tn198403s 高校時代blog

「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」この言葉を確かめてみようと、徒然なるまま、私の高校時代(1984.03卒業)の意味を振り返り綴るブログです。

tn66.闘魂を燃やし続けたアントニオ猪木さん

昨日、アントニオ猪木さんの訃報を知りました。心不全のため亡くなったとのことです。79歳でした。

お悔やみ申し上げます。

 

 

プロレス時代の猪木さん

私が小学生の頃から猪木さんはプロレスで大活躍。1972年に新日本プロレスを立ち上げ、藤波辰巳等の日本人勢に加えて、タイガー・ジェット・シン等の外国人勢の人気も相まって、ジャイアント馬場さんが率いる全日本プロレスと共にプロレス人気を牽引していました。当時、二つのプロレス団体の確執はほとんど知らず、区別できていませんでした。

 

1976年、有名なプロボクサー、モハメド・アリとの対戦。土曜日で学校から帰った後テレビ中継を見ていました。子どもの目にも、熱戦には見えませんでしたが、猪木さんを試合が終わるまで応援していました。理解したのは、ルールの異なる格闘技で試合をする難しさ、ボクサーのパンチはレスラーでも恐ろしいということです。クラスメイトは、試合をつまらなかったからテレビを消した、猪木は格好悪かった等批判的な感想が多かったですが、私は猪木が悪いのではなく、ルールが悪かったと反論してました。

 

高校時代にはタイガーマスクが登場(1981年)。ロープを巧みに使い空中から技を繰り出すさまは衝撃的でした。古舘伊知郎さんは、空中殺法を超えた四次元殺法と呼び、プロレス界に新たな流れを作った印象があります。アントニオ猪木さんを凌ぐ人気を博します。一番プロレス人気が高かった頃だったと思います。プロレスのアーケードゲームもありました。コミカルにプロレスラーが動いていたのを憶えています。

 

1983年、猪木さんは試合中、

「当時新鋭のハルク・ホーガンからロープ越しのアックスボンバーを受け、リングサイドに落ちた際に頭を打って脳震盪を起こし、失神KO負け」( アントニオ猪木 - Wikipedia より引用)

を喫します。この試合、テレビで見ていました。ハルク・ホーガンが勝ち誇ったポーズをとる一方、表情は猪木さんを心配していたように思えて、異様な雰囲気でした。見ていて不安になったのを憶えています。

 

その後、タイガーマスクが突如引退。その前後にも、いろんな憶測や内紛、梶原一騎氏とのトラブルなども耳に入るようになり、この頃から段々とプロレスへの関心は弱まっていきました。

 

国会に卍固め

その後、猪木さんはスポーツ平和党を結成し、国会議員に立候補。

1989年、「スポーツを通じて国際平和」を合言葉にスポーツ平和党を結成。第15回参議院議員通常選挙比例区から99万3989票を集めて初当選し、参議院議員となる[43](キャッチコピーは「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」)。史上初のレスラー出身の国会議員となった。( アントニオ猪木 - Wikipedia より引用)

このときは、プロレス人気に乗っかっただけと、かなり冷めた目で見ていました。キャッチコピーも単なるウケ狙い、プロレスと国会議員の二足のワラジも不誠実な態度に思えました。

 

1990年にイラククウェートに侵攻し、湾岸戦争が起こります。日本は欧米の立場に立ち、イラクを非難。クウェートに居た日本人が拘束される事態になりました。人質解放交渉が難航する中、猪木さんはイラクで「平和の祭典」イベントを行うとして個人で費用を出し、人質の家族等とトルコ経由で訪問。この時もまだ、猪木さんの身勝手なパフォーマンスと思っていましたが、イベント後に人質が解放されたのには驚きました。

 

その後、政治家としての一定の評価を得るようになったものの、政党内での内紛、スキャンダルが起きます。結局、選挙も失敗し、スポーツ平和党は解散します。

 

2013年には、『猪木の元気を日本のために活かしたい』として、維新の会から立候補、当選して国政に復帰します。スポーツ交流を軸に独自のつながりで北朝鮮への訪問を重ね、拉致問題解決に向けた取り組みや人的交流を確認し合ったようです。また北朝鮮に限らず、中東諸国、欧米でも猪木さんの人気は強かったようです。

 

どこまでの情報を信じていいのかよくわからないのですが、少なくとも、猪木さんの国際的な活動は単なるパフォーマンスではなく、一般の政治的交渉とは別の糸口があったのかも知れないとも思います。ただ、彼の後継者の話も聞かないので、不明な部分が多い印象はありす。

 

根強い人気

プロレスラーや議員活動の傍ら、バラエティー番組で見かけることも多かったです。

「1、2、3、ダァ~ッ!」(勝利後の決め台詞)

「元気ですかー!元気があれば何でもできる」(現役引退後の決めゼリフ)

など、根強い人気を誇る言葉もあります。

 

また「闘魂注入ビンタ」も話題になりました。 

www.nikkansports.com

 始まったのは90年5月。早稲田予備校での講演会で、猪木さんのファンだったある生徒に「腹を殴らせてください」とお願いされ、ファンサービス旺盛な猪木さんは快く承諾したが、不意打ちで予想外に強烈な一撃に、痛くてとっさに右手の張り手を返してしまった。ビンタを受けた生徒は「ありがとうございました」と一礼。その後殴られた生徒が合格するということもあり、「縁起がいい」とオファーする人が増えた。

個人的に、ビンタ自体は好きになれなかったのですが、そこに集まるファンの気持ちもわかる気はします。

 

闘病の姿

重い病と闘っていると知ったのは、最近。NHKでの番組を視てのこと。随分と痩せていましたが、懸命にリハビリを続けていた姿が印象的でした。

 

猪木さんの人生を振り返ると、決して華々しいことばかりではなく、普通なら挫折しても不思議ではない出来事もありました。周囲が無理だろうと思うことにも果敢に挑戦し続け、数々の成功と共に、少なくない失敗もありました。

 

猪木さんを象徴する「燃える闘魂」という言葉があります。でも、闘病の姿を見て「燃える」のではなく「燃やす」のだと思ったのです。華々しい場所で勝手に燃えるわけではなかった。その裏で燃やすための努力をしている姿を垣間見た気がしたのです。

 

最後まで闘魂を燃やし続けた猪木さん、ありがとうございました。

安らかにお眠りください。

 

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<余談 『れすらマン』(永井豪)>

話はがらりと変わりますが、永井豪の漫画『れすらマン』はご存じでしょうか?

『れすらマン』のイメージ

とてつもなく強いレスラー、ジャントニオ猪場がある日突然、正義のために闘おうと決意。おもちゃの面二つを顔つけに、風呂敷?をマントにして活躍?暗躍?する漫画です。主人公、ジャントニオ猪場は、名前から推測できるようにジャイアント馬場と、アントニオ猪木をくっつけた名前。

 

いつどこで読んだのか、詳しい内容も憶えていませんが、その圧倒的なキャラクターが印象に残っています。検索して情報を得ました。1971年の週刊少年ジャンプに登場、その後幾つかの本にも掲載されたようです。

 

立ちションをしていた人を悪人として、全力でやっつけてしまう話もありました。ブラックジョーク満載なのですが、本人は真面目に正義を貫こうとしているのです。

 

もちろん、漫画は猪木さんを描いたものではありません。私が勝手に、猪木さんの正義感と漫画のジャントニオ猪場の正義感を繋げてしまって、記憶しているだけです。アゴの長さは彼の大きな特徴でした。また、よく言えば一途、悪く言えば無鉄砲な性格も似ています。

 

それらが合わさってなお、強烈なカリスマ性を維持できているのは何故でしょう。

人の心をぐぐっと鷲づかみしてしまうような豪快さ。

人はそこに惹きつけられていた気がします。

 

 

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