田俊夫中尉の指揮によって、男性20余名と妻女1名を集めて射殺または刺殺し、教会を焼き払ったとされる事件です。(参照: 提岩里教会事件 - Wikipedia )

 

しかし、これらの背景には、軍の力にまかせて韓国を併合、支配した日本の政策が大きく影響したと言えるでしょう。

 

集団の安堵と狂気(2)

映画『福田村事件』は森達也監督自身が言うように、フィクションです。言い換えるなら事実を元にしたドラマです。パンフレットに監督の言葉があります。

映画『福田村事件』のパンフレット

ドキュメンタリーにはドキュメンタリーの強さがある。ドラマにはドラマの強さがある。区分けする意味も必要もない。

これに尽きると思います。

 

映画を観て、時代背景を考えた上でこう思っています。

映画『福田村事件』。これは、ある集団が安堵するために組織を利用し、一般人の集団を狂気に落とし込み、悲惨な結果に至った事件を描いたドラマだと。

 

 

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