tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

音楽20.「もしも」の歌の系譜は男女の逆転史

「もしも」で始まる歌と言われて思い出すのはどんな歌がありますか?

 高校時代に二つの歌を知って気になり、それ以前にも「もしも」の歌があったことに気づきます。そして、高校卒業後もその興味は続きました。 

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「もしも」の歌と男女の関係

 

高校時代のもしもの歌

『もしもピアノが弾けたなら』(西田敏行

1981年4月、ドラマ「池中玄太80キロ PART2」の主題歌「もしもピアノが弾けたなら」が主演する西田敏行の歌としてヒットしました。1981年、この歌で紅白歌合戦に出場しています。

出だしの歌詞はこうです。

もしもピアノが弾けたなら 思いのすべてを歌にして 

きみに伝えることだろう 

歌詞で一番印象に残っているのは 、

だけど ぼくにはピアノがない きみに聴かせる腕もない

心はいつでも半開き 伝える言葉が残される

の部分です。

私には何かにつけ、心を全開にして伝えられたと思ったことがありません。

歌では伝える手段が「ピアノ」となっていますが、この部分の歌詞を聞く度、どんな手段でも半開きになってしまうよなぁと思います。

「手紙」、「ブログ」、「発言」、「絵」、「短歌」…、料理やパズルも入りそう。

人によっては、楽器であったり、ダンス、スポーツ、映画、演技、漫才、工芸品、農作物、建築物、論文、様々なサービス、凡そ人が受け取れるあらゆる物が伝える手段となるでしょう。

そこに、心を全開にして表現することも難しいのに、当然その先に全開で伝えることが、どれほどの困難か。一方で、素晴らしい表現があったとしても、受け止める感性の無さも痛感するところ。

歌詞の意図は、ピアノに限らず思いを伝えることの難しさにあるように思います。

 

『もしも明日が…。』(わらべ )

テレビ朝日のバラエティ番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」( 「欽どこ」)の中のユニット、わらべの歌です。1983年12月21日に発売されたこのレコードは、オリコンの集計では97.0万枚売れたそうです。

出だしの歌詞はこうです。

もしも明日が晴れならば 愛する人よ あの場所で
もしも明日が雨ならば 愛する人よ そばにいて

番組では、就寝のタイミングでパジャマ姿で歌っていた記憶があります。

 

 当時、萩本欽一さんの冠番組はどれも人気でした。

欽どこ」とフジテレビ「欽ドン!良い子悪い子普通の子」(「欽ドン」)、TBS「欽ちゃんの週刊欽曜日」(「欽曜日」)の三つの番組の視聴率を合計すると100%を超えたことで話題なったほどです。

 

そんな中、「欽ドン」からは、いも欽トリオ『ハイスクールララバイ』、「欽どこ」からは、わらべ『めだかの兄妹』、と番組で生まれた3人ユニットの歌も人気を博しました。

ただ、後にわらべはスキャンダルに巻き込まれ、『もしも明日が…。』では2人組での発表となっています。この時以降、芸能界のスキャンダルは時に節度を越えて攻撃的に報道されるというイメージができました。

 

そのせいでしょうか、歌詞の「愛する人」が離脱を余儀なくされたメンバーのことに思えるのです。

 

高校時代以前のもしもの歌

『お嫁においで』(加山雄三

1966年6月15日リリース

もしも この舟で 君の幸せ見つけたら
すぐに帰るから 僕のお嫁においで ・・・

今の時代なら「お嫁においで」というタイトルには反発を憶える人も多いでしょう。ただこの時代なら当たり前の表現で、新沼謙治『嫁に来ないか』(1976年)という歌もありました。

『あなた』(小坂明子

1973年12月21日 リリース

もしも私が家を建てたなら 小さな家を建てたでしょう
大きな窓と 小さなドアーと 部屋には古い暖炉があるのよ

当時、男なら「一国一城の主」なって一人前、そんな風潮があったように思います。マイホームが実現可能な夢であり、その夢を具体的に歌ったという印象です。

wikipedia「あなた (小坂明子の曲)」によれば、「1968年から調査の始まったオリコンによれば12曲目にして初の女性作曲家によるミリオンセラーシングル」で「オリコン集計では約160万枚、発売元のワーナーによる発表では200万枚を超える売り上げを記録した」そうです。

歌では、まだ私は家を建てていません。ただ、急速に核家族化が進んだ時代です。歌の大ヒットは、それを後押ししたのか、率先したのかはともかく、多くの人の関心や願いを反映していたと言えそうです。

『まっててごらん』(大杉久美子

1974年1月6日 リリース

もしも小さな小屋の戸が開いたら まっててごらん

ほら あの子がかけてくる

TVアニメのカルピスまんが劇場の一つ『アルプスの少女』のエンディング曲です。

このアニメの成功は、高畑勲(総合演出)と宮崎駿(画面構成)の巨匠二人が関わっていたことも大きな要因だったと思います。

 

宮崎駿さんが関わったNHKアニメ『未来少年コナン』のオープニングテーマ『今地球がめざめる』にも

海はあおく眠り大地に生命芽生え

そして空が そして空があしたを夢みて

ほら 生まれ変わった地球が 目覚めの朝を迎える

 と「ほら」があります。「ほら」の歌の系譜もちょっと気になるところ。

 

ところで、この歌には歌の1番の後、2番の後に歌詞として載っていない歌詞があります。これが気になって気になって仕方ありません。何度も youtube にアップされた動画を聴いて、こんな感じかなと思って書いた歌詞?がこれ。

やわらきわらわきわらやきやわらき わらわきわらやき うぉ~
やわらきわやらき うぉ~ やわらきわやらき うぉ~
やわらきわらわきわらやきやわらき わらわきわらやき うぉ~
やわらきわららき ほぶでぃあほ~

誰か詳しい方がいたら、教えて欲しいです。

『愛よその日まで』(布施明

1980年7月5日 リリース

もしも今から 百年が過ぎ ぼくらによく似た子供たちが

微笑みと歌とを忘れない時 人はみな愛せるかもしれない

劇場版アニメ『ヤマトよ永遠に』エンディングテーマです。

この歌は私の宇宙戦艦ヤマト熱のエンディングテーマともなっています。『アルプスの少女ハイジ』観ていたのですが、同じ時間帯で始まったTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』(1974年)切り替えて夢中になった経緯があります。そして、劇場版『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)で私の思い入れはピークに。その後、新たなテレビシリーズで少しずつ冷め始め、惰性な感じで『ヤマトよ永遠に』を映画館に観に行きました。買ったパンフレットのシーンを真似て絵を描いたりもしましたが、それ以降、興味は持続できませんでした。

やがて、他の人よりやや遅れて『機動戦士ガンダム』に魅かれていったのです。

 

高校時代以降のもしもの歌

 『恋におちて -Fall in love-』(小林明子

1985年8月31日リリース

もしも願いが叶うなら 吐息を白いバラに変えて 
逢えない日には 部屋じゅうに飾りましょう 貴方を想いながら

ミリオンセラーとなり、大ヒットしました。

ダイヤル回して 手を止めた
I'm just a woman  Fall in love

の歌詞が印象に残っています。「ダイヤル回して」は時代を反映しています。黒電話はまだ現役の家庭も多かったですが、新しい電話機としてプッシュ式が広がっていた頃です。

 

以前、記事にした松山千春の『ふるさと』(1981年)

に「急いで捜す公衆電話 百円玉の黄色いやつ」という歌詞があります。長距離電話が可能な黄色い公衆電話にはダイヤル式(1972年以降)とプッシュ式(1975年以降)の両方が出ていました。長距離電話の場合、10円玉を使用すると時間切れの音がすぐに鳴るので落ち着いて話ができず、100円玉が使える電話が重宝されました。また、電話番号を事前に登録していれば、クレジット通話という方法もありました。大学で地元を離れた際、かける側に料金がかからないシステムで苦学生には便利でした。もっとも、テレフォンカードが広く普及すると、緑の公衆電話(1982年以降)が主流になっていくのですがその間にクレジット通話も使わなくなりました。

 

上述したのは公衆電話ですが、1985年の若い女性の一人暮らしと思われる部屋にダイヤル式電話があったかどうかは、やや微妙です。とは言え、この歌はダイヤル式でなければ、かけ始めてから思い直して手を止めるまでの時間が足りない感じになってしまいます。ダイヤル式とプッシュ式の違いを上手く表現していると思います。

 

「I'm just a woman  Fall in love」は当時、その意味がよくわかりませんでした。そんなこともわからないのか?と言われそうで、人に聞けずじまいです。後に「私だって一人の女 恋に落ちるのよ」みたいな感じで捉えたものの、この独り言は、あなた向けか、自分向けか、また、言い訳なのか、落胆なのか、その辺の戸惑いも感じられ、謎として残ったままになっています。

時の流れに身をまかせ』(テレサテン(鄧麗君) )

1986年2月21日 リリース

もしもあなたと 逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか
平凡だけど 誰かを愛し 普通の暮らし してたでしょうか

これも名曲ですね。

気になった歌詞は「普通の暮らし」。普通の暮らしとは結婚して、子どもを産み育てていくことを指しているのだと思いますが、歌の女性はそれを選択せず、あなたを想いそばにいることを望んでいるようです。

1番の歌詞の終わり、

だからお願い そばに置いてね 

いまはあなたしか 愛せない

は、『なみだの操』(殿さまキングス:1973年11月5日 リリース)が思い出されます。

あなたの決してお邪魔はしないから

おそばに 置いて ほしいのよ

お別れするより死にたいわ 女だから

 でも、「そばに置いて」こそ共通していますが、「国連婦人 (女性) の10年」(1976-85)を経たからでしょうか、「いまはあなたしか 愛せない」と「お別れするより死にたいわ」と女性像が違います。

一方、「死にたい」思いが共通する『みちのくひとり旅』(山本譲二:1980年8月5日リリース)では、

ここでいっしょに 死ねたらいいとすがる涙の いじらしさ

・・・(中略)・・・

生きていたなら いつかは逢える夢でも逢えるだろう

と、前向きです。

 

同じ叶い難い恋でも、世に支持される女性の生き様が変化している気がしているように思われます。

え?こじつけてる感じがしますか?まぁ、個人による感想ですが・・・

ただ、この10年後のもしもで始まる歌が・・・

『こんなにあなたを愛しているのに』(シャ乱Q) 

1996年4月24日 リリース

もしもこの愛が ふしだらな愛なら 何も辛くはないのだろう

いつも会いたくて 朝も昼も夜もあなたの名前を呼ぶ

だから今夜はずっとそばにいて どこにも行かないで

 と、男性は未練を吐露して最後には

こんなにあなたを愛しているのにあなたに伝える 手段が無い

と絶望するのです。

この変わり様をみると、「国連婦人 (女性) の10年」の影響と考えるのも不思議ではないと思いませんか?

 

ちなみに、この歌のカップリング曲は『いいわけ』です。

こんな女は 二度といないと 夢中でほれた ほれまくった女に

逃げられたりした

 『もしもピアノが弾けたなら』でも男性の嘆きが歌われていましたが、それとは比べ物にならないほどの悲嘆ぶりです。

歴史を経て逆転した男女関係

たまたま「もしも」で始まる歌がそうなっているだけかも知れません。

でも、歌の印象的な歌詞を古い時代順に繋げるとこうなります。

 

お嫁においで」と呼びかけ余裕しゃくしゃくの男がいた。

私が家を建てたなら」と淡い夢を持つ少女がいた。いつしか、

まっててごらん」と女は黙って待つようになった。一方、

人はみな愛せるかも知れない」と男は未来に希望を求めるが、

伝える言葉が残される」と後悔してばかり。

愛する人よ そばにいて」と女は決意し、電話をかけようとしますが

ダイヤル回して 手を止め」思いは言えないまま。それでも、

いまはあなたしか 愛せない」と強い愛を歌う。なのに、男は

あなたに伝える 手段が無い」と諦めて落胆してしまうのです。

 なんだかいつの間にか女性の方が強くなっている気がしてきます。

 

これらをさらにまとめると、

かつて、余裕しゃくしゃくだった男は、諦めの境地に立ち、

かつて、淡い夢を描いていた女は、あなたしか愛せないと宣言する。

不甲斐なく弱い男と、熱く愛を語る強い女、そんな風に思えてきませんか?

そんなわけで1960年代~1990年代の間に男女関係が逆転したと言えそうに思うのです。

 

ただ「もしも」で始まるの歌は、全体的に今の関係を諦めたくないという未練が強い反面、成就するのがとても難しい愛を歌っていると言えるかも知れません。昔はその難しさを女だけが背負わされていたのですが、50年ほどの間に男にも受け止められないくらいまで大きくなってきたともいえそうです。

 

 

え?

「もしも」し カメよ カメさんよ

この話の繋げ方は強引過ぎ?

いえ、 恋が上手くできないカメの呪いって訳でもないんですけど・・・

 

ブログ2周年を迎えてのご褒美

ここ tn198403s 高校時代ブログ をスタートしたのが2018年12月9日。

早いもので、もう2年となりました。

当初は「私にとって高校時代とは何だったのだろう。」と問い直す自分のためという感じでしたが、半年過ぎから記事の反応をもらう楽しさにも気づき、2年目には「年間100記事」と「年間アクセス倍増」の二つを目標にしました。おかげさまで、「アクセス倍増」は達成できました。「100記事」までは、この記事を含めてあと2つ。程なく100超えもできそうです。

訪問やスターやコメントをいただいたことが大きな励みになりました。

本当にありがとうございます。 

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tn198403s 高校時代blog 開設2周年

 

 

ブログ1周年の記事から

この記事に書いた

あるブログで「自分のブログの一番の愛読者は自分」という言葉に出会いました。これは、一見自画自賛のようにも見えますが、自分が満足できないブログを他の人に読んで欲しいとならないための戒めだと思いました。

自分が楽しめるブログだから読んで欲しい、きっとこれがブログ本来の在り方ではないでしょうか。その上で、自分が楽しめてるならそれでいいとせずに、記事への反応も大事にしていきたいです。

という部分は、現在、私のブログ作成でとても大事なことと思っています。

その上で、ブログの目標を3つ挙げました。

私自身が楽しめるブログにしたいです。

・その楽しみが読んでくれた人にも伝わる表現を工夫したいです。

「人生に無意味な時間は無い」ことに自他共に納得できるブログを目指したいです。 

 大上段に構えてしまってますが、1番目については、今のところ大丈夫かなと。

2番目、3番目は、危なっかしい部分もありそうですが、アクセス数が増加してるのでそれなりにできているのかな?と思っています。

 

「アクセス倍増の達成」の記事から

目標にした数値10000を超えた明確な日時はわかりませんが、11月に入って早々のことでした。記事では

最近は、他の人のブログから刺激を受けて記事を書くことが増えました。言及や企画参加も増えました。高校時代ブログ本来の意図からはずれているのかも知れませんが、これがまた楽しいのです。

と書きましたが、

自分のためだけの記事から、他の人の反応も楽しみになる記事へーー。

そんな感じで、少しブログを書く意味が広がった気がします。

 

この楽しさは高校時代ブログを書いているからのように思えるのです。

このブログがベースにある故の安心感や居直り感と言えばいいでしょうか。私が何を考えてる人なのかは、良くも悪くもブログを見てもらえたらわかってもらえる、或いはあきらめてもらえる。突拍子もないことを書いてしまっても、カメさんだからな~とか、カメさんらしいな~と受け止めてもらえる。そんな感じ。

 

高校時代blogの記事と思えば、表現の枠が狭められている気がする反面、その枠があるからこそ、見えてくるものや、はみ出してみたいことに気づけます。何かにつけて、もの見方や考え方の根っこに高校時代やそれ以前の経験があったと気づくことも多々ありました。

 

高校時代抜きにして今はあり得ない

森 淳(もりすなお) (id:suna0hi) さんの企画、第二期ゲリラブ隊志願者募集(~11/11)で、創作の短編小説?を書きながら、高校時代のことを思い出していました。

 このお話全体を通した一人称の文体は、『あたしの中の……』(新井素子)の文庫版(1981年)に原点があります。(それが男女互いの視点になっているのは、きっと、大ヒットアニメ『君の名は。』の影響)

 

1977年、当時女子高生だった新井素子さんの作品が、第1回奇想天外SF新人賞の佳作入選になりました。「審査員の星新一が絶賛し最優秀作に推したが、小松左京筒井康隆らが目新しい文体に違和感を覚え反対したため佳作となった。」という逸話が wikipedia 「新井素子」に紹介されています。

当時購読していた『SFマガジン』で、あたしの中の……』を知り、すぐさま文庫本を購入。大いに刺激を受け、短編小説を書く一つのきっかけにもなりました。

高校時代、私の豆本風短編小説?はごく限られた数人で回し読みしてくれました。

それが、ブログ仲間の企画に乗っかって書いた作品「好きか嫌いかで言うとありがとう。」のページは、Google アナリティクスを見ると、12月9日までに93アクセス。トップページで読んでくれた人もいるでしょうから、目にしてくれた人は100人を超えてそうです。なんだか、小さい小説の木が一気に枝葉をつけた感じです。

 

このことだけでも、高校時代が今の私に大きな影響を与えているのがわかります。この結論は、ずいぶん前に確認済みですが、それを感じられる一つ一つの記事が積み重っていることに満足感があります。

 

ブログ2周年を迎えてのご褒美

ブログを書く以前、高校時代は成績アップと受験の学習に追われていた感が強く、灰色のイメージでした。大学進学を希望していたものの、高1の時の担任に初めての三者面談で大学進学は無理だと言われ、実際成績も低迷していたのです。

英語のテストで幾度となく赤点をとりました。

数学では的外れな考えで混乱してました。

授業以外でも役に立ててません。

恋と呼べる経験も、本命チョコも縁遠かったです。

ブログを2年続けたからと言って、高校時代にパッとしなかった事実が変わるわけでもありません。

 

それでも記事を振り返れば、そんな中でも自分なりに頑張っていたし、前向きに受け止めて自分の糧にしていたんだなあと、高校時代の自分を褒めたくなります。同時に、ブログを始めたことが、高校時代の自分に褒められてる気もしてきます。

 

「書き続けてきてよかった。」

そんな歯の浮きそうなセリフが、ブログ2周年を迎えた自分へのご褒美と言えそうです。何とも、安上りですけれどね。

 

今後もよろしくお願いします。

 

 

今週のお題「自分にご褒美」

石入り焼そば

もう45年ほども前の話です。
確か、私が小2の冬休み中、ずいぶん寒い日のことでした。


滅多に仕事を休まない母が、高熱で仕事を休むことになりました。
自分で電話をかけたら仮病と思われるかもしれないとのことで、私が母の職場に電話をかけた記憶があります。
後から考えれば、きっと、インフルエンザだったろうと思います。
うつりやすい病気だから母の寝ている部屋に入ってきてはいけないときつく言われていました。
母は朝から食事もとってなかったので、私はふすま越しに「何か食べんといかん。」と何度も話しかけていましたが、
「今は食べれん。」との返事がくるばかりでした。

 

私の心配は募る一方で、半泣きになりながら、兄に「母ちゃんが死んでしまうかも知れん。」と何度も話していました。
その声が母に聞こえたのでしょうか、昼頃になって、ふすま越しに声をかけられ、ふすまを少しだけ開けて話をしました。「焼きそばを買ってきて欲しい。それなら食べれると思うから。」というようなことを言ってくれました。

当時、住んでいた家の近くに、馴染みのお好み焼き屋さんがありました。
そこで作ってもらった焼きそばは、母も好んで食べていたように記憶しています。
お金の入った財布を手にした兄と私は、家を飛び出し近道の空き地を突っ切り、店まで走って行きました。
「早く母ちゃんに食べてもらわんと、母ちゃんが死んでしまう。」
その時は、本気でそう思っていました。
出来上がった熱い焼きそばは透明のパックに入れられ、それをビニル袋に入れて持ちました。帰りも空き地を突っ切って走っていました。
どんどん先を走る兄に「待って~。」と言ったときのことです。
石につまづいたか、凍った地面で滑ったのか、私は大きく転んでしまったのです。
その拍子に、焼きそばは、袋からも、入れ物からも飛び出してしまいました。
どうしていいのかわからないのと、転んで痛いのとが合わさって、大声で泣きました。
「母ちゃんが死んでしまう・・・。」

 

兄は、大丈夫だと言ってくれました。
「食べないよりは、食べた方がいい。食べなかったら死んでしまう。」
それが咄嗟に考えた私と兄の結論でした。
そして、冬の冷たい地面に落ちた焼きそばを手でかき集め、入れ物に戻してそれを袋に入れ、慎重に走りました。
「ほんとにこれを食べて大丈夫かな?」「でも、早く食べないと母ちゃんが死んでしまう。」「正直に話した方が良いかな。」「でもそれで食べてくれなかったら…。」
いろんな思いが交錯していたのは覚えてますが、その焼きそばをどうやって母に手渡したのかは思い出せません。

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小石の混ざった焼きそば

続きの記憶は、ふすま越しに冷たく私を呼んだ母の声からです。
入ってはいけないと言われていた母の部屋に入り、正座をしました。
「母ちゃん、まさか病気なのに、こんな石の入った焼きそばをもらうとは思わなかった。」
母は涙をこぼしながらそんな話をしました。

私がどう答えたのかは覚えてませんが、続いた母の言葉が忘れられません。
「母ちゃんは、焼きそばなら食べると約束したから、今からこれを食べる。そこで見ていなさい。」
そんな言葉です。
でも、言葉以上に脳裏に焼き付いているのは、母がその石入りの焼きそばを力強く噛んで食べている音。
ガリッ。ボリッ。ガリッ。
それを飲み込みます。
ごくん。
そしてまた、
ガリッ!ボリッ!ガリッ!
もう、見てはいられません。聞いてはいられません。
たまらず大声で泣いて謝りました。

でも、母は、「約束は守らんといかん。」と言って食べるのを止めません。
ガリッ!ボリッ!ガリッ!・・・
ガリッ!ボリッ!ガリッ!・・・・・・


後はもう、その音が続くばかりの記憶になっています。
その後、そのことで母に叱られた記憶はありません。
ほどなく母の病気も治っていきました。
その時のことでお腹を壊したこともなかったように思います。

 

成人してから何度かこの話を母にしたことがありますが、
「そんなこともあったなぁ。でも、もう忘れた。」みたいに言われるばかり。
もう母は亡くなっているので確かめようがありません。

兄に聞いても同様で
「あの時は、母ちゃんが死んでしまうと本気で思った。」
とは言うものの、小石を噛む音がどれほど大きかったかははっきりしません。
 
20歳過ぎの頃までなら、稀に飯粒の中に小石が混ざっていて、ガリッと噛んでしまうこともあり、その度思い出していましたが、今はほんとになくなりました。そのせいか、石入り焼そばを思い出すこともずいぶん減ったように思います。


でも、いい加減な気持ちで約束をしてはいけない。

「約束は、石より硬くするもの。」
口ではなく、態度で教えてくれた母に感謝です。
ただ、守れなかった約束は、今まで何度もあります。いえ、むしろ守った約束より守れなかった約束の方が多い気もします。でも、「石にかじりついてでもやる」との言葉は、今なお、言葉ではなく音で感じられるのです。

 

 

今週のお題「感謝したいこと」