tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

試験当日の朝、カッターで鉛筆を削る

どこまでのことをルーティーンと呼ぶのか不明だが、高校時代にも様々なルーティーンがあった。

 

そうだ、鉛筆削りの話をしよう。

いつ頃からだったろう、鉛筆はカッターで削るようになっていた。理由は、鉛筆が長持ちするを筆頭に、カッターの扱いに慣れる、気持ちを研ぎ澄ませるなど、あれこれくっつけていたと思う。

 

高校時代の筆箱は平べったい缶ペンケースだった。

鉛筆を重ねて入れる厚みはない。

中身は、HBかBの鉛筆3,4本と赤青の色鉛筆、消しゴム、コンパクトなカッター(色は白だったかな?)。シャープペンも入れてたかもしれません。蛍光ペンもあったかな。その辺りは記憶があいまい。

普段なら、鉛筆の尖り具合はあまり気にしていなかった。尖った鉛筆が無くなってしまい授業中にこっそり削ることもあった。

 

でも、定期試験の日は、朝、カッターで鉛筆を削るのがルーティーンであった。試験中に削る時間を惜しんでのことだ。

 

当時は朝型学習で、定期試験当日などは午前2時に起きることもあった。

あまり成績のいい生徒ではなかった。一夜漬けの知識は、一度寝ると忘れてしまうように思われ、中3の頃からこのスタイルにしていた。朝漬けの知識は、一夜漬けより憶えられていることが多いと思う。単なる思い込みかも知れないけれど。

 

苦手な英語では英単語をギリギリまで詰め込むことも珍しくなかった。しかし、綴りを間違う等はいつものことで、朝の支度を始めるギリギリまで焦ってしまうこともあった。

 

だからこそ、試験の日の朝、カッターで鉛筆を削ることに意味があったと思う。

焦る気持ちを断ち切る儀式と言えるかも知れない。

神聖さも神々しさもないが、気持ちを集中させないとうまくいかない。

カッターで鉛筆を削る

右手に持つカッターの刃先を鉛筆の削る場所に当てる。

その刃の峰に鉛筆を握る左手の親指を添える。

右手はカッターの向きや角度を一定にすることに集中する。

そうして、左手の親指で刃先を前に押し出す感じで、

また他の指は鉛筆を引き寄せる感じで、動かす。

すると、削られた木片が弧を描きながら、刃先は前に進んでいく。

そして、刃は鉛筆の芯に当たり、硬い手応えに変わり、より強い力が必要になる。

芯は、ガリリ、ガリと音を立て、砕き削る感じ。芯の黒鉛の粉がこぼれる。

このときの刃の傾きや力の入れ具合で、芯が割れたり欠けたりするので要注意。

ひとまず、芯は荒削り状態。先に木の部分を仕上げた後で芯の形や尖り具合を調整していた。

なお、定期試験とマークシート方式の模試の場合とでは、尖らせ具合が違っていた。

 

仕上がった鉛筆をまじまじと眺めると、たいてい思ったほど形は整ってはいない。数本の鉛筆でもそれぞれに違いがある。でも、それでいいのだと納得する。いや、自分に言い聞かせる。必要以上に整える必要はない。試験で使えればいいのだと。

 

こうした一連の作業で、焦りや不安はずいぶん抑えられたと思う。もちろん、それでテストの点数が上がるわけはないが、なるようにしかならないと割り切る、言い方を変えれば腹を決めることに慣れた気がする。試験当日の朝、カッターで鉛筆を削るルーティーンは、そうした効果を発揮してくれたと思う。

 

とは言え、鉛筆を尖らせるのとは別に、思い悩んだ時の対策としてこんなこともしていたので、偉そうなことは言えない。

 

ルーティーンには、気持ちを落ち着かせる、自分に暗示をかける、奮い立たせる、いつも通りを維持する、等々いろいろな効果があるのだろう。ただ、何をルーティーンにするかは人ぞれぞれ。周囲に迷惑を掛けなければ、多少の格好悪さ、面倒くささがあったとしてもそれに勝る効果が期待できるなら、定着させるのもありだと思う。

 

カッターで鉛筆を削ることはめっきり減ってしまった。でも、時に削るとき、高校時代を思い出す。ブログを書く以前なら陰鬱とした思い出であったが、今は楽しいひと時となっている。

 

 

今週のお題「マイルーティン」

 

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