今日は母の命日でした。もう4年が経ちました。
このブログを始めて約1年の頃です。
現実を受け止め切れず、しばらくの間、ブログにも母のことを書けませんでした。
母は認知症が進行して施設に入り、晩年は私が誰かもわからなくなっていました。そして、風邪をこじらせ、熱が続いて、入院生活を送るようになります。お見舞いに行って私の顔を見ても、誰だかわからない風でした。目を合わせることも難しくなっていました。
目を合わせ手を包んでも貴女は血継ぐ子覚えず明日も来ます
その頃に詠んだ短歌です。熱が下がり切らず、やや高めの状態が続き、毎日のように見舞いに行っていました。
でも、入院中、少し持ち直した頃に一度だけ、母が私を見て、目に涙を浮かべたことがあります。その時、母らしい顔に戻ったのを忘れられません。何かを言いたかった風にも見えましたが、既に言葉を話せなくなっていました。そんな母に、ただ、私は頷くことしかできません。母の思いがわからないのに頷いたのではなくて、(何か伝えたいことがあるだろうことだけはわかったよ)という思いでした。
母が亡くなった日の翌日が通夜でした。葬儀場で母のすぐ隣で、父と並んで寝ていたときです。父の大きないびきと、不意にそれが止まって呻くような声とを繰り返していることに気づきました。その時に、睡眠時無呼吸症候群(SAS)の兆候ではないかと思ったのです。
私の全くの勘違いかも知れません。でも、母が、父のSASを教えてくれたような気がするのです。目に涙を浮かべた時に伝えたかったのはこのことかも知れない、そう思いました。
後に聞いた父の話では、母が認知症になる前、時折に父のいびきに悩まされ、別の部屋で寝たことがあったそうです。通夜でのいびきを聞いていなければ、そんな話にもならなかったでしょう。
もし、母が亡くなるのがもう何か月か遅かったら、コロナ感染の急拡大で、葬儀そのものができなかったかも知れません。そうなると、3分程も息が止まったまま眠る、父のSASに気づけないままいたと思うのです。
母の命日となると、このことを思い出します。
おかげで、父はCPAP治療にも慣れ、不平も不調も口にするものの、そこそこに元気です。今日も母の墓前で久しぶりに私、兄、父の3人で手を合わせた後、カラオケ仲間の忘年会に出かけました。
あれから、無事4年が経ちました。母のおかげだと思います。
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