tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

遊び58.高校時代に終止符を打つ旅(2)『岬めぐり』と佐田岬

1984年3月28日 佐田岬を目指して

岬めぐり山本コータロー

当時の八幡浜駅にロータリーがあったのを憶えている。でもgoogle mapのストリートビューを見ると記憶とはずいぶん違っているように思う。無理もない、40年近くも前だ。近くの喫茶店で朝食をとってから、佐田岬の手前の三崎町行のバスに乗り込んだ。

 

時間帯もあったのだろう、バスは立つ人もいてほぼ満員。これは予想外だった。脳内では人の少ないバスに揺られて岬に向かうイメージで山本コータローの歌『岬めぐり』をスタンバイしていたが、満員バスは歌のイメージとは程遠いのでしばらく待機。ただし、歌詞はうろ覚えでサビ部分しか憶えていない。その後、バスが停まる度に人が降りていき、バスの窓から海がちらちら見えるようになった頃には、乗っている客はぐんと減っていた。

 

※この記事は

の続きです。

 

ここで、脳内レコードがスタート。ただし、サビの部分だけ。

岬めぐりの バスは走る

窓に広がる 青い海よ

悲しみ越えて 海を見つめたら

この旅終えて 街に帰ろう

これを何度も何度も再生していた。受験に失敗した悲しみを抱えて、佐田岬に向かう今の自分にぴったりだと思っていた。遠路はるばる訪れて海を見つめれば、やるせなさも消えると思い込んでいた。人生の転機を感じ、気分晴れやかに家に帰れるのだと期待していた。

 

しかし、お気づきの人はいるだろうか。

実は、「悲しみ越えて 海を見つめたら」の歌詞は間違いで、本当は「悲しみ深く 胸に沈めたら」であった。ずいぶん後、大学時代のレーザーディスクカラオケで気づくのだが、このときは疑う余地はなかった。

当時の道は、くねくねと曲がり、坂を上ったり下りたり。既に伊方原発に繋ぐ新しい道ができていたのか、そこを幾らか通ったのかも不明ながら、港町を一つずつ訪れる感じで、バスは揺れに揺れたイメージだ。バスが港町に着くたび乗客が減っていった。

 

三机湾

バス路線の手がかり

佐田岬半島は日本列島で最も細長い半島で東西に40km超になる。リアス式海岸で入り江が多く、漁港が点在している。一方で半島の細い部分は800m程しかない。宇和海に望む漁港から山を一つ越えれば、瀬戸内海の漁港が見えてくるのだ。

 

バスの道は主に半島の南側、宇和海に沿っていたが、山を越えて瀬戸内海側の三机湾を経由した記憶がある。これを手掛かりにバス路線を検索した結果、

buste.in

三崎線(鼓尾経)のバス路線が最も似ていると思われる。

八幡浜駅ー三崎町の路線バス(現在)

港町を一つずつめぐる路線を確認できて嬉しくなった。ただ、今も運行されているかどうかは確認できなかった。ちなみに、バス路線ができる以前は、漁港を繋ぐ船舶が主要な交通手段だったそうだ。

三机湾と真珠湾攻撃

ガイドブックだったかに、三机湾は水深や地形がハワイの真珠湾に似ているため、真珠湾攻撃の極秘訓練基地になったと記されていた。バスから降りることはなかったが、半島の北側、瀬戸内海が見られるので、窓からまじまじと見た。何も見つけられなかったものの、特訓を積んでハワイの真珠湾攻撃に参加し、戦果を勝ち得たであろう兵士達に思いを馳せた。しかし、知らないとは恐ろしい。この時はまだ、基地が太平洋戦争の惨たらしさの証であったと知らずにいた。

 

後に、極秘だったのは10名の若い兵士が2人乗り特殊潜航艇で、真珠湾の米軍艦に体当たり攻撃をかける訓練基地だったからと知る。日本軍は開戦当初から兵士の命を犠牲にする特攻を仕掛けていたのだ。結果9名は戦死(体当たりが成功したかどうかは不明)。1名は艇の故障で座礁して身動きが取れなくなり、日本軍捕虜の第1号となった。真珠湾攻撃の3カ月後、日本では戦死した9名は九軍神として讃えられた。10名が揃っていた写真も、1人だけ消されて報道されている。戦後、九軍神が批判的に語られることもあり、戦死者の名誉のため1966年に「九軍神の碑」が建立される。ここでも、捕虜のことは隠された。生き残った1人は訓練中や捕虜期間中の手記を戦後に本にしたが、ほとんど話題にはならなかった。そして開戦の特攻から80年経った2021年、ようやく「九軍神の碑」の横に建てられた石碑に10人そろった写真が掲げられたのである。

 

人生、何がどう繋がるかわからない。三机は忘れられない地名になった。

参考にしたサイトのリンクを貼っておく。

www.tokai-tv.com

三崎町

本日の佐田岬到着を断念

手帳によれば、出発時に満員だったバスが終点の三崎町に着いたときには3人になっていたとのこと。もうお昼の時間だった。旅館(民宿)の場所はガイドブックに描かれていたがよくわからず、近くに居た子どもに教えてもらった。

 

一番の関心は、佐田岬に向かう乗り合いタクシーがあるかどうかだ。定時運行されてないので、現地で運行の有無を確かめるしかなかった。午後の便があれば、すぐにでも乗って訪れるつもりでいたが、この日の午後の便は無かった。一人でタクシーで行くこともできたが、車から降りた後もずいぶん歩かないと岬には着けない。往復で1時間程はかかるらしい。その間タクシーにずっと待ってもらうわけにもいかない。かと言って、急ぎ足で岬まで往復するのも気が進まない。

 

結局、今日中に佐田岬を目指すのはやめようと決め、遅めの昼食を喫茶店で食べた。しかし、ぽっかり空いた時間は思いの外長く、ぶらぶら散歩がてら小さな町を観光した。その中で、憶えているのがあこう樹だ。亜熱帯性の樹で、どこからどうやってこの地に根を下ろしたのかは知らないが、あこう樹の生える北限らしい。段差のある場所に吸い付くように根を生やし、幹は太く、枝は広く伸びていた。北限と聞くと、何だか先頭で生きているイメージも持てそうだが、私には一番離れた場所で生きているように思えた。端っこにあっても、堂々と生きている姿であった。

旅館(民宿)で

泊り客は私一人だったと思う。部屋はふすまで仕切られた畳部屋で、鍵はない。風呂はやや大きめの湯舟だった。

 

変な話だが、部屋のテレビで見たバルタン星人が記憶に残っている。『ウルトラマン』の再放送で、バルタン星人の大群とウルトラマンが闘うシーンだった。二つのことを思う。一つは特撮技術の古さである。大群が整然と動くシーンにスターウォーズやレイダースに比べてずいぶん茶地に見えた。一方で、こうした古い特撮技術が、今の特撮に続いているのだとも思った。

 

夜は、テレビを見る以外にすることが無かった。宿で夕飯を食べたはずだが憶えていない。明日の朝の早めの時間帯で乗り合いタクシーが運行されると聞いた。岬訪問が実現しそうだと喜んだのは憶えている。

 

1984年3月29日 佐田岬、一人だけの世界へ

複雑な心境

乗り合いタクシーはミニバンを使っていて、数人が乗り合わせた。仕事か釣り客だったか、途中で次々と降りる。ろうか。途中、手描きされた「牛肉・オレンジ輸入自由化反対」の立て看板を幾つか見た。ニュースは聞きかじっていたが、こんな田舎にも影響があるのかと少し驚いた。終点の灯台手前の空き地(舗装無し)まで乗っていたのは私だけ。話では岬の灯台を乗り合いタクシーで訪れるのは少数派らしい。降りて、ミニバンを見送ったときの複雑な心境は今もよく憶えている。

 

「いよいよ、半径数kmの中に私だけの世界に入るのだ。」という高揚感と、「もし、何か起きても誰も来ない。」という寂寥感。でも、こうなった以上、弱音を吐いてもどうにもならない。木々の間を縫うように続く細い道は、それなりに歩きやすかった。ストリートビューを見るとセメント舗装されていたが、当時はどうだったろう?

 

ガイドブック通りとそれ以外と

木洩れ日のさす道を、いろんなことを考えて歩いたと思う。猪が出てきたらとか、本当にこの道で良いのかとか、もし足を踏み外したらとか…。そうする内に、開けた場所に出た。疑心暗鬼になりかけていただけに、ガイドブック通り、夏だけ使うキャンプ場が見えたときは安堵した。海水浴もできるらしい。誰もいない波打ち際まで行ってみる。そこで振り返った時、急斜面をびっしり埋め尽くした低木の群生に息を飲んだ。

 

ただ、実は記憶があいまいになっている。赤い椿の花があちこちに咲いていたのと、花が咲いていなかった両方の記憶がある。恐らく、似た景色や映像をたくさん見たからだろう。手帳には、ただ「木の向きに驚いた」とだけ書いている。

 

低木は皆、強い風の向きにそって伸びたのだろう。それが飛ばされまいと風に抗った結果なのか、風の力になびいた結果なのかはわからない。昨日見た北限のあこう樹に比べれば、一本一本は小さな存在感だ。しかし、急斜面にしっかりと根を生やし、負けじと生きている姿に見えた。ガイドブックには書かれていない、低木が群生する景色を見られたのは幸運だった。自分も強風に負けず立っていたいと思った。

 

一人だけの世界で

佐田岬灯台 イメージ

小高い場所にある灯台は白く眩しく見えた。階段を上り灯台の足元で見た空は青く、海は波を立てキラキラ輝いていた気がする。遠くに九州の佐賀関やその手前の島も見えていた。

周囲に誰もいないのをもう一度確認した。

遠くに船が見えていたと思うが、声は届かないはず。

間違いない。一人だけの世界だ。今、私はその真ん中にいる。

そして、咆哮した。なんと叫んだのか記憶が定かではないが、「ヤッホー」でも「バカヤロー」でもなかったと思う。

その後、しばらく風景を眺めた。場所を変えながら見たと思う。手帳には「崖の上の地蔵に手を合わせた」とあるが思い出せない。

 

空き地への帰り道で一人の旅行者に会った。咆哮を聞かれたのではと思った自分が可笑しかった。案内板にたくさんの落書きを見つけた。予想通り「落書きするな」という落書きもあった。手帳によると、私は「落書きするな」と紙に書いて板の隙間に挟んだようだ。何をやってるんだか。

 

乗り合いタクシーを降りる時に帰りのタクシーの打ち合わせをしておいたのか、電話ボックスがあってそれでタクシーを呼んだのか、記憶が曖昧である。ただ、20~30分タクシーが来るのを待った。駐車場代わりの空き地にはバイクが停まっていた。すれ違った旅行者の物だと思われた。

 

三崎町に戻った後は、船に乗って九州へと向かう。

北国で出会った受験仲間と再会し、とんこつラーメンを食べるのだ。

 

 

次回、

に続く。