tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

遊び57.高校時代に終止符を打つ旅(1)にわとりコッコ

卒業式後のぐだぐだ生活

まんじりと過ごした日々

高校の卒業式を終え、大学受験は全敗に終わり、予備校への入学が決定していた1984年3月下旬。大学への再挑戦は決めていたものの、この先どうなるかわからないという不安も感じていた。4月になれば、予備校が始まり勉強漬けの毎日になるだろう。漠然としたプレッシャーから逃れるような日々を送っていた。

 

映画館は3ヵ月ぶりに訪れた後、2週間で計4回行っている。

高校を訪れ、お世話になったお礼や進路相談もした。そういうのは苦手なのだが、まんじりとした時期だっただけに、何かせずにいられなかったのだと思う。行動も普通ではなかった。高校に行くなら通学と同じように自転車で行けばいいものを、一時間近く歩いてからバスに乗って向かったこともある。

サッカークラブは受験に集中するため高3になる前に辞めたのだが、OB(卒業生+先輩)と在校生とで試合をするからと誘われ、参加した。1年のブランクで体力や俊敏さの衰えを痛感した。

 

中学3年の同窓会もあった。当時の担任の先生も来てくれた。高校受験の際、成績が伸びず心配してくれたのに、私の希望を押し切った経緯もあったので、大学受験失敗と浪人することは話しづらかった。誰も私を責めず、根拠の無い励ましをしてくれた。予想通り、皆、当たらず障らずの話ばかりになった。

 

両親や親戚も、私にどんな話をしたらいいのかと気を遣っていたと思う。3月20日の彼岸に墓参りには参加したものの、その後親戚とは一緒に居づらくて、一人で1時間強歩いて家に帰って来た。

 

あまり意識せずにいたつもりだが、やはり高校時代を終えるのに明確な進路が定まっていない負い目を感じていたのだと思う。絶望はしていなかったが、覇気も無い自分に区切りをつけたかった。悶々とした毎日にあって、何かワクワクするようなことに飢えていた。同じ大学を受験した仲間は今どうしているだろうか?そんなことも考えた。

 

そうだ!とんこつラーメンを食べに行こう

雪国での受験の際、九州から来た受験生の話を聞いて決めたことがある。

ラーメン論争も起きた。これも九州各県で味が違い、一緒にされたくないと言っていたが、基本は豚骨で同じらしい。相手の話し方が上手いのか、私が今までに食べたラーメンより美味しそうに思えた。当時、豚骨ラーメンは食べたことが無く、とにかく汁が白いという豚骨ラーメンを食べると心に決めた。

これを思い出したのが転機になった。

「そうだ!とんこつラーメンを食べに九州へ行こう。」

まだ、とんこつラーメンが日本各地で食べられる時代ではなかった。納豆が東日本の食べ物であったように、とんこつラーメンは九州の食べ物だったのだ。

 

しかし、どうやって行ったものか。受験旅行で多額の費用を出してもらっていたので、これ以上、親に出してもらうわけにはいかない。貯めた小遣いで収まる旅にしたかった。青春18きっぷを使うことも考えたが、一人で5日分を使うのは難しく思われた。

 

地図とにらめっこをしている内、もう一つ行きたい場所ができる。

四国最西端の佐田岬

本屋でガイドブックを探して立ち読み。交通の便が限られていて、ちょっとした秘境のようだと知る。「灯台があるだけで、他に何もない」がある場所。運が良ければ?周囲数kmに渡って一人きりになれる場所。その時の私は受験失敗で人との会話を煩わしく感じたせいもあってか、どうしても行かねばならぬ場所に思えた。

 

人の繋がり

行き先が2カ所決まったものの、まだまだ漠然とした計画でしかなかった。発案がいつだったかは不明だが、あれこれ情報を得ようとする内、不思議といろんな縁が繋がり、旅の輪郭が見えてくる。

 

1.雪国の受験で出会った人に手紙

雪国への受験旅行(3) 受験を終えれば春  に書いたように、受験最終日前夜にちょっとした宴を行っている。そして

宴は早めに終わり、その後は、寄せ書きの時間になった。手帳には「夜遅くまで寄せ書きを書く」と記してあるが、試験最終日前日に何時まで書いていたのやら。のどかな時代で、本名に住所、電話番号のやりとりもした。

この寄せ書きを元に、九州の何人かに手紙を書いた。まだ、会えるかどうかも分からない段階で、お土産用のキーホルダーを3つ買っている。

 

2.兄の帰省

九州行きの計画を練っている時に、大分で働く兄が車で帰省する予定だと聞く。是非その帰りに便乗できないかと相談すると、快諾された。帰りの交通費が浮くことになり、大助かりである。青春18きっぷを使うのはやめた。これで、旅の行程の半分が決まったことになる。

 

3.安い宿

さらに安上りを目指して安い宿を探した。条件にこだわらなければ、以外とあるもので、結果、初のユースホステル(松山)と民宿(佐田岬手前の三崎町)、そしてビジネスホテル(大分)の三つに決定。ユースホステルと聞いて、ピンとくる人は少ないかも知れないが、当時は若者に重宝がられていたと思う。民宿は、一般の家の一室に泊めてもらう感じ。これらの宿は後述するが、この時点で、素敵な旅になりそうな予感満載だった。

宿泊は松山、佐田岬(三崎町)、大分

旅の繋がり

ちょっとした思いつきから始まってはいたが、高校生最後のイベントとして、一人旅はとてもいいアイデアに思えた。自分で計画した旅行の経験が、この旅のハードルを大きく下げてくれたと思う。

 

青春18のびのびきっぷ」の旅

高1の時の友人との二人旅は、とても細かな計画で、公園の通り道まで決めていた。ただし、予定を消化することが目的のようになってしまい、窮屈だった。同行した友人は連れ回される感覚だったかも知れないと反省している。

それでも、初めて自分で移動手段や宿の計画を立てたことは、貴重な経験になった。

 

受験旅行

高3の受験旅行は、日時と場所が決まっている。出願の際に、大学の斡旋で良心的な価格の宿を頼んだこともあったが、移動の計画は自分で立てた。受験用パック旅行を利用する人もいたが、高値の印象があった。移動は指定席、宿では豪華な食事、場合によっては前泊後泊がついていることも。経済面からも利用しようという気は起きなかった。

 

それが功を奏した。見知らぬ人との相部屋に、当初はかなり緊張したが

旅の醍醐味を一言で表すなら、「未知との出会い」だと思う。

ようになった。

 

そして、九州に行く事に決めた理由が

であり、そこで知り合った人に会うという目的もできた。

 

細かいところまで計画を立てた友人との旅行や、移動の少ない受験旅行とは違い、「行ってみないとわからない」ことが多い旅となるが、不安よりワクワクする期待の方が圧倒的に大きかった。

 

1984年3月27日 松山へ

鈍行列車に揺られて

朝早い出発だった。鈍行列車に延々と乗り続ける。予讃線から見える瀬戸内海は、春の光に照らされ奇麗だった記憶がぼんやりあるが、景色に浸ることはできなかった。手帳には「腹を減らし頭ガンガンで松山へ」と書いてある。昼食抜きで列車に揺られていたようだ。それでも、4人席の様子を「子どもと女の子(中3)とじいさん、ばあさんで良い雰囲気だった」とも書いてある。高校合格の話をしていたように思う。

 

道後温泉

夕刻前には松山のユースホステルに着いた。ユースホステルは食事付きの泊まりでも格安料金だが、基本男女別の相部屋になる。部屋に入ると、神戸から来たという人がいた。簡単な挨拶をした後、一緒に道後温泉本館に行こうという話になった。気楽に歩いて行ける距離である。

 

行く途中、道後温泉のどの湯に入ろうかとの話になった。一般に使う湯(神の湯)と、休憩も兼ねた上級の湯(霊(たま)の湯:2、3階での休憩とお茶菓子付き)があるが、私は霊の湯に決めていた。以前、神の湯には入ったことがあるので、今回は道後温泉本館を観光したいという思いだったからだ。手帳によると、霊の湯は1200円。当時、自宅近くの銭湯が200~300円程だったと思うので、破格ではある。それでも神戸の人は、そうだよね、一般のお湯に入るだけなら銭湯と同じようなものだから、ここまで来てケチったら道後温泉に来た意味が薄まるよね、と同意してくれた。

 

話している内に、私が18歳で高校を卒業したばかりだと知ると、神戸の人はかなり驚いていた。一人旅でユースホステルに安く泊って、温泉は高い方に入るなんて、かなり旅慣れしている風に思ったらしい。

 

霊の湯は思ったより狭く感じたが、人が少ないのでのんびりと浸かることができた。夏目漱石の『坊ちゃん』を真似て、少し平泳ぎをしてみた。湯から出た後、急な階段を上がり3階の休憩室に行ったと思う。風の通りの良い部屋で、涼みながらお茶菓子をいただいた。休憩室から見た街は、あちこちに高いビルが見受けられたが、明治の頃には街が一望できたに違いない。

 

ユースホステル

食事のルール

ユースホステルの利用はこの時が初めてである。帰り着いて、しばらくすると夕食の時間になった。基本セルフサービスで、アルコールは無し。高校の学食みたいな感じだったが、食後の片付けの際、自分で食器を洗うのには驚いた。その後、強制ではないが、ミーティングに参加して欲しいとの話があった。

 

全国にあるユースホステル全てが同じではないらしいが、このミーティングが宿泊者の絆を結ぶ交流の時間になっているそうだ。この日のミーティングに参加したのは男女合わせて10人は超えていたと思う。皆20代~30代前半という感じ。リーダーが仕切って、自己紹介をしたり、ゲームをしたりする。学校の宿泊訓練でのゲームやレクリエーションのイメージと言えば伝わるだろうか。そこでも18歳だと言うと、20歳には見えると驚かれた。

にわとりコッコ

ミーティングでは、「にわとりコッコ」を強烈に憶えている。要は「鳩(鳩ポッポ)」の替え歌&振り付きである。一部、歌詞や振りに自信がないが紹介しておく。間違いがわかる人がいれば、是非教えて欲しい。

 

コッコッコ にわとりコッコ

にわとりクソして ケツふかず

それでもたまごは おいしいな

 

これを振り付きで歌うのだ。

 

「コッコッコ にわとりこっこ」の部分は、片手の指をすぼめてくちばしの形を作り鼻先につけ、つんつんする。もう一方の手は尾のイメージで手を広げてパタパタさせる。「コッコッコ」の後に体の向きと手を入れを変えて「にわとりコッコ」をする。

コッコッコ にわとりコッコ

「にわとりクソして」の部分は、両手の脇を締めて羽をパタパタさせる感じで動かしながら、腰をフリフリする。結構難しい。「ケツ拭かず」は両手の羽でお尻を拭こうとするものの、届かずにパタパタさせながら、腰はフリフリ。

にわとりクソして ケツ拭かず

「それでもたまごは」は、卵かけごはんをつくるように、卵を割ってご飯の上に落とすイメージ。「おいしいな」は箸でご飯をかき込む感じ。

それでもたまごは おいしいな

家でにわとりを育て、産んだ卵を食べていた私にとっては当たり前だったが、何人かは卵ご飯が食べにくくなる~とぼやいていた。やや下品なイメージが付きまとう歌詞も、恥ずかしさの一線を乗り越えるには丁度いい試練だったかも知れない。(もしかしたら、歌詞のクソ→フン、ケツ→しりだったかもと思うが、下品な歌詞という印象があるので上記のようにした。)

 

傍目にはバカバカしい限りだろうが、これを参加者全員、男女関係なくまじめに挑戦していると、自然、連帯感のようなものができてくる。最初は丁寧にゆっくり歌と振りを真似るのだが、慣れてくるに従いだんだんテンポが速くなる。そして動きの滑稽さに大笑いしたり、素早く巧みな動きに拍手したり。可愛いにわとり、厳(いか)ついにわとりと様々いて、面白かった。レクの魅力かもしれない。

 

他にもいくつかゲームをしたが、「にわとりコッコ」に勝る印象はない。ユースホステルは今もあるようだが、当時のようなミーティングもやっているのだろうか。

佐田岬を目指して

翌朝はユースホステルを早く出るので、朝食は頼んでいなかった。やや暗い街を通って向かった記憶があるから、松山駅まで歩いたのだと思う。松山駅から八幡浜駅までは国鉄。ちなみに切符は当初から八幡浜駅までの分を買ってあり、松山駅で途中下車をしていた。「途中下車」とは、乗車券の区間内の途中で、改札口の外に出ることを言う。片道の営業キロが一定距離を超える普通乗車券は後戻りしない限り何回でも途中下車ができる上、有効期限も複数日になるので、駅から一度出て宿泊した翌日も使うことが可能なのだ。

 

松山の土産に坊ちゃんだんごを買って乗車。八幡浜駅まではほとんど眠っていたと思う。八幡浜駅で降りたら、朝食をとり、佐田岬手前の三崎町行のバスに乗る予定だった。

 

 

次回に続く。

 

※ この記事は、2023年5つの話題宣言の「トラベル(旅行)」あたる記事です。