もう1年程前になるが、高校時代に使っていた国語の教科書が見つかったことを記事にしている。
すっかり忘れていたことでも、実物を手にするだけで思い出すことが少なくない。さらに、目次を見ただけで、あるいは始めの数行、はたまた、ちょこっとしたメモや落書きで、思い出すことも多い。
記事のタイトル「お日いさんを釣る」の言葉は、ムツゴロウの名で世に知れた畑正憲のの言葉である。国語の教科書の『紀州のジプシー』と題する文章中に記されていた。
あらすじ(1)甘い排気ガス
和歌山県の雑賀崎(さいがさき)に「紀州のジプシー」と呼ばれる漁の名人中の名人がいる。年に2,3度しか家に帰らず、日本の海を移動する。船にはまず素人を乗せないし、玄人には漁のできる場所(根)を知られるので尚、乗せない。そのため、漁の様子を知る人は少ない。
そう知って、畑が情報を集めると、水族館のA先生が乗った話を聞く。畳一枚ほどの大きさの漁場も知っていて、言われた通りに釣り始めるとたちまち魚が釣れたという。それで、紀州のジプシーの船に乗ると決意して、行けば何とかなるだろうと雑賀崎に向かった。
しかし、秋祭りに合わせて帰ってきていたジプシーは、すでに港を出た後。次に帰るのは旧の正月だと聞かされる。そこで、白浜に行き、A先生に会う。しかし、一週間遅かった、まだ残っている船もあるが、そこから乗せてくれる船を見つけるのは難しいと言われてしまう。それでも、先生は乗せてくれそうな漁師を一人だけ教えてくれた。
とは言え、今、広い海のどこにいるのかも分からない。途方に暮れかけた畑だったがそれでも白浜から海岸沿いに、漁港をしらみつぶしに訪れる覚悟を決める。紀州のジプシーが乗る雑賀船は緑色に塗られ白い線で縁取りされていることを手掛かりに、三度、雑賀船を見つけて便乗を頼むが、全て断られる。そして、紀伊半島を半分ほど回った那智勝浦で、ようやく、朝4時半までに来れるならと便乗の許可を得たのである。
ところが。近くに泊まれる宿が無い。しかたなく、一里程離れた温泉宿に、早朝の起床と車の手配をを条件に泊まることにした。しかし、朝三時半に宿を出ようとしたときに宿の車もタクシーも無いと言われる。畑は山の間の暗い道を走り始めた。
そして、後ろから車が来る。畑は手を振るが、相手にされず通り過ぎていく。その場面を畑は「甘い排気ガスを残して去り、腹立たしさだけが残った」と記している。
「甘い排気ガス」の体験
そうだった。私にはこの言葉を嚙み締めた体験がある。
高校時代の終止符を打つ旅で、佐賀関港から大分に向かうバスのタイミングが合わず、とりあえずバス代を安くするために次のバス停を目指して歩いた。しかし次のバス停までが想像を超えた遠さで、乗るはずだったバスに追い抜かれた体験。
自転車通学の途中ならバスの排気ガスに嫌な気持ちになるのだが、この時ばかりは、乗りたい羨望がある故、すがりたいような気持になった。授業では「甘い排気ガス」がどこか浮いた表現に思えたのだが、その時、腑に落ちた。
あらすじ(2)お日いさんを釣る
結局、畑が港に着いたのは、約束の時刻を過ぎた4時40分。果たして、まだ待っていてくれた漁師を見つけ、そこで崩れ落ちる。「夕方の4時半と間違えたと思っていたぞ。」と冗談を言いながら、漁師は畑を助け起こして、船に乗る。
船内に入る際「靴を脱いで!」と鋭く注意される。漁師にとって船は、狭くても、職場であり、居間であり、寝室。そこに座布団の代わりに清潔な毛布がたたまれているのを見て、畑は漁師の思いを知る。
「昨日のおまえさんの様子を見て、うそを言う人じゃないと思った。だから、とにかく、五時まで待つつもりだった。」
昨日の夕方には雑賀船が6艘あったが、この船だけ出遅れている。1トンに満たない小さな船が海を走る。60歳になる漁師は小柄でも、二人乗るだけで少々窮屈だ。
一本釣りの漁師は、釣り糸を上げ下げするところからサゲと呼ばれ、基本的に世襲制である。個人技が要求されるが故、名人芸が生まれ、あだ名が献上される。根(漁のできる場所)も父祖の間のみで代々受け継がれ、港の仲間にも教えない。しかし戦争後(本の発刊は1973年)、この仕事を継ぐ者が減っていて、高齢化が進んでいた。
夜明けが近い。その描写が素晴らしいので、その部分を含めて引用しておく。
東の空に浮かぶ雲の輪郭がはっきりして、暗い血の色がにじみ出してきた。不吉な色だ。今、息を引き取りつつある夜が、澄みきった朝のあかね色に濁ったベールをかけているのだ。天頂にはうろこ雲。その奥で輝いていた星が、いつしか姿を消している。風のない、絶好の釣り日和になるだろう。老人は船を止めて釣り支度に取りかかった。
「魚というやつは、お日いさんが上がる時いちばん食うもんだ。予定していた釣り場はまだ遠いけど、ここでお日いさんを釣ろう。」
「お日いさんを釣る」体験
釣りが苦手な私に「お日いさんを釣る」体験は無い。しかし、この表現にはちょっとした憧れがあった。学生時代、海原を進む夜行フェリーから日の出を見た時、少し理解できた気がした。
とは言っても、紀伊水道を抜けるフェリーの甲板から見るのと、『紀州のジプシー』のように大海原に浮かぶ小さな船から見るのとでは、同じ日の出でもかなり違っていたと思われる。
用意したイメージは、太陽が顔をのぞかせているが、まだ太陽が頭が完全に隠れている時の空や雲は、不吉な色で、怖さすらある。何か得体のしれないことが起きるかもと思う感じ。陸地で見る初日の出との違いは、船が揺れるせいかも知れない。
海という地球の表面が波打ち、鼓動している感じ。太陽と一緒に息をひそめて、顔を合わせるタイミングを見計らっている感じ。もし、このまま明るくなり始めた海面を進んで行けば、太陽を迎えられるそうな感じ。そう、なんだか太陽が近い感じがしたのである。
四国と本州が橋で結ばれた結果、フェリーから日の出を見る機会はほぼなくなった。それでも、海面間近から、陸の見えない水平線からの日の出には、今なお憧れがある。
あらすじ(3)こいつはすごいぞ
畑は、車が手配できずに遅れた結果、船が日の出時刻に予定の釣り場に辿り着けなかったことを気にしていた。しかし、お日いさんを釣るタイミングで釣りを始めて見ると、なかなか好調であった。
宿から港まで走っていた畑は、汗で冷えたせいもあって、寒くなっていた。漁師は畑を気遣い、寝るように勧める。畑が船内に入ると、わずかな空間に必要な生活物資が治まっていることに感心する。そして、我々が多くの物資に囲まれ、湯水のごとく物を消費していることに気づき、「もう復元できないほど地球を汚している」と嘆く。そして、畑は体をタオルで拭き、下着を替えて温まる。
釣りは好調が続く。魚を釣り上げる度、その名を当てる畑に、漁師は感心する。まはた、あまだい、ひらまさ…。
午後になるとまだいが入れ食いになる。畑にとってこれまでにない大釣り。
「すごいぞ、こいつはすごいぞ」と、漁師にとっても生涯で三番目の大釣りらしい。そして畑を福の神とも言った。
釣り上げた魚はちょっと手当てをして生簀に入れるのだが、畑の手際良さを漁師が褒める。
大釣りは、午後五時まで続いた。船の生簀は釣った魚で超満員になった。結果的に、畑の遅刻が滅多にない大釣りを引き寄せたのだ。
一人旅は「すごい」の連続
旅行、とりわけ、はっきりとした予定を決めない一人旅には、良くも悪くも「すごい」偶然が多いと思う。
日光東照宮では奥宮の徳川家康のお墓の存在を知り、結局4時間くらい歩き回った。埼玉県、川越喜多院の五百羅漢では、十二支の動物と一緒にいる羅漢や自分に似た羅漢を探すべく、数時間かけて見て回った。金沢では、兼六園の早朝無料開園を知って、翌朝は4時に起きて、金沢城を横目に兼六園まで歩き、その後近くに古い町並みがあることを知って歩き、その日は15km程歩いている。
山梨では、運が良くヒメマスが釣れた時しか食べられないマス味噌を求めて、山道を歩いて店を訪ねたが、閉店間際の時刻になってしまった。しかも、店の主人は出かけていると言う。あきらめようとしたタイミングで、主人がヒメマスを釣って帰ってきた。営業時間は過ぎてしまったが、絶品のマス味噌を食することができた。
自分勝手な行動が故、思わぬ出来事に遭遇する確率が上がるのだろうか。一人旅の憧れは社会の先生の話が原点だと思っていたが、『紀州のジプシー』を読み返すと、ここにも強く影響を受けていたのだと思う。
このブログでは何度となく、旅の醍醐味を一言で表すなら、「未知との出会い」と書いている。その通りだと思う。そして、「未知との出会い」には「すごい」がてんこ盛りになっているのだろう。
あらすじ(4)たちまち袋一杯になった
漁を終えた帰り道、畑は漁師にあだ名を聞いた。漁師はくすくす笑って、「今日は楽しかったよ。一日中話し相手がいるのはいいものだ。」質問をはぐらかし、港に入る。
既に他の雑賀船も寄港していた。畑は、お土産がわりのつもりなのか、えその干物(えそは人気が無く、二束三文でしか売れないので、漁師は腹を開いて、船のカンバスに放り投げて干物にし、貯蔵食糧として、おやつや酒の肴等として食べる)雑賀船の船の衆にねだる。すると、船の衆は新聞にくるんで畑の船に放ってくれた。
『紀州のジプシー』の最後の一文にはこうある。
「いびつに曲がりくねったえその干物は、たちまち袋一杯になった。」
「たちまち袋一杯になった」経験
私は旅先でお土産を買い集めるのはあまり好きではない。たくさんの土産を渡す程、豊富な人間関係を持ち得ていないし、ほんとに良いと思える土産に出会えることも少ないからだ。何より、たくさんの土産は、旅の移動の邪魔になるというイメージが拭えない。それが嫌で人に頼まれて結果、宅配便で送ったこともある。
『紀州のジプシー』の「たちまち袋一杯になった」は、単に土産がたくさんできたことを書きたかった訳では無いはず。文中、雑賀船の漁師たちが素人を船に乗せたがらないこと、畑自身、何度となく便乗を断られたこと、孤独に漁をする話などを書いてあり、人情味のない、ぶっきらぼうな漁師というイメージを読者に与えたくなかったのも理由の一つだろう。
一声かければ、袋一杯になったのは、えその干物だけではなく、漁師たちの心意気だと思う。漁に真剣であるが故、人には寄り付き難い印象を与えているが、それは人情味に薄いとは違うという畑の思いが込められていると思う。私みたいにあれこれ文字にすると却って白々しくなる程、素朴な人情味を、最後の一文に託したに違いない。
読み返した今になって、気がついた。
教科書に書かれていた問い
教科書には『紀州のジプシー』の後に、[研究]として6つの問いが用意されている。
その中の一つにこうある。
三.「お日いさんを釣る」という言葉に感動したのはなぜか。
恐らく、授業でもこの質問がされたと思う。自分なりにどんな答えを考えたのかも記憶がないが、この言葉を記憶していたのはそのおかげかも知れない。『紀州のジプシー』のタイトルすら失念していたが、「お日いさんを釣る」だけは憶えていた。それ故、この文章をもう一度読みたくなり、それ故、この記事を書いている。
それでも、今なお、この問いに対して、理由が上手く言えない。否、なぜ感動したかなんて、理由が言えなくても良いと思う。感動した理由より、高校時代に出会った「お日いさんを釣る」という言葉に、40年未来の私が釣られて、この文章を読み直した。そのことに、感動している私がいる。それで十分。
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