2025年1月17日、阪神淡路大震災から30年を迎えました。2025年は、私が誕生して60年です。この先、私の人生は、震災までより、震災後の方が長くなっていきます。とは言え、私の知識や経験などは、被災地の人と比べれば取るに足らないでしょうけれど。
1985年に知ったこと
1985年の学生時代、私が20歳になって、気づいたことがあります。私が生まれた1965年は、先の戦争が終わってから20年経った年ですが、もし、私が生まれてから20年を遡って生きたなら、終戦の年に行き着くということです。戦後40年の時に気づいて、私の戦後のイメージは大きく変わりました。
過去記事でも少し触れました。
ちょっと考えれば、当たり前の話ですが、それまで終戦は、私が生まれるより20年も前のあまり想像がつかない出来事でした。でも、自分が20歳になって改めて考えてみると、生まれる20年前が想像のつかない程の昔ではないように思われたのです。そして、私の生まれる20年前から生まれるまでの20年はどんな時代だったのだろうと興味を持ちました。特に、1965年頃に20歳だった先達、学生がどのような時代を生き、どんなことを考えていたのか知りたくなりました。
振り返れば、この時にようやく、私は歴史ときちんと向き合い始めた気がします。変な話です。より終戦に近かったはずの高校時代はずいぶん昔だと思っていたのに、大学に入って終戦がそう遠くない昔に感じられたのですから。
文献や過去の新聞などを見ると、否応なく安保闘争の話に行き着きます。安保闘争という言葉は既に知っていましたが、当時の大人や社会に若者が反抗したという程度の知識でしかなかったのです。でも、若者には若者の「戦争を繰り返さない」という思いがありました。もちろん、それは当時の大人も感じていたことですが、そこには微妙なズレもあったようです。端的に言うなら、戦時下を生き抜いた大人と、戦争を知らずに育った若者のズレとなるでしょうか。
そのズレは今なお残っていると感じますが、それでも、そのズレを埋めようとした人は決して少なくなかったです。ある大学教官の話が強く印象に残っています。60年安保闘争の時、これは大きな歴史の転換期になるかも知れないと感じ、当時の資料を残していました。雑誌「週刊アンポ」を手に、当時の若者の思いや行動を語ってくれました。
その時には安保闘争の知識も幾らか増えていた私は、雑誌の話に感激しました。時間をかけて知識を得ても、まだまだ知らないことはたくさんあるし、当時の人の思いを分かったつもりでいても、まだまだ薄っぺらい理解でしかないと知りました。
やがて、私の関心は、戦時下の若者にも広がり、『きけ わだつみのこえ -日本戦没学生の手記』を読むきっかけとなりました。戦後40年の頃に20歳前後だった私が、戦時下に20歳前後だった思いに触れ、同じ20歳として共感するところもありつつ、これほどまでに違う境遇に息を飲みました。
振り返れば、1985年を境にして、少しずつ、戦争の受け止め方が変わっていったと思います。小中高とそれなりに真面目に平和学習も受けていましたが、それらは漠然とした知識でしかなく、自分の生き方とは別次元の話に感じていたのです。
1995年に気づいたこと
そして1995年。私が30歳になる年でした。自分がなりたい者や、なしたいことがおぼろげに見えてきた頃でした。仕事や社会活動、恋愛等、いろんなことに全力投球していた頃。そして1月17日の阪神淡路大震災。
その日、午前7時より前、仕事に向かう車のラジオで地震のニュースを聞きました。被害の第一報は、「屋根瓦が落ちて頭を怪我した人が1名」だったと記憶しています。記憶違いかも知れません。でも、「大きな被害にはなっていないようだ」と、むしろ安堵したのは確かです。
職場に到着してテレビを見て、初めて被害の大きさを知ります。20分休みや昼休みには深刻な火災の状況も報じられていました。どう受け止めればいいのかわからぬまま、とりあえず目の前の仕事をしていた気がします。
その頃、どこだったか、子どもの「テレビが面白くない」と話していたのを憶えています。大きな被害を報じるニュースが続いているからだろうと思ったら「アニメが放送されず、地震や火事のニュースばっかり」だそう。地震の知識も、ニュースの受け止める術もない子どもたちに、何をどう伝えるといいのか、意外と難しそうだと思いました。
私も、子どもの頃から戦争の話にはたくさん触れてきたものの、どこか別次元の話でしたから。
1995年は、地下鉄サリン事件、インターネットの本格的展開等、いろんなことがありました。被爆50周年でもあり、8月の広島の平和集会にも仲間と一緒に参加しました。
これも過去記事で触れたことがあります。
その際、あちこちの戦跡を巡り、語り部の話も聞きました。夏の暑い日で、頭がぼうっとしていたのもあって、十分には聞けていなかったです。それでも、戦後50年経って初めて判明した事実や、この年から語り部に参加した人が少なからずいたこと等、被爆が過去の終わった出来事ではなく、今、生きている人にも影響が続く出来事であることに気づかされました。大学時代には気づかずにいたことです。
それにしても、どうして戦後50年も経ってから、被爆体験を語ろうと考える人がいたのでしょう。一つ思い出したことがありました。大学時代、被爆写真展を企画した時、後輩の一人が「原爆の写真は恐いから嫌だ」と言っていました。怖くても事実を知ってもらうためには必要だと話すと、「原爆の写真が怖いのもあるけれど、それ以上に無理矢理見せられるのが嫌だった」とも。
見る側、聞く側に受け止められる素地が無ければ、伝わりにくいのは当然にも思いました。同時に、話す側、伝える側に、伝えたい思いが不十分であれば伝わりにくいのも当然に思いました。
語り部が被爆体験を語るまでにも、様々な語りにくさに直面したはずです。子どもが被爆二世である故に話しづらかったり、自分の体験を語ることに意味があるのかと疑問に感じたり、語り始めることで何か言われるのではないかと思ったり、何をどう話せばいいのかがわからなかったり。
その人にとって、自身の中の葛藤を昇華して語り始めるまでに、50年という年月が必要だったのかも知れません。子どもが成長して理解してもらえるようになったからかも知れません。それまでも話したいと思ってはいても、機会が得られずいたところ、50年の節目が背中を押してくれたのかも知れません。
どのタイミングで、語りたい、知りたいと思うのか、それは本人以外にはわからないでしょう。
2025年に思うこと
戦後80年
2024年12月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、ノーベル平和賞を受賞しました。戦後80年になろうというタイミングです。快挙だと喜ぶだけではすまされない、これまでの被団協を始めとするさまざまな活動や世界情勢に思いを巡らせずにはいられませんでした。
「日本は世界で唯一の戦争被爆国」という表現を度々耳にします。そこには「もう二度と戦争で核兵器を使ってはいけない」という強い願いも込められているでしょう。広く世界に核兵器廃絶を訴え続けました。国連では、核兵器禁止条約が2017年に採択され、2021年に発効しています。
世界で唯一の戦争被爆国である日本は、この条約をまだ批准していません。今年3月、国連本部で第3回締約国会議が開催予定ですが、日本はオブザーバーとしての参加すら見送る構えです。
去年のNHK朝ドラ『虎に翼』で、原爆裁判が取り上げられました。1955年から8年かかった史実に基づいて描かれています。1963年12月の判決では重要なことが2点指摘されました。世界で初めて原爆による無差別爆撃が当時の国際法から見て違法であること、被爆者への救済が必要であるが政治の貧困を嘆かずにはおられないこと。
当時の「政治の貧困」とはまさにその通りで、政府は判決として被爆者への賠償責任を免れたため、控訴も賠償もしない立場をとりました。この政府の姿勢は、社会から孤立し、差別的な待遇を強いられていた被爆者をさらに追い詰めたと思われます。「日本は世界で唯一の戦争被爆の国」であると同時に「日本は世界で唯一の被爆者差別の国」だと思うのです。その後、世論に押される形で、政府は1968年から消極的ながら支援に乗り出しました。
でも、これについて、ノーベル平和賞の授賞式で被団協の田中熙巳さんが、演説で「もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府はまったくしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。」と述べたように、政府は原爆被害と生み出した責任について認めていないのです。
原爆被害に遭ったのは誰の責任なのか、繰り返さないために何をすべきか、被爆80年となっても、その答えは宙に浮いたままです。
人生60年
私は今年60歳になります。時間を遡って60年生きたとしたら120年前に辿り着くのですから、100年なんてそう遠くない印象になってきました。
ちなみに、120年前の1905年は、1年半に及んだ日露戦争が終結した年です。
映画『二百三高地』やドラマ『坂の上の雲』が思い浮かびます。八甲田山の雪中行軍遭難事件があったのは1903年。
もちろん、映画やドラマ、或いは史料に触れたとしても、当時をどれだけ詳しく知ったと言えるでしょう。また、私の生きた60年の間に起きた事すら、「よく知っている」と言っていいのかも疑問が残ります。
2023年、関東大震災100年について記事にしました。
ここでは、政府が朝鮮人虐殺の責任について曖昧な態度を取り続けていることを指摘しました。「集団の狂気」がなぜ起こったのか。100年前の話でありながら、十分今に通じると思います。
ところで、ずっと引っかかっていることがあります。いつの時代、どの場所でも、人はそれまで知らなかったことを受け止め、次に伝えていく営み引き継ぎ、歴史を形造ってきました。一方で「よく知らないくせに適当なことを言うな」との言葉も度々聞きます。よく知らない者は、沈黙するべきで、歴史から弾かれて仕方のない存在なのでしょうか。
いいえ、歴史から弾かれていい人などいないと思います。
「よく知らない」者はついつい沈黙させられがちですが、本来、良く知らない人にこそ、きちんと知ってもらい、同じ時代を歩むことが大事だと思うのです。
子どもの頃には別世界に思えた戦争が、今も新たに起きています。そこで、幼い子供の命やその親の命も奪われています。戦争をよく知らなくても、目の前で家族が殺される戦争をやめろと訴えるのは、当然の思いでしょう。戦争の理由はよく知らなくても、戦争を止めよと主張するのも当然でしょう。
戦争の理由を詳しく知っているから戦争を肯定する者にこそ、戦争の残酷さを知らないくせに適当なことを言うなと言いたくなります。でも、それでは対立しか生みません。
対立ではなく、互いに理解を深める難しさ。
今なお、痛感します。
ニュースでは、ハマスとイスラエル政府で停戦の合意がされたとのこと。今後はまだ不透明ですが、戦争の終結に向かうことを切に願います。
震災後30年、震災を経験していない親が子を育てる時期に入りました。学校では、震災を体験していない若い教員が、子どもに震災の話をすることが増えているとか。震災をどう伝えるか、さらに難しくなっています。もう震災の話はしなくていい、あまり聞きたくないと思う人も増えているそうです。
でも、「何を伝えたらいいのかわからない」とか、「どう受け止めればいいのかわからない」と悩むのは、阪神淡路大震災に限った話ではありません。先の戦争も、原爆被害も、関東大震災も、いえ、凡そ、人が人に何かを伝えようとするとき、程度の差はあれど、誰もが思うことではないでしょうか。
歴史を紡ぐということ
私自身、戦後80年、人生60年、阪神淡路大震災後30年の今、伝えたいこともその方法も、正直よくわかっていません。でも、私達の先達が伝えようとしてくれたこと、それを私達が十分受けとめられぬままでも伝えようと悩んでいること、次の世代が受け止め切れずに戸惑っていること、その現実こそが歴史を紡ぐ営みにも思います。
恐らく、それはどの世代、時代でも共通しているのではないでしょうか。

戦後80年、人生60年、阪神淡路大震災30年
人は、わからないことはわからないままに、わかったと思うことを伝えることによって、歴史を重ねています。それをやめた時、何だか歴史が途絶えるような気がしてなりません。
相変わらず上手く表現できませんが、伝える続けることの大切さみたいなことを、この数日感じたので記事にしてみました。
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