tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

遊び60. 高校時代に終止符を打つ旅(4)みかんととんこつラーメン

1984年3月30日 みかんととんこつラーメン

みかん

受験仲間のA君、Bさんに会いにC市まで、朝、日豊本線で向かう。

手帳に道中のことを記している。

行きの列車でおばあさんにみかんをもらう。

手帳を見るまで、みかんをもらったことは忘れていた。ただ、列車とみかんの組み合わせで、思い出されるのが芥川龍之介の『蜜柑』だ。中学の国語か道徳で習った話なので、その時も連想したかも知れない。

要約しておく。

横須賀発上り二等客車の隅に腰を下し、後ろの窓枠へ頭をもたせていた芥川龍之介。そこに騒々しく入ってきて前の席に座った十三四の小娘を快く思えずにいた。娘の手には三等の赤い切符があり、二等と三等の区別ができてないことも腹立たしかった。

 

うつらうつらしている内、娘は芥川の隣に席を移して窓を開けようとしていた。列車がトンネルに入る時に窓が開き、車内に煙が充満する。ひどく咳き込む芥川。小娘はそれに気づかず、窓の外のトンネルの闇の向こうをじっと見ている。トンネルを抜けると、貧しい町外れの踏切に通りかかり、そこに3人の男の子がいて、何やら声をあげている。その子らに向かって、小娘は窓から蜜柑を放り投げたーー。

短い話であるが、この話をどう受け止めると良いのか今も謎のままだ。ただ私にとって、忘れ得ない話となっている。

 

旅先では、旅先に住む人の暮らしがある。時に旅する者が、つい「わざわざ来てあげたんだ」みたいな感覚で、そこでの暮らしを軽んじる行動をとってしまうことがある。それは論外として、その暮らしを勝手な想像で見下したり、逆に感心してしまったりするのも失礼な話だと思う。私の場合、つい感心してしまうことが多い。見下すよりは良いように思うが、住む人には単なる持ち上げ話に思われて、信用されないこともあるので要注意である。

 

話が逸れた。

 

※この記事は

の続きです。

みかんととんこつラーメン タイトル用イラスト

受験仲間との再会

A君、Bさんは、以前の記事で

相部屋仲間の一人に、同じ高校から受験に来ている女子がこの旅館にいるとわかった。勢い二人はつき合っているのか?という話が湧いたが、実際のところ、どうだったのか不明。その彼女の相部屋つながりで女子4人が合流し、総勢13人の宴会となる。

と書いた二人である。「つき合っている」の定義は人によってさまざまなので、そこはあまり深入りせずにいた。もっとも、一言くらいは聞いたかも。

 

待ち合わせは早めの時間帯で、ラーメン屋さんが開くまでかなり間があった。再会してすぐ、受験の合否結果を聞いたと思う。みんな不合格だったと記憶している。残念なような安心したような複雑な気持ちだったが、気を楽にして話せるようになったのは確かだ。

 

C市の観光といっても、大したところはないらしい。散歩がてら城山でも行ってみようという話になった。しかし、申し訳ないことに、古い街並みや石垣を見て歩いた気はするが、頂上まで行ったかどうかも記憶が怪しい。ただ、みやげに城山まんじゅうをもらったのは憶えている。結局、お昼までにまだ時間があって、ボーリングをすることにした。今となれば、もっと城山をじっくり見ておきたかったと思う。A君、Bさんはそのつもりで案内してくれていた気もする。

 

二人は、優しく爽やかな人という印象が強い。再会をお願いした時、快諾してくれた。当時、私は旅の計画に舞いあがっていたはずで、実際、強引にこちらの希望を押し付けた気がしないでもない。でも、結果として卒業後のぐだぐだした生活に区切りをつけることができたのは事実で、二人にはとても感謝している。

 

とんこつラーメン

残念ながら、店の記憶はない。とりわけ大きな店でも、有名というわけでもなかったはず。普通のラーメン屋さんだけどと、案内してもらったと思う。九州では、ラーメンと言えばとんこつラーメンだが、それぞれの場所や店で味が違うとも聞いていた。

 

出された初めてのとんこつラーメンの乳白色でとろりとしたスープは衝撃だった。スープ表面に油の円形がぽつぽつとあり、よく見るとゴマから出ているようだ。スープが白いせいかやや黄色く感じた麵は、細く真っすぐだ。香りも食欲をそそる。スープは一口飲むと予想以上に濃厚ながら、見た目と違って脂っこさが少ない。

 

とにかく、絶賛した。目を丸くして語ったと思う。A君、Bさん、店長さんが、謙遜するのを振り切ってほめたと思う。ただ、言葉にしないよりは良いだろうが、ほめ過ぎはお世辞やおべんちゃらに聞こえてしまい、興醒めされやすい。その時は上手く感動を伝えられなかった気がする。そこは少し反省している。

 

この時以降、現在に至るまで、とんこつラーメンをあちこちで何度も食べた。おかげでどれがどの店の物か明確に区別できなくなっている。そのため、初めてのとんこつラーメンに紅ショウガややきくらげ等があったかも記憶が曖昧。あの店にもう一度訪れたいと思っているが果たせないままである。

 

そうだ、過去記事に誤りがあった。

高校時代の一品を敢えて挙げるならこれになるだろうか。

として、うどんと納豆とサンドイッチしか挙げていなかった。とんこつラーメンも、ぎりぎり高校時代に食べていたのだ。あとで訂正しておこう。

 

その土地に暮らす人

ラーメン店を出て、駅に向かっている途中、偶然、A君、Bさんの高校の先生に出会った。その時の、まるで友達に会ったかのような二人の感じが何だか羨ましかった。私なら、先生に対してどこか怖さを感じてしまうので、つい緊張する場面である。A君は先生に、ごく簡単に受験で知り合ったと紹介してくれたと思う。

 

先生はびっくりしたような顔をして、

「え?二人と同い年?もっと先輩だと思った。」

みたいに言われたのを憶えている。松山でも「18歳に見えない」と驚かれたが、話のネタにされた気でいた。でも、どうやら、初対面の人には本当に18歳に見えない風貌だったのかも知れない。実年齢より上に見られることはその後も多かった。ありていに言えば「老け顔」なのだろうが、毒気のない「落ち着いてる感じがする」と言い回しをしてくれることが多い。

 

それにしても、先生と生徒のこの穏やかな雰囲気は何だろう。もちろん、受験を終えたからこその和やかさはあったろう。でももし、この先生が私の高1の時の担任だったなら、大学進学の希望を話したときに、笑われることはなかったんじゃないかと思った。だとしたら、もう少し楽な気持ちで勉強できた気もする。いや。これも、旅する者の勝手な想像に違いない。

 

駅まで見送ってくれた二人には、いろんな思いがあったのに、別れる際にはありきたりの言葉しか言えなかった。C市での再会と滞在は、わずか数時間だったが、それを可能にしたのは、それぞれが高校時代を懸命に過ごしたからだ。当時、自覚はしていなかったが、今となれば、高校時代が無駄ではなかったと考えるきっかけの一つになったと思う。

 

家へ

大分市に戻った後、兄との待ち合わせまでゲームセンターで遊んだ。合流したときは兄の先輩も同乗していて、我が家近くまで一緒になる。大分から松山行のフェリーに乗った。松山で降りると、黒い車と黒い服の人が行列を作って迎えていた。兄の車のすぐ後ろの黒い車が近づくと、彼らはお辞儀をしていた。暗くなった頃、適当なレストランに入り、夕食にハンバーグを食べた。その後、兄は夜道を運転し続けた。道路拡張工事をしていた場所で、2車線の道を4車線の道と勘違いして、幾らかの距離を逆走したのを憶えている。恐ろしさと、可笑しさが車内に充満した。

 

1984年3月31日 母の家計簿から

当時のことを、母は家計簿にはこう記していた。

3月27日

○○(私)、今朝松山へ行った。主人が駅まで送って行った。夜、電話があって道後温泉の元湯に入ったそうだ。

驚いたのは、この日、「旅行中の食事代」として5000円を私に出した記録だった。まったく憶えていなかった。この旅行では親から出してもらわないとして計画したはずだ。私からお願いしたのではないと思う。出発が朝早かったにもかかわらず、この日の支出なのは、出る直前に渡されたのだろう。「旅行代」ではなく「食事代」なのも理由がありそうだ。遠慮なくもらったのか、仕方なくもらったのかもわからないが、何だか複雑である。

親の心子知らず、子の心親知らず。

誰を責めるつもりもない。私も母もきっと精一杯のことをしたはずだ。

 

そして、私と兄の帰宅をこう書いていた。

3月30日(実際は3月31日だが、30日の欄に書いていた)

夜中2時に帰って来た。○○(私)と先輩と一緒に帰ったそうだ。

旅は私の貴重な経験になっているが、その全容は誰も知らない。母には、にわとりコッコも、佐田岬で咆哮したことも、大分で警察に職務質問されたことも話していない。仮に話をしていたとしても、母が私と同じ受け止めをすることは難しかっただろう。

 

きっとそれでいい。親の気持ちを知らないから、子どもが挑戦できることもあるはず。また、子どもの思いを知らないから、親は引き止めたり、的外れな応援をしてしまうのだと思う。その過程で、子どもは親の引き止めを振り切る強い思いを蓄えていくのではないだろうか。

 

卒業式後のぐだぐだ生活に区切りをつけようと出かけた旅だったが、そこで、幾らかの自分らしさを見つけた気がする。

 

強調しておくが、この旅で人生がガラリと変わったわけでも、ぐだぐだな生活に終止符を打てたわけでもない。学習成績が急激に上がってくれもしない。ただ、高校時代を終えたと思ったくらいのことだ。

 

母の家計簿には、

3月31日

夜、家族で写真をうつした。

とある。高校時代最後の写真。私、母、兄、父、どんな思いだったろう。

そのときの記憶はなくとも、家族が一緒に過ごした確かな証だ。

 

対して、私の手帳にはただ一言。

ゆっくりする。

ほんとにそれでいいのか?と自分で突っ込みたくなる高校時代最終日であった。