tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn108.「木枯らし一号」と「春一番」

11月に台風が上陸する可能性が出てきました。

上陸する頃には温帯低気圧に変わる見込みではあります。

ともかく、これ以上、災害が起きないことを祈っています。

 

さて、今回の記事ネタも風に関する言葉です。

気象用語にもなっている「木枯らし」について。

「木枯らし一号」はいつ?

木枯らし

風 気象庁 によると

木枯らし :晩秋から初冬にかけて吹く、北よりの(やや)強い風。冬型の気圧配置になったことを示す現象である。凩とも表記する。

とあります。さらに、木枯らし Wikipedia では、

気象庁は、立冬前後に吹く毎年最初の木枯らしを木枯らし一号(こがらしいちごう)として、東京と大阪について発表している。

とのこと。え?東京と大阪だけ?なんで?

木枯らし1号、来るのはいつ?

春一番

木枯らし一号と対になるような言葉に「春一番」があります。気になったので調べてみました。上述の 風 気象庁  を見ると

春一番  : 冬から春への移行期に、初めて吹く暖かい南よりの強い風。
(備考)気象庁では立春から春分までの間に、広い範囲(地方予報区くらい)で初めて吹く、暖かく(やや)強い南よりの風としている。

と、こちらの方が説明文量多いです。さらに 春一番 Wikipedia では

気象台が認定する場面では、毎年立春から春分までの間に初めて吹く暖かい南寄りの強風で、風速の基準もあり、北日本などは対象外となっている。

と。こちらでは、北日本などが対象外とのこと。まぁ梅雨も北海道は対象外で、必要な気象データに地域差があるのはわかりますけどね。

 

しかし、秋から冬に移る頃に吹く木枯らし一号と、冬から春に移る頃に吹く春一番、ちょっと待遇というか、関心の高さに差があります。それが気になって、当初のタイトル「「木枯らし一号」はいつ?」は変更。

 

「木枯らし一号」と「春一番

木枯らし一号の基準

木枯らし一号は、東京と大阪のみ発表されます。

<東京の条件>

1.期間は10月半ばから11月末の間。
2.気圧配置は西高東低の冬型となり、季節風が吹くこと。
3.風向は西北西から北。
4.最大風速はおおむね風力5(風速8 m/s)以上。

<大阪の条件>

1.期間は霜降(10月23日ごろ)から冬至(12月22日ごろ)の間。
2.気圧配置は西高東低の冬型。
3.風向は北寄り。
4.最大風速は8 m/s以上。

として、

以上の条件を満たしたとき、東京は気象庁予報部予報課の天気相談所、大阪は大阪管区気象台気象防災部予報課がそれぞれ発表する。

となっています。

何と、東京と大阪では期間からして、違っているとは知りませんでした。

大阪で冬至までとなれば、すっかり冬になってから発表もありそうです。

「木枯らし一号」は関東地方(東京)と近畿地方(大阪)でしか発表されない。なお、「木枯らし二号」や「木枯らし三号」も起こり得るが、発表は行われない。

1991年に現在の基準が採用され始めた。また、気象庁がいつから「木枯らし1号」についての発表を始めたかについては正確な記録がない。

と、比較的新しい言葉のようです。

( この項での引用 木枯らし Wikipedia

 

春一番の基準

春一番は、

各地方ごと(関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州北部、九州南部・奄美)に条件を定めて認定している。強い風の基準は約7m/s以上のところから10m/s以上のところ(北陸地方)まである。なお、北海道、東北、甲信、沖縄県では春一番の発表は行われていない。

とあり、結構広範囲。こちらも細かい部分で地域差があるようです。関東地方と、九州北部地方(山口県を含む)について紹介。

<関東地方>

1.立春から春分までの間で、
2.日本海に低気圧があり、(発達すれば理想的である)
3.関東地方における最大風速が、おおむね風力5(風速8m/s)以上の南よりの風が吹いて、昇温した場合。

<九州北部地方(山口県を含む)>

1.立春から春分までの間で、
2.最高気温が前日より高くなり、
3.南寄りの風が最大風速で約7m/s以上となること

対象となる期間は同じですが、その他では低気圧の有無や風の強さなど、幾らかの違いがあるようです。

(この項の引用 春一番 Wikipedia )

 

春一番』と「木枯らし」が定着した理由

春一番』(キャンディーズ 1976年)

それはそうと、「春一番」のwiki記事を読んでいて、予想が的中していたことがありました。「春一番」の気象用語が広く認知されたのは、キャンディーズの歌『春一番』の大ヒットが影響していたとのことです。

ヤフーニュース 2019年2月2日の記事では、「キャンデーズがきっかけ 気象庁の『春一番』の情報」には、「気象庁には『春一番』の問い合わせが殺到するようになり、気象庁春一番の定義を決め、昭和26年(1951年)まで遡って春一番が吹いた日を特定し、平年値を作り、『春一番の情報』を発表せざるをえなくなっています。というより、春一番という言葉が浸透したことを利用し、防災情報の充実をはかっています。ヒット曲が気象庁の業務を変えたのです」とある。(引用 春一番 Wikipedia )

うんうん。わかります。気象庁として正式発表するとなると、基準の明確化などは避けられなかったでしょう。でも、春の突風に認知が広がった功績は大きいと思います。

 

検索するとこんな記事も発見。

ここでは、「春一番」の言葉を使い始めたのは、昭和31年(1956年)2月7日から、マスコミに取り上げられたのは、昭和37年(1962年)の「春一番」から、一躍有名になったのは、昭和51年(1976年)のヒット曲からとあります。

 

春一番」正式発表がいつだったのか、明確な記述は見つからなかったのですが、気象データは直近30年のデータから判断すると聞いたことがあります。春一番の発表のため1951年まで遡ったのなら、正式発表は1981年かとも思う一方、1951年は気象庁の台風統計を始めた年でもあり、春一番に必要なデータが残っていた最初の年とも考えられます。

 

このサイトで、各地の春一番の発表基準が表になっているので引用

表 各地の春一番の発表基準

引用元:キャンデーズがきっかけ 気象庁の「春一番」の情報(饒村曜) - エキスパート - Yahoo!ニュース

 

「木枯らし」の定着理由

では、「木枯らし」の言葉が定着した理由は何でしょう?

私なりに考えて、行き着いたのは二つの説。

木枯し紋次郎』(1972年のテレビ番組)と『木枯しに抱かれて』(小泉今日子の歌 1986年)のヒットが関係しているのではないか?と、「紋次郎」説と「抱かれて」説で考えてみました。

 

世に与えた影響では『木枯し紋次郎』の方が大きいと思います。子どもの間でものまねが流行り、ざるを頭にかぶり、風呂敷を肩にかけ、棒を刀にした紋次郎ごっこもよく遊ばれたそう。大人の間でも「あっしには関わりのないことでござんす」の台詞は良く使われたようです。

 

対して『木枯しに抱かれて』は、ヒットしたとはいえ、紋次郎程の影響があったかどうかは疑問。なので、「木枯らし」の言葉の定着は、紋次郎説が有力に思うのですが、テレビ放送が1972年なので、それなら「春一番」より早く定着してそうですし、そもそも紋次郎が「あっしには関わりのないことでござんす」と度々言っている以上、採用は難しそう。

 

ということで、このブログでは「木枯らし」の言葉の定着理由は、「春一番」定着後の『木枯しに抱かれて』と仮定しておきます。

 

ともかく今回わかったのは、「木枯らし一号」は、私の住んでいる場所には関わりのないことでござんす。

 

 

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tn107.11月以降に上陸した台風

暑くて長かった今年の夏も、ようやく一区切りした感じ。

 

とは言え…

10月19日、東京では気温30・1度を記録し、観測史上最も遅い真夏日(気温30度以上)となりました。また全国では最高気温31・5度を記録した福島県浪江町や30・6度の埼玉県越谷市など、50地点で真夏日となっています。

 

そして…

それから一週間。さすがにもう真夏日は無いだろうと思いますが、今日はニュースで台風21号が勢力を強めながら沖縄に接近中とのこと。まだまだ海水温が高いことが影響しているかも知れないそうです。

沖縄県接近後の進路はまだ不明ですが、その後東寄りに進路を変えるなら、11月に入ってから日本上陸する可能性も出てきます。(※気象庁の「台風の上陸」の定義は、「本州、四国、九州及び北海道の陸上に台風の中心(気圧の一番低い所)が達したもの」であるため、石垣島など、島の上を通過した場合は「上陸」とならない)

 

で、11月の台風上陸ってあったっけ?と気になって調べてみました。

11月に台風が上陸したことはある?

気象庁の記録では、上陸の最も遅かった台風は1990年11月30日に和歌山県で、2番目に遅いのが1967年10月28日に愛知県でした。もしかすると、今回2番目の記録を更新するかも知れません。

上陸日時が遅い台風

(引用元 気象庁|上陸日時 )

でも、この統計は1951年~2023年とあります。気象庁の気温などの観測データはもっと古く、前身の気象台の時からあるので、それと比べると新しい記録しかありません。何故でしょうか?

 

これも気になったので調べてみると、こんなサイトを発見。

それによると、

気象庁では、台風の定義として北西太平洋(東経180度以西で南シナ海を含む)の熱帯低気圧のうち、最大風速が17.2メートル以上のものとしています。

そして、このような基準が適用された昭和26年(1951年)以降について、台風統計を行っています。

とありました。

 

また、一般財団法人消防防災科学センターにある資料「防災歳時記(54)―「七五三」に台風が上陸した― 」(PDFファイル)にはこう書かれていました。

記録に残っている最も遅い台風では、1894(明治 27)年 12 月 10 日に房総半島に上陸した台風がある。長野県や東北地方で暴風雨となり、11 日の最大風速が福島市で174m/s、日雨量は山形市で 111mm、青森市で52 ㎜という 12 月としては歴代 1 位の風や雨を記録した。山形市では堤防が決壊して一面の湖水となり、富山県では高波が打ち寄せ家屋が流された。

なんと、12月10日に台風が上陸した記録があるとのこと。ただ、最大風速が174m/sはあり得ない数値なので、17.4m/s等の誤りではないかと思います。

 

なお、

明治のころは、台風という呼び名はなく「暴風雨」「大風」「猛烈な低気圧」などと言っていたが、明治の末になって「台風」と名付けられた。 

とも。

 

その上で、1932(昭和 7)年 11 月 14~15 日、関東地方や福島県沖に襲来した台風、通称「七五三台風」を紹介していました。

 

「七五三台風」について、別のリンクも貼っておきます。

ここによると、気象庁統計のない1950年以前の11月以降に上陸した台風は

明治25年(1892年)11月24日に東海地方に上陸した台風。

明治27年(1894年)12月10日に九州南部か11日に関東地方に上陸した台風。

昭和7年(1932年)11月15日に房総半島に上陸した台風。

昭和23年(1948年)11月19日に紀伊半島に上陸した台風。

の4つ。これに1990年11月30日に和歌山県に上陸した台風が加わって計5つ。

今回、台風21号が6つ目となるかも知れません。

 

ただし、1950年以前の台風と呼ばれるものについては、定義があいまいなため、現在であれば上陸時には「温帯低気圧」に当たる場合や、観測網や技術の水準から見逃している可能性などもあって、正確と言えない点は要注意です。

 

今年はこれまでに、能登地震(1月1日)と豪雨(9月21日)を筆頭に、愛媛県の豪雨(7月10日)、秋田県山形県の豪雨(7月25日)、宮崎県日向灘地震南海トラフ地震臨時情報(8月8日)、台風10号(8月28-9月1日)等、人的被害を伴う大きな災害や、災害に備えるための情報が多かったと思います。今回改めて振り返ってみて、既に忘れていたこともありました。ともかく、これ以上、災害が起きないことを祈っています。

 

そして、明日は、総選挙の投票日。

政治が災害支援を強化する方向に変わるよう願っています。

 

 

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授業37.「お日いさんを釣る」お話

もう1年程前になるが、高校時代に使っていた国語の教科書が見つかったことを記事にしている。

すっかり忘れていたことでも、実物を手にするだけで思い出すことが少なくない。さらに、目次を見ただけで、あるいは始めの数行、はたまた、ちょこっとしたメモや落書きで、思い出すことも多い。

 

記事のタイトル「お日いさんを釣る」の言葉は、ムツゴロウの名で世に知れた畑正憲のの言葉である。国語の教科書の『紀州のジプシー』と題する文章中に記されていた。

あらすじ(1)甘い排気ガス

和歌山県雑賀崎(さいがさき)に「紀州のジプシー」と呼ばれる漁の名人中の名人がいる。年に2,3度しか家に帰らず、日本の海を移動する。船にはまず素人を乗せないし、玄人には漁のできる場所(根)を知られるので尚、乗せない。そのため、漁の様子を知る人は少ない。

 

そう知って、畑が情報を集めると、水族館のA先生が乗った話を聞く。畳一枚ほどの大きさの漁場も知っていて、言われた通りに釣り始めるとたちまち魚が釣れたという。それで、紀州のジプシーの船に乗ると決意して、行けば何とかなるだろうと雑賀崎に向かった。

 

しかし、秋祭りに合わせて帰ってきていたジプシーは、すでに港を出た後。次に帰るのは旧の正月だと聞かされる。そこで、白浜に行き、A先生に会う。しかし、一週間遅かった、まだ残っている船もあるが、そこから乗せてくれる船を見つけるのは難しいと言われてしまう。それでも、先生は乗せてくれそうな漁師を一人だけ教えてくれた。

 

とは言え、今、広い海のどこにいるのかも分からない。途方に暮れかけた畑だったがそれでも白浜から海岸沿いに、漁港をしらみつぶしに訪れる覚悟を決める。紀州のジプシーが乗る雑賀船は緑色に塗られ白い線で縁取りされていることを手掛かりに、三度、雑賀船を見つけて便乗を頼むが、全て断られる。そして、紀伊半島を半分ほど回った那智勝浦で、ようやく、朝4時半までに来れるならと便乗の許可を得たのである。

 

ところが。近くに泊まれる宿が無い。しかたなく、一里程離れた温泉宿に、早朝の起床と車の手配をを条件に泊まることにした。しかし、朝三時半に宿を出ようとしたときに宿の車もタクシーも無いと言われる。畑は山の間の暗い道を走り始めた。

 

そして、後ろから車が来る。畑は手を振るが、相手にされず通り過ぎていく。その場面を畑は「甘い排気ガスを残して去り、腹立たしさだけが残った」と記している。

 

「甘い排気ガス」の体験

そうだった。私にはこの言葉を嚙み締めた体験がある。

高校時代の終止符を打つ旅で、佐賀関港から大分に向かうバスのタイミングが合わず、とりあえずバス代を安くするために次のバス停を目指して歩いた。しかし次のバス停までが想像を超えた遠さで、乗るはずだったバスに追い抜かれた体験。

 

自転車通学の途中ならバスの排気ガスに嫌な気持ちになるのだが、この時ばかりは、乗りたい羨望がある故、すがりたいような気持になった。授業では「甘い排気ガス」がどこか浮いた表現に思えたのだが、その時、腑に落ちた。

 

あらすじ(2)お日いさんを釣る

結局、畑が港に着いたのは、約束の時刻を過ぎた4時40分。果たして、まだ待っていてくれた漁師を見つけ、そこで崩れ落ちる。「夕方の4時半と間違えたと思っていたぞ。」と冗談を言いながら、漁師は畑を助け起こして、船に乗る。

 

船内に入る際「靴を脱いで!」と鋭く注意される。漁師にとって船は、狭くても、職場であり、居間であり、寝室。そこに座布団の代わりに清潔な毛布がたたまれているのを見て、畑は漁師の思いを知る。

「昨日のおまえさんの様子を見て、うそを言う人じゃないと思った。だから、とにかく、五時まで待つつもりだった。」

昨日の夕方には雑賀船が6艘あったが、この船だけ出遅れている。1トンに満たない小さな船が海を走る。60歳になる漁師は小柄でも、二人乗るだけで少々窮屈だ。

 

一本釣りの漁師は、釣り糸を上げ下げするところからサゲと呼ばれ、基本的に世襲制である。個人技が要求されるが故、名人芸が生まれ、あだ名が献上される。根(漁のできる場所)も父祖の間のみで代々受け継がれ、港の仲間にも教えない。しかし戦争後(本の発刊は1973年)、この仕事を継ぐ者が減っていて、高齢化が進んでいた。

 

夜明けが近い。その描写が素晴らしいので、その部分を含めて引用しておく。

東の空に浮かぶ雲の輪郭がはっきりして、暗い血の色がにじみ出してきた。不吉な色だ。今、息を引き取りつつある夜が、澄みきった朝のあかね色に濁ったベールをかけているのだ。天頂にはうろこ雲。その奥で輝いていた星が、いつしか姿を消している。風のない、絶好の釣り日和になるだろう。老人は船を止めて釣り支度に取りかかった。

「魚というやつは、お日いさんが上がる時いちばん食うもんだ。予定していた釣り場はまだ遠いけど、ここでお日いさんを釣ろう。」

「お日いさんを釣る」体験

釣りが苦手な私に「お日いさんを釣る」体験は無い。しかし、この表現にはちょっとした憧れがあった。学生時代、海原を進む夜行フェリーから日の出を見た時、少し理解できた気がした。

 

とは言っても、紀伊水道を抜けるフェリーの甲板から見るのと、『紀州のジプシー』のように大海原に浮かぶ小さな船から見るのとでは、同じ日の出でもかなり違っていたと思われる。

お日いさんを釣る イメージ

用意したイメージは、太陽が顔をのぞかせているが、まだ太陽が頭が完全に隠れている時の空や雲は、不吉な色で、怖さすらある。何か得体のしれないことが起きるかもと思う感じ。陸地で見る初日の出との違いは、船が揺れるせいかも知れない。

 

海という地球の表面が波打ち、鼓動している感じ。太陽と一緒に息をひそめて、顔を合わせるタイミングを見計らっている感じ。もし、このまま明るくなり始めた海面を進んで行けば、太陽を迎えられるそうな感じ。そう、なんだか太陽が近い感じがしたのである。

 

四国と本州が橋で結ばれた結果、フェリーから日の出を見る機会はほぼなくなった。それでも、海面間近から、陸の見えない水平線からの日の出には、今なお憧れがある。

 

あらすじ(3)こいつはすごいぞ

畑は、車が手配できずに遅れた結果、船が日の出時刻に予定の釣り場に辿り着けなかったことを気にしていた。しかし、お日いさんを釣るタイミングで釣りを始めて見ると、なかなか好調であった。

 

宿から港まで走っていた畑は、汗で冷えたせいもあって、寒くなっていた。漁師は畑を気遣い、寝るように勧める。畑が船内に入ると、わずかな空間に必要な生活物資が治まっていることに感心する。そして、我々が多くの物資に囲まれ、湯水のごとく物を消費していることに気づき、「もう復元できないほど地球を汚している」と嘆く。そして、畑は体をタオルで拭き、下着を替えて温まる。

 

釣りは好調が続く。魚を釣り上げる度、その名を当てる畑に、漁師は感心する。まはた、あまだい、ひらまさ…。

午後になるとまだいが入れ食いになる。畑にとってこれまでにない大釣り。

「すごいぞ、こいつはすごいぞ」と、漁師にとっても生涯で三番目の大釣りらしい。そして畑を福の神とも言った。

釣り上げた魚はちょっと手当てをして生簀に入れるのだが、畑の手際良さを漁師が褒める。

 

大釣りは、午後五時まで続いた。船の生簀は釣った魚で超満員になった。結果的に、畑の遅刻が滅多にない大釣りを引き寄せたのだ。

 

一人旅は「すごい」の連続

旅行、とりわけ、はっきりとした予定を決めない一人旅には、良くも悪くも「すごい」偶然が多いと思う。

日光東照宮では奥宮の徳川家康のお墓の存在を知り、結局4時間くらい歩き回った。埼玉県、川越喜多院の五百羅漢では、十二支の動物と一緒にいる羅漢や自分に似た羅漢を探すべく、数時間かけて見て回った。金沢では、兼六園の早朝無料開園を知って、翌朝は4時に起きて、金沢城を横目に兼六園まで歩き、その後近くに古い町並みがあることを知って歩き、その日は15km程歩いている。

 

山梨では、運が良くヒメマスが釣れた時しか食べられないマス味噌を求めて、山道を歩いて店を訪ねたが、閉店間際の時刻になってしまった。しかも、店の主人は出かけていると言う。あきらめようとしたタイミングで、主人がヒメマスを釣って帰ってきた。営業時間は過ぎてしまったが、絶品のマス味噌を食することができた。

 

自分勝手な行動が故、思わぬ出来事に遭遇する確率が上がるのだろうか。一人旅の憧れは社会の先生の話が原点だと思っていたが、『紀州のジプシー』を読み返すと、ここにも強く影響を受けていたのだと思う。

 

このブログでは何度となく、旅の醍醐味を一言で表すなら、「未知との出会い」と書いている。その通りだと思う。そして、「未知との出会い」には「すごい」がてんこ盛りになっているのだろう。

 

あらすじ(4)たちまち袋一杯になった

漁を終えた帰り道、畑は漁師にあだ名を聞いた。漁師はくすくす笑って、「今日は楽しかったよ。一日中話し相手がいるのはいいものだ。」質問をはぐらかし、港に入る。

 

既に他の雑賀船も寄港していた。畑は、お土産がわりのつもりなのか、えその干物(えそは人気が無く、二束三文でしか売れないので、漁師は腹を開いて、船のカンバスに放り投げて干物にし、貯蔵食糧として、おやつや酒の肴等として食べる)雑賀船の船の衆にねだる。すると、船の衆は新聞にくるんで畑の船に放ってくれた。

 

紀州のジプシー』の最後の一文にはこうある。

「いびつに曲がりくねったえその干物は、たちまち袋一杯になった。」

 

「たちまち袋一杯になった」経験

私は旅先でお土産を買い集めるのはあまり好きではない。たくさんの土産を渡す程、豊富な人間関係を持ち得ていないし、ほんとに良いと思える土産に出会えることも少ないからだ。何より、たくさんの土産は、旅の移動の邪魔になるというイメージが拭えない。それが嫌で人に頼まれて結果、宅配便で送ったこともある。

 

紀州のジプシー』の「たちまち袋一杯になった」は、単に土産がたくさんできたことを書きたかった訳では無いはず。文中、雑賀船の漁師たちが素人を船に乗せたがらないこと、畑自身、何度となく便乗を断られたこと、孤独に漁をする話などを書いてあり、人情味のない、ぶっきらぼうな漁師というイメージを読者に与えたくなかったのも理由の一つだろう。

 

一声かければ、袋一杯になったのは、えその干物だけではなく、漁師たちの心意気だと思う。漁に真剣であるが故、人には寄り付き難い印象を与えているが、それは人情味に薄いとは違うという畑の思いが込められていると思う。私みたいにあれこれ文字にすると却って白々しくなる程、素朴な人情味を、最後の一文に託したに違いない。

 

読み返した今になって、気がついた。

 

教科書に書かれていた問い

教科書には『紀州のジプシー』の後に、[研究]として6つの問いが用意されている。

その中の一つにこうある。

三.「お日いさんを釣る」という言葉に感動したのはなぜか。

恐らく、授業でもこの質問がされたと思う。自分なりにどんな答えを考えたのかも記憶がないが、この言葉を記憶していたのはそのおかげかも知れない。『紀州のジプシー』のタイトルすら失念していたが、「お日いさんを釣る」だけは憶えていた。それ故、この文章をもう一度読みたくなり、それ故、この記事を書いている。

 

それでも、今なお、この問いに対して、理由が上手く言えない。否、なぜ感動したかなんて、理由が言えなくても良いと思う。感動した理由より、高校時代に出会った「お日いさんを釣る」という言葉に、40年未来の私が釣られて、この文章を読み直した。そのことに、感動している私がいる。それで十分。

 

 

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