tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

映画27.『戦場のメリークリスマス』に描かれた「高雅な性愛」

映画手帳によると1983年12月11日(日)に観た映画です。

高校時代の評価

当時の評価は75点でした。普通の作品が65点。5段階評価では3。良い作品ではあると思いつつ、18歳の私には十分に理解できなかったのだと思います。

映画音楽について

手帳には

まず音楽。次に意外な演技。たけしと龍一に「おっ?!」

と書いていますが、当時、シンセサイザー音楽に関心が強かったことも影響していたでしょう。『炎のランナー』(1981年)で、ヴァンゲリスアカデミー賞で音楽賞受賞するなど、シンセサイザー音楽が世界中に浸透していった頃でした。

戦場のメリークリスマス』も、英国アカデミー賞で作曲賞を受賞するなど、世界的な評価を得ています。

聞き慣れているような、でも初めて聞くような、不思議な音楽でした。 

music.youtube.com

冒頭から流れる音楽によって、すぅ~っと映画の中の世界に導かれました。

 「戦場のメリークリスマス (サウンドトラック) - Wikipedia 」では、

映画自体のある種の非現実感から影響を受けて、西洋から見ても東洋から見ても“どこでもないどこか”、そして“いつでもない時間”をコンセプトに作られた。

とのこと。とても納得のいく説明です。

配役について

主要な配役です。(太字はこの記事での呼び名)

実は、映画を観るまで、デヴィッド・ボウイ坂本龍一ビートたけしの三人の起用は主に話題作りを兼ねているくらいに思っていました。正直、演技にはあまり期待していなかった分、いい意味で驚かされました。

 

以下、後に知ったことも合わせて書きます。

デヴィッド・ボウイ

世界に名を馳せる歌手である上、映画や演劇でも活躍していました。演技には定評もあり、大島監督がブロードウェイの舞台「エレファント・マン」の彼を見て起用を決めたとのこと。セリアズ役には乗り気で、オファーを了承した後、なかなか撮影日程が決まらない中、2年間スケジュールを空けていたそうです。

ストーリー的には主役に当たるのでしょうが、他の役も上手く引き立たせていたと思います。アイドル映画との格の違いを感じました。

坂本龍一

シンセサイザー音楽で注目を浴び、グループYMOイエロー・マジック・オーケストラ)としても活躍。個人での作曲も手掛けていました。俳優としての活動も、映画音楽製作も、今作品がスタートですが、同じ音楽界の一員としてデヴィッド・ボウイと通じるものがあったかも知れません。二人の共演シーンは強く印象に残っています。

ヨノイ大尉役は、自他を厳しく律する冷たい役柄ですが、ストーリーの進行に合わせて少しずつ変化していきます。笑顔は無いながら、どこか優しさを帯びてきたような、その辺の小さな変化は感じられました。

ビートたけし

当時『オレたちひょうきん族』の中で、タケちゃんマンとして活躍中。お笑い芸人のイメージが強く、それを踏襲するのか、払拭するのか、どんな演技になるのかという関心もありました。

ハラ軍曹役は、上下関係には忠実ながら、どこか腹黒さや狡賢さ、偏見を感じる役です。でも、そうした中でもどこか憎めない部分があります。そこが上手く出ていたと思います。

トム・コンティ

今作品でその存在を知りました。ロレンス役ではどこかとぼけたような印象がある一方、不器用ながらも誠実な感じでした。高校時代に観た時はその辺に気づかずにいたのですが、映画を観直すたびにじんわりと存在感が増してきました。

なお、役柄上、日本語を理解して通訳もする人物でしたが、実際には日本語を知らず、台詞は音として憶えて話していたそうです。それがぎこちない日本語として効果を与えていた気もします。

 

ストーリー

<閲覧注意> 以下、重要なネタバレを含んでいます。

 

1942年の日本統治下にあるジャワ島レバクセンバタの日本軍俘虜(ふりょ:捕虜の意味)収容所での話です。

ヨノイ大尉の指揮の下、ハラ軍曹は俘虜のロレンスを通訳にして、俘虜の統制を行っていました。そこに、新たにセリアズが俘虜として収容されることになり、ハラ軍曹とロレンス、ヨノイ大尉とセリアズの2組4人の関係を軸に描かれます。

 

映画冒頭、ヨノイ大尉の不在の折、朝鮮人軍属のカネモトがオランダ人捕虜のデ・ヨンを犯す事件が発覚します。同性の性行為が許せないハラ軍曹は、カネモトに切腹を命じますが、ロレンスはまず事情を確かめてからと当事者の話を聞こうとします。その間にヨノイ大尉が戻り、この件は一時保留になります。この事件は映画の重要な伏線になっています。

 

ヨノイ大尉は、俘虜となったセリアズの軍事裁判に出席。拷問を受けながらもセリアズの毅然とした姿に無実を確信。同時に、好感を持ちますが、結局、セリアズの銃殺刑が確定し、ヨノイ大尉に執行されることになりました。しかし、裁判自体がスパイが誰かを探るものであって、疑いが晴れたセリアズは空砲による執行となり命は助かるのでした。

 

デ・ヨンを救いたいロレンスは、ハラ軍曹はと話す機会を増やします。しかし、俘虜の存在自体を否定するハラ軍曹は、抵抗をせずに被害にあったデ・ヨンを助ける気にはなれません。ただ、仲間を助けようとするロレンスに対して、一目置くようになります。一方、ヨノイ大尉は収容所に送られてきた衰弱したセリアズに対し一定の距離を保ちながらも、彼を気に留めるのです。

 

しかし、そうした優遇的な対応は収容所内に波紋を起こし、4人の立場の違いも浮き彫りにしていきます。デ・ヨンを犯したカネモトの処刑が決まり、立会人として俘虜長、ロレンス、デ・ヨン、セリアズ、など捕虜数名が指名されます。恐らく、ヨノイ大尉は俘虜と統治者の立場を明確にする意図もあったのでしょう。しかし、カネモトが処刑される際、犯されたデ・ヨンも彼の死を悲しんで自害します。立場の違いはあっても思い慕う二人の関係が目の当たりになりました。

 

ヨノイ大尉は武器に詳しい俘虜を欲しがりましたが、俘虜長は情報の提供を拒みます。そんな時、俘虜収容所内で無線機が発見され、疑われたロレンスとセリアズは独房に追いやられました。俘虜と日本軍の溝が深まっていきます。

 

ヨノイ大尉は独房のセリアズを気遣って絨毯を渡していました。そこへ、セリアズを暗殺しようと一人の日本兵が侵入します。日本兵はセリアズの存在がヨノイ大尉の心を乱していると考えたのです。絨毯のおかげで難を逃れたセリアズは、ロレンスと共に脱走することにしました。しかし、ヨノイ大尉に見つかります。セリアズはヨノイ大尉と刀を抜いて対峙。でも、すぐさまセリアズは刀を捨て抵抗しないことを意思表示。そこにハラ軍曹が来て、セリアズを殺そうとしますが、今度はそれをヨノイ大尉が庇います。結局、ロレンスとセリアズは独房に戻されるのでした。

 

その後も無線機の疑いが晴れることは無く、ロレンスはヨノイ大尉から処刑を言い渡されます。ロレンスとセリアズは隣り合わせの独房で、それぞれの昔話を交わしました。不意にハラ軍曹から呼び出され二人は出頭します。ハラ軍曹は酒に酔っていました。処刑を覚悟した二人にハラ軍曹は釈放を告げ、部屋を去るロレンスに鋭い口調で「ローレンス!」と名を呼びます。振り向いたロレンスに、にこやかに「メリークリスマス、ミスター・ロレンス」と声を掛けるのでした。

 

翌日、ハラ軍曹はヨノイ大尉に、無線機を所持していた犯人がわかり、本人も自白したので、即刻処刑、ロレンスとセリアズはともに釈放したと説明します。不審に思いながらも、セリアズも釈放されたと知ったヨノイ大尉は、それを受け入れました。

 

武器に詳しい俘虜の話を拒否し続ける俘虜長に、ある日、ヨノイ大尉の怒りが爆発。俘虜を全員集めるように命令します。俘虜が集まったものの、病人の俘虜がいないと腹を立て、重病者も集められました。その中で重症者が一人命を落とします。それでも、武器に詳しい俘虜を明かさない俘虜長に対し処刑を命じ、ヨノイ大尉自らが刀で斬ろうとするのです。

 

そこへ、セリアズがヨノイ大尉に歩み寄って、抱擁しキスをしました。ヨノイ大尉は驚きのあまり、倒れ込んでしまいました。

 

セリアズの無礼は、首だけ出しての生き埋めの刑となります。夜中、衰弱するセリアズにひっそりと近づいたヨノイ大尉は、彼の髪の毛を一つかみ切り取り、敬礼して去りました。

 

終戦後の1946年冬。死刑判決を受けたハラ元軍曹の執行前日。会いたいと請われたロレンスがハラを訪れます。既に処刑されたヨノイ大尉や衰弱死したセリアズのこと、4年前のクリスマスなど昔談議に花を咲かせます。そして、去ろうとするロレンスに、ハラは鋭い口調で「ロレンス!」と呼びます。振り向いたロレンスに、また、にこやかに「メリークリスマス、ミスター・ロレンス」と声を掛けるのでした。

戦場のメリークリスマス イメージ

観直しての再評価

最近、ネット配信で観て少し評価が変わりました。80点、5段階評価の4としたいです。軍、兵員、俘虜の関係を新たに気づけたからです。

ハラ軍曹の再評価

ハラ軍曹は、俘虜収容所と自身の処刑前日と2回「メリークリスマス」と言っていますが、その心境や背景を考えると、高校時代と違う視点に気づきました。

 

高校時代、ハラ軍曹は身分の上下にこだわり、ヨノイ大尉には忠実である一方で、俘虜を蔑み、軍の力を背景に偉ぶっているという印象でした。そして、ロレンスとセリアズの独断釈放は、自分の力の顕示欲からきていると思ったのです。また処刑前日にロレンスを呼んだのは、私がお前を助けたのだ、お前の生きていることが私の自慢であると満足したかったのだという感じでした。

 

観直した後、上下関係に忠実だったのはハラ軍曹の本意ではなく、戦争によって身につけざるを得なかった処方術だったのではないかと思いました。そして、収容所と処刑前日にサンタを演じたクリスマスの日、ハラ軍曹は「メリークリスマス」の言葉に上下関係も友情も超えた思いをロレンスに託した気がするのです。

 

ラストシーンの屈託のない笑顔。高校時代に観たのと同じシーンなのに、ずいぶんと晴れやかになった印象を受けました。

 

友情を超えた思い

上では「友情を超えた思い」としましたが、実はなかなかいい表現が見つかりません。友愛程の親しさには至らず、まだ距離がある感じ。固い友情だと、互いに強い信頼があるようで違和感があります。「友情を超えた思い」も、相手にどう思われているかは重要事項ですが、相手の思いに関わらず慕う感じです。ただ、思慕や片思い、恋心、性愛となると、盲目的な感じがしてやはり違和感があります。

 

時代に翻弄されて生死を賭していたことが、二人の関係に影を落としています。これは、セリアズとヨノイ大尉の関係にも関連します。時に命を奪おうと、時に助けようとした関係ですが、戦争下でなければ生殺与奪権も上下関係も無かったはずです。時代が違えば各人の関係も違った物になっていたでしょう。

 

抱擁は性行為か

映画が公開された頃、セリアズとヨノイ大尉の抱擁と頬へのキスのシーン等から、一部で「同性愛」を描いていると話題になりました。デヴィッド・ボウイのファンも、坂本龍一のファンもこれを否定していたと思いますが、「抱擁と(頬に)キス」は性行為か否かが問われた記憶もあります。もっとも、カネモトとデ・ヨンの関係が伏線となっていたので、起こるべくして起こった話題、製作側の狙いとも言えるでしょう。

 

当時の私は、「頬にキス」はもちろん「抱擁」も珍しい行為だと思っていました。肩を叩く、握手するのはありでも、抱擁は無いという感じ。抱擁が性行為に当たるかどうかは微妙なところでしょうが、見様によっては性行為と思われることはあり得るかなと。

 

でも観直した後、何故あのシーンがあれほど話題になったのか、逆に不思議になりました。これは日常の生活が変化したのだと思います。サッカーのゴール後の抱擁等、抱擁は珍しいことではなくなり、見慣れたことも関係ありそうです。

 

セリアズの抱擁とキスは、ヨノイ大尉にとって意識を失う衝撃でした。人と人の距離感は、地域文化や時代、個人の経験等で変化します。今の私には、セリアズの抱擁は、純粋にヨノイ大尉に処刑をさせたくなかった故の行為に思えました。ただ、ヨノイ大尉が過剰に反応することは見越していたようにも見えます。戦時下ではなく、指揮官と俘虜の関係でもなかったなら、ヨノイ大尉も意識を失わずに済んだように思います。

 

異常状況のなか

「 戦場のメリークリスマス - Wikipedia 」では

後期の大島作品に底流する「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」というテーマも、登場人物らの同性愛的な感情として(婉曲的ながら)描写されている。

とも。セリアズの「抱擁」と「キス」も、ヨノイ大尉の「髪切り」も、大島監督の「高雅な性愛」の表現と考えられます。ただ、それは「異常状況のなか」だったから、なり得た表現とも言えるでしょう。

 

人間は時代や社会に適応することを優先して、自分の思いを封じ込める能力に長けているのでしょうか。それが良いのか悪いのか、簡単には言えません。

 

最近は、今現在も「異常状況のなか」に思えてきます。ここ数年で、自分の思いを封じ込めるしかない事態がずいぶん増えた気がします。「愛国心」も「国葬による哀悼の意思表示」も、「異常状況のなかで形作られる高雅な性愛」の形かも知れません。今、私たちに必要なのは、今一度「異常状況ではないなかの平凡な性愛」を確かめることではないかとも思うのです。

屈託のない笑顔あふれる日常になることを願って「メリークリスマス」。

 

 

あと、0記事。目標達成。

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<余談 映画の繋げる力>

映画の宣伝というか、メディアでの取り上げ方も記憶に残っています。

 

以前、紹介した『YOU』で、

ビートたけしが出演する際、組んだ騎馬の上に乗って「メリークリスマス、ローレンス、メリークリスマス」と叫びながら登場していた記憶があります。(記憶違いの可能性あり)また、自分が出演していたラジオやテレビ『オールナイトニッポン』や『オレたちひょうきん族』でも、よく映画の話題を取り上げていました。

 

何か狡いという気もしましたが、映画の出演がそれだけ自身に大きな影響を与えていたのだとも思います。自分の演技を「下手」だと言いつつも、ラストシーンの笑顔が評価されたことは嬉しかったのでしょう。お笑いのネタにも使ったし、日本アカデミー助演男優賞にノミネートされて話題にもなったし、芸能ニュースでは盛り上がり過ぎと揶揄されたこともありました。

 

ともかく、この作品が映画監督北野武に繋がっていったことは、作品の大きな功績と言えそうです。