tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

母の家計簿から(5) だいぶ痛いようだった

治りが遅い日々

先日、親不知を抜いた後の経過が今ひとつよくありません。

心配した出血は、うっかり強く噛んでしまった1回だけです。でも、痛みの方は食後に発生することが続き、痛み止め薬を毎日、朝、夕と飲んでいます。今日は、試しに朝食後の痛みを我慢してみました。我慢できないほどではなたっので、よくなっていると思ったのですが、昼食後に強い痛みになって薬を服用。

 

その後、病院に行って抜糸。ただ、医師に「傷の治りが遅いですね。まだ、痛むのではないですか?」と聞かれ、「そうなんです。痛み止めも残り2錠なので、追加して欲しいです」と頼みました。さらに、「歯を抜いたために嚙み合わせがズレたのか、頬の内側をよく挟んでしまいます。一度、うっかり強く噛んで血が出ました。」と報告。

「あの親不知はしっかり骨についていましたからね。歯が無くなって骨格自体がズレたかも知れません。」

(え?!)と内心かなり驚きつつ、「慣れてくると噛まなくなりますかね?」と聞くと「多分、大丈夫でしょう。」と、余分な多分つきの返事でした。

 

消毒をしてもらい、痛み止めの追加分をもらって、実家に戻りました。高齢になってからの抜歯は治りが遅いと聞いていましたが、抜く時にスムーズだったこと、上の歯で跡が小さいこと、最初に渡された痛み止めが5回分(2日半)だったことなどから、勝手に1週間もあれば十分だろうと思っていました。抜いたのは10月18日です。明日で1週間になりますが、まだ痛み止めが必要で、2度目の追加でした。

数日前の親不知

1984年の抜歯

高校時代の抜歯は記事にしています。

38年前の親不知

母の家計簿から

今日、歯医者から帰って、母の家計簿を改めて見てみました。高校時代に親不知を抜いたことが書かれてあるか気になったのです。記憶では1984年の1月の終わり頃、大学受験の始まる10日程前でした。

 

ありました。

1984年1月20日の日記欄です。

(私が)、今日歯医者で親知らずを抜いた。だいぶ痛いようだった。

え?!またです。ここでも私の記憶違いが発覚。

高校時代、親不知を抜くことになる経緯に

「痛みは取れますか?」

「これは抜くか、痛みを我慢するかしかないね。」

「試験まで10日もないんです。」

とありますが、母の家計簿によると受験の20日前です。受験シーズンに入る2月に入るまで10日というのを間違って記憶したのかも知れません。

 

ちなみにその翌日、1月21日の日記欄には

今日、(私は)昼までに歯医者に行かなければいけなかったけど、学校があるので行けなかった。1日も休んでないので休むのが惜しいそうだ。

とも。18歳の私、エネルギッシュだったのだと驚きました。それとも当時の治癒能力が高かったのでしょうか。この時に抜いたのは左上の親不知で、まだ歯茎の表面にも出ていない状態でした。先日抜いたのは右上の親不知で、他の歯と同様にしっかり生えて定着した状態でした。親不知の大きさや骨との定着具合等が全然違うでしょうが、痛みをものともしない若さが、今の私からすると眩しいくらい。

 

私の映画手帳から

今度は私の映画手帳を引っ張り出して確認。こっちにもありました。

1984年1月20日

悲しいことである。歯を抜いた。せっかく体が作ったものを。その後、血が止まらなくてこまった。明日も来いと言われたが学校に行く事にした。

そして、その翌週は、高校の期末テストでした。ここで納得しました。試験まで10日もないという記憶は、入試を期末テストに上書きしてしまったのでしょう。それにしても、抜糸後はかなり痛そうながら、医者の指示を断って学校に行っているのには驚きました。

 

私だけかも知れませんが、記憶って思わぬことまで思い出せることがある反面、かなりいい加減に憶えている面もあります。

 

抜歯した後のこと

驚いたのは抜歯した2日後。

1月22日、母の家計簿から

朝、私は大学の入学願書を出しにT市の郵便局まで父の車で送ってもらった後、

朝行ったのでT市でゲームをして帰ったのは5時だった。

ようです。つまり1日中、ゲームセンターで遊んでいたらしいです。

 

1月22日以降、私の映画手帳から

1月22日(日)、入学願書を出した後、

それからT市でゲームをし続けた。これは一つの失敗!

なんですか?これは。入学願書を出したあと、ゲームセンターで遊び呆けていたとは。それも、「一つの失敗」ですから、他の失敗もあった感が漂っています。これはダメでしょう。しかも3日後には高校の期末テストがあるのです。まあ、そのテストの成績は、卒業とほぼ無関係だったでしょうけれど。

 

そして翌1月23日(月)、学校からの帰りに歯医者に行ったようです。

病院(歯)

とだけ。消毒か、確認かでしょうか。

で1月27日(金)の期末テストを受けた帰りに

歯医者で糸を抜き、さらにゲームをした。

とあります。どれだけ遊んでいたのやら。

共通一次試験の自己採点が予想以上に悪く、捨て鉢になっていたのでしょうか。

さらに1月28日(土)、

期末テスト。(受験シーズンに入るため)しばらく学校に行く必要がなくなる。喫茶店で漫画。この日もゲームをする。

まいった。ゲームをよくやっていたという記憶はありましたが、これほどゲームをしていたとは驚きました。もうちょっと勉強していたイメージでした。

 

若さとは

高校時代の親不知を振り返るつもりで、母の家計簿、私の映画手帳を読み返しましたが、自分の都合の悪いことは忘れているものですね。

 

「親に知られることなく生えてくるから親不知」と聞いていましたが、少し違う意味にも思えてきました。乳歯が抜ける頃は親との関係も近く、心配したり喜んだりする親の顔も見ていたでしょう。子も親もその思いは憶えてなくとも感じていたと思います。

 

でも、親不知はある程度親との距離ができた頃の歯です。幼さという頼りなさは、若さという思い上がりに変わり、根拠の無い大丈夫という思いを盾に親の干渉を煩わしく思う頃。今となれば、「親を知らずにいたと知るから親不知」かもと思います。

 

初めて親不知を抜いてから38年後に抜いた最後の親不知。母が亡くなって3年になろうというときに、親知らずな自分に気づくというお粗末さです。

 

「だいぶ痛いようだった」は38年前、歯を痛がる私を見た母の言葉です。でも、それから38年後に見た「だいぶ痛いようだった」の母の文字に、少し心が痛む私でした。

 

 

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