1984年3月29日 国道197号線の旅
海上区間のある国道
海上を繋ぐ国道があるのを知ったのは小学5年の時(1976年)。時間をかけて地図帳を丹念に見て、国道1号線から58号線までを見つけた。しかし、59号線以降が見つけられず、悔しかったものだ。後に、番号が2桁の国道は58号線までで、それ以降は101号線となっていると知る。初代ウルトラマンに、国道87号線に怪獣が降り立ち暴れる話(20話:「恐怖のルート87」)があるが、存在しない国道だとわかって納得していた。
私の高校時代には、まだ四国と本州を繋ぐ橋が無く、国道28号線は明石海峡と鳴門海峡の2か所のフェリーと淡路島を繋ぎ、国道30号線は宇高国道フェリーで繋ぐ等していた。ちなみに国道58号線は、鹿児島から沖縄を繋ぐ国道で、陸上より海上区間の方がはるかに長い。
国道197号線は、高知市と大分市を繋ぐ国道である。私は国道197号線の途中、八幡浜市からバスに乗り、佐田岬半島の三崎町に来た。三崎町から国道九四フェリーに乗って豊予海峡を渡り、佐賀関半島から大分市に至るのだから、その間は197号線の旅である。
(地図は、国道197号 - Wikipedia より)
※この記事は
の続きです。
船上で段々と近づく九州を見ながら、一人興奮していた。197は語呂合わせで「行くな」と読める。「行くなと言われても行くのがこの旅だ」と、闘志満々だった。
この思い込みのおかげで、酷い目に遭うとは、露ほどにも思わずにいた。
次のバス停まで歩こう
佐賀関港に着いた。港のバス停の時刻表を見ると、次の出発までかなりの時間があった。手帳にはこう記している。
そこでバスを待ちかけるが歩く。
歩いて、一つでも先のバス停から乗った方が運賃が安くすむと考えた。197号線を歩くと決めたので、すぐトンネルに入っても怯まない。トンネルの中で歌うほど元気だった。歌詞を間違えての『岬めぐり』も歌ったと思う。トンネルを抜けると海岸に沿ってカーブと上り下りの坂が続く道になる。この海を渡って来たんだと感慨に浸りながら歩く。「前に広がる青い海よ~♪」しかし、進めど進めど、青い海と山に挟まれた道が続くばかりで、民家もほとんど見えてこない。カーブを回ったら、また次のカーブがあり、海と山は見えても、先の見えない道が続く。後ろを向くと、さっき歩いていた道はカーブに隠れている。ガイドブックには載っていないし、どこをどう歩いているのか見当もつかない。もちろん、ケータイで調べられる時代でもなく、頭にぼんやりある佐賀関近辺の地図ではあまりに心許なかった。
ようやく気になった。
「次のバス停ってどこ?」
八幡浜駅から三崎町までなら、たくさんバス停があった。その感覚でいたのが間違いだった。しかし、「行くなと言われても行く旅」である。まだ、誰からも行くなと言われていないのに歩みを止める訳にはいかない。
歩き出してから20分程も経っただろうか。心の折れることが起きる。後ろから来たバスが追い抜いて行ったのだ。佐田岬灯台手前の空き地で乗り合いタクシーを見送ったのとは比にならない寂寥感に襲われた。こうなると、一気に疲れが出る。肩からななめに掛けた3泊分の荷物がやたらと重く感じられた。前も後ろもカーブで先が見えない中、途方に暮れかけていた。
呼び止める
しかし、起死回生の幸運に恵まれる。前からタクシーが近づいて来た。これを逃してはならぬと、両手を大きく振った。一人で手を振って、走るタクシーを止めるのは、人生初であった。運転手さんは少し先でUターンしてから、横に停まってくれた。バスの運賃を安くするつもりで歩いていたのに、タクシーを使うのはなんとも間抜けな話であるが、仕方がない。
しかし「どこまで?」と聞かれて、返事に困った。目指すは大分駅だが、ここからタクシーで行けば、かなり高額になると思われた。少し考えて、「一番近い駅まで。」と答えると、ちょっと怪訝そうな顔をされたが、「それなら幸崎駅ですね。」と応じてくれた。
幸崎駅に着いて時刻表を見ると、ここでも長い時間待たないといけなかった。また、悩む。駅の近辺には、民家も多い。ここからなら、バス停の間隔もそう離れていないだろう。「行くなと言われても行くのがこの旅だ」と思い直して、国道197号線のバス停に向かって再び歩き出した。
呼び止められる
駅を出たすぐだった。「ちょっと、君。」と声がかかる。振り向くとお巡りさんだ。何の警戒心も無く、「はい、何でしょうか?」みたいに返事をした。悪いことをしている自覚は皆無だったので、職務質問されていることにも気づかなかった。
「どこに行くの?」「大分駅近くのホテルです。」
「大分駅に行くのに、何で駅を出てきたの?」「次の発車まで時間があるので、歩けるところまで歩いてから、バスに乗ろうかと思いました。」
みたいな話をしたと思う。さすがに途中で気がついた。
家出少年と思われているかも。とたんに緊張した。親に連絡されると面倒だな、もしかしたら強制的に帰されるんじゃないか等々。
手帳には「警察に注意され冷や汗をかく」とある。
疑いが晴れたのは、とにかく正直に答えていたからだと思う。もしかしたら、タクシーの運転手さんが、念のため通報していたのかも知れない。無理もない。人気のない道を大きな荷物を持って一人で歩き、行き先の駅名も満足に答えられず、しかも着いた駅からすぐ出てきていたのだから。真相は知る由もないが、何にせよ、家に連絡されることも無く、旅を続けられるのは嬉しかった。人生初の職務質問も無事こなすことができた。
バス停に着いた。手帳にはこうある。
ところが、まだ時間があったので再び歩き出したら、バスに追い抜かれ、別のバス停でずいぶん待って大分へー。
この日は、結局どのくらい歩いたのだろう?午前中、佐田岬灯台の遊歩道の往復に加え、国道197号線を計1時間は歩いた。距離にして10km近いかも知れない。大分のホテルに着く頃には、日が暮れて街の灯が灯り出していた。
ちなみに、国道197号線を高知市から八幡浜市まで車で走ったのは約20年後である。
※ 国道197号線は、1984年当時と現在とでずいぶん変わっています。八幡浜市から三崎町へは、「佐田岬メロディーライン」とよばれる半島の尾根を走る快適な道になっています。佐賀関港から大分に続く道もバイパスと長いトンネルができ、港から出てしばらくは海岸が見えません。
旅の最終日前
明日は、もう旅の最終日。
兄からホテルに電話があり、部屋に繋いでもらった。大分に到着した確認と、明日の帰りは兄の帰省する車に便乗するため、少し打ち合わせをした。
また、明日の午前に北国で知り合った受験仲間と再会して、とんこつラーメンを食べるため、私から電話して到着時刻などを話した。
家にも無事であることを伝えた。
夜、比較的遅い時間に、兄からもう一度連絡が入る。
「仕事が終わったから、ドライブでも行こう。」
兄と会うのは正月以来。兄の馴染みの喫茶店や、夜景を見に広い埋め立て地などを回る。明日のこともあるので、それほど長い時間でもなかった。このとき、翌日には会えるのに、兄が仕事の後すぐに私と会おうとしたのが少し不思議だったが、単なる気まぐれくらいに思っていた。
しかし、母が遺した家計簿を見ていた時、私の受験前後に兄が心配して、何度か家に電話していたことを知る。照れくさかったのか、私にはその話をせず、母にだけ聞いていたようだ。何十年も経って、あの日兄がすぐにでも会いたがった理由を得心した気がする。
あの夜、大分駅で待ち合わせをしたものの、駅は思いの外広く、すぐにはお互いが気づけなかった。私が先に小走りしている兄を見つけて声をかけ、何も走って探さなくていいのにと少し笑ったと思う。笑われるべきは、何も知らず呑気だった私の方かも知れない。
もちろん、当時の私はそんなことに気づくはずもなく、ビジネスホテルでありがちなビデオ放映を見てから床に就いた。
「そうだ!とんこつラーメンを食べに九州へ行こう。」
という思いつきから始まった旅も、いよいよ明日、目的を達成できそうだ。
次回、
に続く。